シベリウスの日曜日。.... 佐久間學

(10/10/3-10/22)

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10月22日

モーツァルトの台本作者
ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯
田之倉稔著
平凡社刊(平凡社新書538)
ISBN978-4-582-85538-8

ロレンツォ・ダ・ポンテという、ドーナツみたいな名前(それは、「ポン・デ・リング」)の人物は、「ダ・ポンテ三部作」みたいなくくられ方で、常にモーツァルトとのワンセットとして語られています。確かに、彼がモーツァルトに提供した3つの台本によって作られたオペラは、今や世界中のオペラハウスでの人気演目として、欠かすことは出来ないものになっています。その結果、ダ・ポンテといえば「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」の台本作家として、オペラ・ファンの間で知らないものはいないほどの存在となっているのではないでしょうか。もう少しコアなファンになると、モーツァルトと同時代のマルティーン・イ・ソレルやアントニオ・サリエリのオペラでも台本を書いていた人という認識も付け加えられることでしょうが、決してそれ以上の情報を、オペラ・ファン、あるいはクラシック・ファンが持つことはありませんでした。せいぜい「ダ・ポンテというのは、芸名だ」程度のガセネタが飛び交ったぐらいでしょうか。もちろん、クラシックに縁のない人にとっては、この名前は完璧に「知らない人」のものだったことでしょう。
しかし、今年の春に「ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い」(原題は「Io, Don Giovanni」、「私こそ、ジョン・ジョヴァンニだ」でしょうか)という、ダ・ポンテを主人公とした映画が公開されるに至って、その状況は一変します。この、「アマデウス」の焼き直しのような、決して史実に基づかないディーテイルを持つ映画では、この波瀾万丈の生涯を送った詩人の生い立ちや人となりが、曲がりなりにも「実像」として描かれていたのですからね。さらには、クラシック・ファン以外にもしっかりダ・ポンテという名前が浸透した、という効果も見逃せません。
しかし、今回ご紹介する著作は、そんなある意味「ブーム」に乗ったというような軽薄なものではありませんでした。そもそもは、さる出版者の依頼に応えたもので、ダ・ポンテ自身によって著された自伝に基づき、実際に現地に赴いてリサーチを行うというほどの綿密な手間をかけて書かれたものだったのですが、結局その企画は宙に浮いてしまって出版されることはありませんでした。それが、この映画によってダ・ポンテへの注目度がアップした機会に、陽の目を見た、ということなのですね。出版の経緯からして、なかなか劇的ではありませんか。
著者の田之倉さんは、自伝の内容に関しては懐疑的です。そこで、あくまで客観的な事実によって、彼の全生涯を詳細に語ろうとしてくれています。さらに、自伝で事実とは異なることを述べている部分についても、そこからダ・ポンテの人間性を明らかにしようとしていますが、そのあたりがとても面白く読めますね。なぜ、重要なことを語っていないのか、なぜ、ありもしないことを述べているのか、そんな検証からは、まさに「人間」ダ・ポンテの素顔をうかがい知ることが出来ることでしょう。
もちろん、我々にとって最も興味があるであろう、モーツァルトとの出会いについては、とても詳細に描写されています。事実を知ってしまうと今まで抱いていたイメージが崩れてしまう向きもあるかもしれませんが、やはり事実は事実として受け入れることは必要です。ただ、「ドン・ジョヴァンニ」の台本については、実際にそれ以前に同じテーマでオペラを作っていたガッツァニーガと、台本を書いたベルターティの名前まで揚げておきながら、「剽窃は言い過ぎ」という甘い裁定を下しているのは、ちょっと納得のいかないところですがね。
いずれにしても、今まで全く知らなかった「ウィーン以後」のダ・ポンテの様子をこれほどまでに詳細に伝えてくれているこの労作は、大変貴重なものです。

Book Artwork © Heibonsha Limited, Publishers

10月20日

CHERUBINI
Requiem in c
Frieder Bernius/
Kammerchor Stuttgart
Hofkapelle Stuttgart
CARUS/83.227(hybrid SACD)


レクイエムに関しては手当たり次第に紹介しているこのサイトですが、ケルビーノのレクイエムはこれが最初となります。曲自体は有名で、合唱団の演奏会などでも良く取り上げられているのですが、久しくCDSACD)は出ていなかったのでしょう。
ケルビーニは2曲の「レクイエム」を残しています。1816年に作られたこのハ短調の曲と、その20年後、1836年に作られたニ短調の曲です。ニ短調の方は、ケルビーニ自身の葬儀のためにと作られたものですが、合唱に女声が加わらない男声合唱で歌われています。それは、ハ短調の曲を他の人の葬儀で演奏しようとしたときに、「教会で女性が歌ってはならぬ」というお達しがあったためなのだそうです。せっかく作っても、そんな制約のために自分の葬儀で使えないのでは意味がないので、「安全策」を取って、男声だけにしたということですね。もちろん、1842年の彼の葬儀には、この男声版が演奏されたそうぎ
こちらのハ短調の方は、当時から傑作として認められていて、同時代の作曲家はこぞって絶賛しています。あのベートーヴェンもその一人、彼の葬儀のあとで行われた追悼ミサでもこの曲が演奏されたということです。
この曲の特徴は、ソロの歌手は登場せず、合唱だけで歌われているということです。さらに、オーケストラにはフルートが含まれていないため、全体は落ち着いた雰囲気に包まれています。しかし、「Dies irae」から「Lacrimosa」まで続けて演奏される「Sequentia」では、冒頭にトランペットのファンファーレに続いてなぜかドラの一撃が響き渡るという、一瞬のサプライズが設けられています。それはかなり効果的なインパクトを与えてくれますが、それに続くヴァイオリンのパッセージの中には、明らかにモーツァルトの曲からの引用が聞こえるのが、気になります。あの「Lacrimosa」の上昇音型も聞こえますしモーツァルトの曲では「Rex tremendae」の中に含まれる「salva me」という歌詞のフレーズとそっくりのメロディが、同じ歌詞にあてられていますよ。先ほどの「男声合唱版」では、もっとあからさまにモーツァルトが感じられるところもありますし。しかし、これは「盗作」というような次元のものではなく、偉大な先達に対するリスペクト、という風に考えるべきなのでしょうね。
同じようなことを、「後輩」ベートーヴェンが行った、と思われるのが次の「Offertorium」です。実は、この件は、こういう曲を聴くときに常に参考にしている井上太郎さんの労作「レクィエムの歴史」(平凡社刊)で述べられていることなのですが、この楽章の「47小節から76小節まで」は、ベートーヴェンが「第9」の終楽章を作るときに参考にしたのでは、というのです。もちろん、手元に楽譜があるわけはありませんから、楽章の頭から見当を付けて数えてみましたよ。そうしたら、確かに47小節からは楽想が変わっていて、その「ne cadant in obscurum」という歌詞の部分が、「第9」の最後近く(スコアでは「R」)、木管が「ウタタタタタ・ウタタタタタ」と静かに刻んでいる中を、囁くように「Ihr stürzt nieder, Millionen?」と合唱が歌う部分にそっくりでした。もっとも、これは言われなければ分からなかったかもしれませんがね。
ベルニウスは、本来はこの曲には含まれていなかった「Tractus」の楽章を「Graduale」と「Sequentia」の間に挿入しました。この前のチマローザがこの形ですね。ケルビーニが曲を付けてはいなかったので、プレイン・チャントが他のグレゴリアン専門の団体によって歌われています。そのことでも分かるように、いたずらに演奏効果を狙ったりなどしていない、敬虔な演奏が心にしみてきます。ひたすら同じ音を伸ばしている終曲「Communio」のエンディングも感動的です。おそらく、ピリオド楽器による演奏のSACDというのはこれが初めてなのでしょう。弦楽器の柔らかなテクスチャーが、すさんだ気持ちを慰めてくれるよう。

SACD Artwork © Carus-Verlag

10月17日

Piccolo Virtuoso
時任和夫(Pic)
藤田雅(Pf)
ENZO/EZCD-10011

アメリカの名門オーケストラ、フィラデルフィア管弦楽団で、首席ピッコロ奏者を29年にわたって務めている時任さんの、初めてのソロアルバムが出ました。時任さんと言えば、最近も「サイトウ・キネン・オーケストラ」のピッコロ奏者として日本の聴衆の前にも姿を現していましたね。もちろん、本来の「職場」での実績は、数多くの録音で多くの人が耳にしているはずです。
このアルバムの曲目を見て驚いたのは、彼のために作られた日本人作曲家の作品を除いては、すべて本来はピッコロ以外のために作られた曲ばかりが集められている、ということでした。その中には、なんとメシアンの「クロウタドリ(黒ツグミ)」などという、フルート以外の楽器で演奏することなど全く想定されてはいないようなものまで含まれていますよ。
まず、最初に聴こえて来たのが、日本では昔からフルートの学習用のピースとしてお馴染みの、テレマンのヘ短調のソナタです。それは、とてもピッコロで演奏されているとは信じられないほどの柔軟性あふれるものでした。音色は輝きに満ちていて、高音から低音まで全く均質、ピッコロ特有の時としてプリミティブに響く部分などは皆無であるのに驚かされます。そして、表現の幅の、なんと広いことでしょう。特に、この楽器の場合はコントロールがとても難しいはずのピアニシモをきっちり聴かせてくれるのには、さすが、としか言いようがありません。
それに続いて演奏されているのが、バッハのト短調のフルートソナタです。ヴァイオリンで演奏されることも多いこの、殆ど偽作とされている曲を、時任さんはテレマンと同じく、最近流行のいかにも「バロック」という先鋭的な表現ではなく、伝統的なかなりロマンティックなアプローチで、慈しみ深く歌い上げています。それだからこそ、ピッコロという楽器を殆ど感じさせない、ゆったりとした味わいが堪能できるのでしょうね。
「星々の記憶へ I」という、清水研作という作曲家によるピッコロ・ソロのための2006年の作品は、まさに時任さんの繊細なピッコロを想定して書かれたものなのでしょう。ピッコロ版「シランクス」もしくは「デンシティ21.5」といった趣の、特に難解な作曲上の技法や、超絶技巧をひけらかすようなことはせず、淡々と進んでいく曲です。
そして、メシアンです。この曲ではピッコロでは出せない低音の「C」が使われているので、それが出てくる2箇所だけは1オクターブ(というか、正確には2オクターブ)高く吹かれていますが、そんなことは言われなければ分からないほど、見事にピッコロに馴染んだものになっています。考えてみれば、メシアンが聴いていた鳥の声は、実際はフルートの音域よりははるかに高い音のはずですから、ここで初めて「リアル・クロウタドリ」が出現した、ということになるのではないでしょうか。
オーケストラのピッコロと言えば、いかにも華やかなもののような印象があります。ですから、今まで何度か聴いてきたピッコロ奏者のソロアルバムでは、そんな華やかさを前面に出した技巧的なパッセージ満載の曲が選ばれていたものでした。もちろん、それはこの楽器の主たる属性ではあるのですが、それだけにはとどまらない別な側面もあるということを、時任さんはここで見せつけてくれました。それこそが、真の意味の「Virtuoso」なのでしょうね。このようなしっかりとした技術と音楽性の裏付けがあるからこそ、オーケストラの中のいかにも「目立つ」ところでも自信を持って演奏することが出来るのでしょう。
一つだけ残念だったのは、テレマンのソナタの第3楽章で、高音の「G」の音程が決まらなかったのがそのまま録音されていることです。ライブではないので、録り直すことは可能だったはず、これは、ミスをみすみす見逃した現場スタッフの責任でしょう。

CD Artwork © Veritas Ltd.

10月15日

WAGNER
Rienzi
Torsten Kerl(Rienzi)
Camilla Nylund(Irene)
Kate Aldrich(Adriano)
Philipp Stölzl(Dir)
Sebastian Lang-Lessing/
Chorus and Orchestra of the Deutsche Oper Berlin
ARTHAUS/101 521(DVD)


ワーグナーの初期の作品、「リエンツィ」といえば、「演奏するのに6時間を要する冗長な作品」というイメージが定着、なかなか実際に上演されることはありませんでした。全曲盤のCDは確か1種類は出ていたはずですが、映像は今までは存在していなかったのではないでしょうか。ですから、おそらく今回初めての映像がDVD(と、ブルーレイ)、しかも日本語字幕付でリリースされたのは、画期的な出来事です。序曲だけは良く知られていても、その内容は誰も知ることはなかったという、いわば「幻の」作品が、これで陽の目を見ることになったのですからね。
なにしろ「6時間」ですから、DVDだったら3枚組かな?と思ってパッケージを見てみたら、メイキング映像を含めて2枚組、しかもオペラ自体は156分、2時間半ちょっとというのですから、なんだか拍子抜けしてしまいました。ちっとも長くないじゃん。実は「6時間」というのは休憩を含めた上演時間で、正味だと4時間とちょっとなんですね。それにしてもやはり長いことに変わりはなく、これは全5幕のものを、適宜カットを施して「2部」にまとめたバージョンだったのです。現在のヨーロッパのオペラハウスでは、これに近い形で上演されることが普通のスタイルになっているようですね。どうやら、このぐらい切りつめた方が音楽的にも、そしてストーリーもすっきりして、作品の肝心の部分も損なわれることはないそうなのです。
今年、2010年にベルリン・ドイツ・オペラでのプロダクションを任されたシュテルツルは、ここのアーティスティック・プロダクション・マネージャーのクリスティアン・バイアーとともに、この「ダイエット」作業を行いました。メイキング映像では、歌手たちが「これは歌いたい」などと言っていて、それが採用されていますから、それは現場で出演者たちの意見も聞きながらの作業だったようですね。
「リエンツィ」の初体験(「離縁」はまだ体験してませんが)、それはなかなかのインパクトを与えてくれるものでした。本来の舞台はローマ時代、市民階級の一人の男が「護民官」となって(この作品のサブタイトルが「最後の護民官」でしたね)民衆に自由を与える指導者として君臨するのですが、やがて民衆の心は彼から離れてゆき、最後は殺されてしまうというプロットです。これは、なんの読みかえをしなくても、前世紀にドイツで起こったことをそのまま当てはめることが出来ます。現に、20世紀の「指導者」その人が、このオペラを我が身に置き換えて多いに堪能していた、という「事実」もあるそうですから。
もちろん、シュテルツルは、そのアイディアをとことん推し進めています。なんと、あのリーフェンシュタールの映画のパロディまで登場しますよ。そして、その「指導者」を最初は持ち上げ、のちには没落させることになる民衆には、かなりの力を入れたことでしょう。オペラハウスの正規の合唱団だけではなく、エキストラの団員をあわせて120人ものメンバーが、舞台狭しと動き回ります。異様にテンションの高いオーケストレーションと相まって、これでもかと言うぐらいの迫力がこの合唱からは押し寄せてきます。
音楽自体はそんな迫力が勝った「若書き」であるのは否めませんが、後のワーグナーのモチーフがあちこちに顔を出しているのがほほえましいところです。本来の第2幕の最後の合唱などは、「タンホイザー」そっくりですし。
ソロも、やはりハイテンションの声を要求されます。タイトルロールのケルルが、それに見事に応えて、最初から最後までものすごい存在感で音楽をリードしています。殆ど出ずっぱりですから、さすがに最後はいくらかバテ気味でしたが、そこで歌われる、おそらく彼自身のリクエストでカットされずに済んだ、序曲にもあるテーマを使ったリリカルなアリアは、絶品でした。

DVD Artwork © Arthaus GmbH

10月13日

MOZART
Cosi Fan Tutte
Malin Hartelius(Fiordiligi)
Anna Bonitatibus(Dorabella)
Martina Janková(Despina)
Javier Camarana(Ferrando)
Ruben Drole(Guglielmo)
Oliver Widmer(Don Alfonso)
Sven-Eric Bechtolf(Dir)
Franz Welser-Möst/
Orchestra and Chorus of the Zurich Opera House
ARTHOUS/101 495(DVD)


小澤征爾の後釜として、ウィーン国立歌劇場の音楽監督となったウェルザー・メストの、前任地でのほぼ最後の仕事となった「コジ」の映像です。このDVDはもちろん輸入盤ですが、ケースには字幕はイタリア語、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語としか表示されていません。しかし、メニューを開くと、そこにはしっかり「日本語」も選択肢に入っています。これは日本向けに特別に付けさせたものなのでしょう。確かに、日本で作った「帯」には「日本語字幕つき」と書いてありましたね(お、びっくり)。これは、全く期待していなかっただけに、新鮮なサプライズでした。しかも、以前同じレーベルでみられたようないい加減なものではなく、とてもきちんとした字幕でしたから、喜びもひとしおです。
いつもそうなのか、モーツァルトだからなのかは分かりませんが、ウェルザー・メストはピットにもぐった形ではなく、客席から上半身は完全に見えるぐらいの高い位置で指揮をしています。従って、序曲の間だけではなく、シーンの最中でも彼の指揮ぶりはよく見ることができます。そんな時に、彼のとてもしなやかな指先などを見ていると、この人は思ったほど悪い指揮者ではなかったことが分かってきます。ここでは緩急を自在に操って、とても立体的なドラマを、音楽で語ることに成功しているのではないでしょうか。
歌手たちも、ハルテリウスやヴィドマーといったベテランを中心に、実力者揃いのラインナップです。デスピーナ役のヤンコヴァーは、その中でもひときわ光っていました。フェランド役のカマレナあたりが穴といえば穴でしょうか(この人、「外国人」に変装すると、朝青龍そっくりなので、笑えます)。
演出の面では、ありがちな「読みかえ」などは、とりあえずないものだ、と思いましょう。衣装は本来の時代設定、男たちはかつらを着けたロココ風のスタイルで現れます。もちろん、女たちは胸を大きく開け、腰をコルセットで締め付けたドレスを着ています。ただ、ステージのセットは一切の装飾を排したシンプルなものです。ど真ん中に緑の葉をたわわに付けた大きな樹が置かれ、そこから左右対称に白い壁面が広がっています。おそらく、このステージのコンセプトは「シンメトリー」だったのでしょう。出演者の動きもかなり「シンメトリー」が意識されているようですね。結局、この話の骨格である疑似スワッピング=シンメトリーという発想なのかもしれません。
ところで、「コジ」といえば、その結末がどうなるのか、という点が常に興味の対象となってきます。こちらにまとめたように、そこには今までさまざまな「解決策」が多くの演出家によって示されてきていました。しかし、今回のベヒトルフのプランは、そのどれとも異なっていて、驚かされます。(ここからはネタバレになりますので、文字の色を背景と同じにしておきます。読みたい方は選択して反転させて下さい)

それは、第2幕のフィナーレ第16場でグリエルモがつぶやく「ああ!毒を飲めばいい!この恥知らずの女狐ども」というセリフを、そのまま実行させる、という手でした。第1幕のフィナーレ第15場で男たちが「飲んだフリ」をした毒の入った瓶が、なぜかステージの上に置いてあったのを見つけたグリエルモは、自分のグラスのシャンパンを飲み干し、そこにこの「毒」を注ぐのです。幕切れは、4人揃って仲直りの杯を干すというプランですが、その毒の盛られたグラスを持ったのはフィオルディリージ、彼女は訳も分からぬまま、目をむいてその場に倒れ、こときれるのです。

騙したのはあくまで男たちですが、それを真に受けて「不貞」をはかった女たちは、決して許されることはなかったのです。男の嫉妬って、怖い・・・。

DVD Artwork © Arthous Musik GmbH

10月11日

BRAHMS
Symphony 4
John Eliot Gardiner/
The Monteverdi Choir
Orchestre Révolutionnaire et Romantique
SOLI DEO GLORIA/SDG 705


ガーディナーのブラームス・ツィクルスの最後となる、交響曲第4番を中心としたアルバムです。第3番の時と同じように、交響曲に関連した合唱曲を同時に演奏したコンサートのライブ録音という形態をとっています。
その合唱曲が、これまでのブラームス近辺のロマン派の作曲家の作品からもう少し時代をさかのぼった、18世紀のバッハとか、さらには17世紀のシュッツ、ガブリエリあたりにまで拡大されているのも、興味深いところです。もちろん、これはこの交響曲がそのようなバロック時代の語法をかなり取り入れているからに、他なりません。特に、フィナーレの骨格をなす「シャコンヌ」という様式は、まさにそんな時代の産物ですからね。ここで演奏されているバッハのカンタータBWV150では、それと殆ど同じコード進行を持つシャコンヌが現れます。ブラームスの場合は(固定ドで)「ラ・シ・ド・レ・レ♯・ミ・ミ↓・ラ」というテーマなのに対して、バッハは音価はちょっと違いますが「ラ・シ・ド・レ・ミ・ミ↓・ラ」というベースラインなのですからね。
もう一つ、オーケストラ曲でもガーディナー自身がこの交響曲との類似点があると指摘している、ベートーヴェンの「コリオラン序曲」が、最初に演奏されています。農家の婚活がテーマの曲ですね(それは「ヨメオラン」)。確かに、この曲の冒頭の「ジャーッ、ジャン」というモチーフは、ブラームスのシャコンヌのテーマに続いてすぐ出てくる第1変奏に良く似ていますね(ちなみに、このベートーヴェンのモチーフは、そのあとにゲネラル・パウゼがあるので、コンサートホールでの残響の必要性を説明する時に「ベートーヴェンは残響を計算して、この曲を作った」と語られたりします)。
その「コリオラン」は、とても颯爽とした、疾走感あふれる仕上がりになっています。そのように感じられるのは、フレーズの終わりなどにありがちな「タメ」が全くないばかりか、時にはテンポの流れを追い越すほどの機敏なビートで突き進んでいるからなのでしょう。ちょっと前までは考えられなかったようなベートーヴェンへのアプローチですね。でも、これをやっておくと、甘美な第2主題が、なにもしなくてもとっても美しく聞こえてきます。
続いて、合唱のコーナーです。ジョヴァンニ・ガブリエリの12声のミサなどは、オーケストラの金管セクションも加わって華やかに演奏されていますが、これはベートーヴェンとは逆の意味で「ありがち」なスタイルからは距離を置いているように感じられます。シュッツも同じことなのですが、歌い方がかなり「熱い」のですね。バッハではオブリガートのファゴットの、なんとロマンティックなことでしょう。ライナーの中のガーディナーのインタビューでは、これらの曲はブラームス自身によって演奏されたこともあったという「史実」が語られています。もしかしたら、これらはそんなブラームスの時代の様式を踏まえた演奏だったのかもしれませんね。
それだけの周到な準備の末に演奏された交響曲第4番は、すこぶるチャーミングな味を出していました。基本的にかなり速めの小気味よいテンポ設定が、重厚さとはまるで無縁の世界を形作ります。第1楽章の「C」あたりで見られるタンゴのようなリズムは粋そのもの、第2楽章では管楽器が紡ぎ出す綾が素敵です。第3楽章などは、あまりの速さに管楽器がついていけないことから、ちょっとユーモラスな気分さえ醸し出しています。そして、フィナーレのシャコンヌは、まさに深刻さが一掃された変奏の妙を味わうことが出来ます。第12変奏のフルートの長大なソロは、そんな流れの中で気負いの抜けたユルさを見せていましたね。低音がまるでオーボエのように響く、「ピリオド楽器」なのでしょうか。

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd

10月9日

BACH
Passio Secundum Johannem
Julian Prégardien(Eva)
Benoît Arnould(Jes)
Benoît Haller/
La Chapelle Rhénane
ZIG ZAG/ZZT 100301.2


オペラ歌手としても活躍しているブノワ・アレが、2001年に創設、指揮者を務めている「ラ・シャペル・レーナン」という、教会のような名前(それは百恵ちゃんが結婚式を挙げた「霊南坂」?)のソリスト集団は、今までにK617レーベルにシュッツやブクステフーデを録音していました。この団体には専任のプロデュースからレコーディングまでこなせるスタッフがいて、そのフェルターという人はライナーに写真まで載っていますから、まさにメンバーの一人、という扱いなのでしょうね。ですから、今回のように別のレーベルからCDをリリースするときにも、演奏メンバーは余計な心配をすることはないのでしょう。まさに鮮烈としか言いようのない独特の主張を持った録音は、この団体が醸し出す刺激的なグルーヴを、見事に再現してくれています。
今回の「ヨハネ」で彼らがとった編成は、4声部の合唱が各パート2人という、リーズナブルなものでした。もちろん、それぞれのメンバーが交代でソロのアリアも担当します。ただ、テノールだけはエヴァンゲリスト専任でもう一人参加しています。その人は、ジュリアン・プレガルディエン、名前でお分かりのように、あのクリストフ・プレガルディエンの息子、弱冠26歳のイケメンです。いや、外観だけではなく、その歌もとても素晴らしい人です。変な癖のないとても澄み切った歌い方、それでいて説得力とドラマ性を存分に備えているという、まさに理想的なエヴァンゲリストです。
その他の人たちも、それぞれに力のあるところを見せつけてくれていますよ。その中で一番印象に残ったのは、9番のアリア「Ich folge dir gleichfalls」を歌っているソプラノのサロメ・アレ(指揮者の奥さんでしょうか)です。なにしろ、歌い方がとても自由奔放なのですよ。別に装飾を付けているわけではないのですが、とても不思議なテンポ感を持っていて、そう、ほとんど「演歌」のノリで思う存分にルバートをかけているのです。これが、なぜかとても生き生きとしたものに仕上がっているのですね。
そんな、一見個性的な人たちも、合唱のパートに入った時にはぴったりアンサンブルにハマります。それが、たとえば「磔」のシーンなどでは、とてつもなくドラマティックな表現を見せてくれるのですから、もう感服です。
この演奏は、もう一つの特徴を持っていました。それは、ところどころに「第2稿」でしか使われていない音楽を用いている、ということです。「ヨハネ」の場合の「稿」の問題は複雑を極めていて、いまだに真相は解明されていない部分もあるのですが、その一つの見解がこちらにあるので、まずそれを参照してみてください。このあたりの状況は、奇しくも前回ご紹介した磯山さんの著作ではまさに「見てきたように」綴られています。
ということで、アレがとったのは、この「5つ」の「稿」の中から、最も良いと思ったものをつなげるという、「いいとこどり」の手法でした。それを実際に検証してみると、基本的に新全集版(もちろん、付録ではなく本体)に忠実に演奏しているのですが、「第2稿」で変更のあった部分は、第1番の合唱を除いては「第2稿」のコンテンツに差し替えています。そして、最後のコラール(40番)も「第2稿」の「Christe, du Lamm Gottes」が歌われるのですが、そのあとにトラックはそのままで少し余白を入れてから、新全集の「Ach Herr, las dein lieb Engelein」が歌われています。
事実はこういうことなのですが、なぜか指揮者はライナーで、「オープニングの合唱だけは1724年稿(第1稿)だが、他の部分は1725年稿(第2稿)に相当するもの」と述べています。これが明らかな間違いであることは、先ほどの資料をご覧になれば容易に分かるはずです。たとえば、先ほどの第9番なども、ここで演奏されているのは新全集の「付録」にある「1725年稿(=1724年稿)」ではなく、「本体」で採用された「未完のスコア」の形なのですからね。

CD Artwork © Zig-Zag Territoires

10月7日

バッハ=魂のエヴァンゲリスト
磯山雅著
講談社刊(講談社学術文庫)
ISBN978-4-06-291991-3

1985年に東京書籍から刊行された名著、磯山雅さんの「魂のエヴァンゲリスト」が、文庫本となりました。今でこそ磯山さんはバッハ研究の第一人者となっていますが、この本を書かれた頃はまだそのような意識はご本人にもなかったことを初めて知って、ちょっと驚いているところです。というか、この本を書いたことで、その後の研究の道がかなり変わったようなところもあったのだとか。なにがきっかけになるか分からないことが、世の中にはたくさんあるのですね。
なんせ25年も前の本ですから、その間のバッハ研究の進展を考えると、そのまま文庫化したのではほとんど意味がなくなってしまうような部分も出てきかねません。そこで、磯山さんは、今回大幅な加筆を行っています。もちろん、そのままの部分もあえて残していたりしますから、そのあたりの修正の跡をたどったりするのも、読者にとっては一つの興味の対象ですね。そうすると、この25年の間にバッハに関していかに多くのことが分かったかを知ることが出来るはずです。しかもそれらはいまだに進行中のものもあるのですから、この「巨人」の業績はとてつもなく大きなものであることが、いまさらながら認識できます。
そんな読み方はまるでバッハの自筆稿の研究みたい。でも、「ロ短調」で、後にエマニュエルなどが加筆した部分を取り除いて、バッハ自身が書いた部分だけを抽出する、という作業が、たとえば使われているインクを分析するなどといった「科学的」な手法を用いて行われているそうですが、こちらはちゃんと元の本がありますから、そんな面倒くさいことは必要ありません。
そんな、たとえば「ロ短調」を作っているときのバッハの様子などを、まるで見てきたように生々しく描いているのが、この本の最大の魅力ではないでしょうか。基本的にこれはバッハの評伝なのですが、単に生涯をなぞるだけではなく、その時々の作品を通して、彼がどのような姿勢で音楽に向かっていたかを浮き彫りにする、という手法が秀逸です。ただ、そこで特に詳しく扱われている作品は、必ずしも誰もが知っているというものではありませんから、単に説明を読んだだけではなかなか伝わらないものがあるかもしれません。そんなときに、実際に音を聴きながら読むという、今ではよく使われるやり方を併用すれば、さらに著者の情熱は強く感じられることでしょうね。
最後の章では、評伝からはひとまず離れて、20世紀におけるバッハの演奏史についての著者の見解が述べられています。「ロマン主義的演奏の時代」、「新即物主義的修正の時代」、「現代的蘇生の時代」、「オリジナル主義勃興の時代」という4つの時期に分けてそれぞれの時代を代表する演奏家を紹介、それを現代からの視点で検証しています。特に、最近は殆ど使われることのなくなった感のある「新即物主義」という、分かっているようで分からない言葉の意味するところについては、明快な説明が得られます。あくまで「修正」にとどまっていたのですね。
そして、最後の「オリジナル主義」については、あえて1985年の時点での記述には手を入れず、新たに「21世紀に入って」という項目を設けて、2010年の時点での状況を述べています。これこそが、この25年の間というものが、バッハ演奏には限らずすべての面で大きな転換を迎えた時期であることを見事に物語っている部分です。その中で、個別の演奏家に対する評価も微妙に変わってきているあたりが面白いところです。以前は「次代を背負って立つ」とまで持ち上げていたトン・コープマンも、現在では「演奏に出来不出来の激しいことがいかにも惜しまれる」ですからね。
巻末の「楽曲索引」を見て驚きました。この本の中では、バッハのほぼすべての作品について言及されていたのですね。この労作に感謝を込めて「ゲンキュー・ベリマッチ」。

Book Artwork © Kodansha Ltd.

10月5日

VERDI
Messa da Requiem
Luba Orgonasova(Sop), Anke Vondung(MS)
Alfred Kim(Ten), Carlo Colombara(Bas)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 98.606


リリンクという人は、なんか「草食系」という感じがしませんか?それがもろ「肉食系」のヴェルディのレクイエムを振るというのは、ちょっとミスマッチな気がしてしまいます。彼はもちろん宗教音楽のオーソリティではあるのですが(「僧職系」、ですね)、ホームグラウンドはなんといってもバッハを中心としたバロックもの、といったイメージもありますからね。しかし、彼の場合は今作られたばかりの「現代曲」でもバリバリ演奏してしまうのですから、当然ヴェルディでもなんなくレパートリーに入っているのでしょうね。
何よりも、彼は、この曲の「元ネタ」である、13人の作曲家による「合作」レクイエムの「初演」をした人なのですから、そもそもヴェルディとは浅からぬ因縁があるわけです。1868年に亡くなったあのロッシーニを追悼するために、ヴェルディが音頭をとって当時のイタリアを代表する作曲家に呼びかけて作られた「レクイエム」は、1869年に初演を迎えるべく準備が進められ、スコアも完成したのですが、「オトナの事情」で結局演奏されることはありませんでした。それを1988年に「初演」したのが、リリンクだったのですね。その時の録音はCDで出ていましたし、最近DVDもリリースされたようです。しかし、そこでヴェルディが担当した「Dies irae」以外は、正直つまらない曲でしたね。それ以降、この曲を録音した人がいたかどうかは、寡聞にして知りません。
おそらくリリンクは、この「ロッシーニ・レクイエム」を演奏したときから、当然ヴェルディのレクイエムを演奏して録音する機会をねらっていたのではないでしょうか。それから20年以上経った2009年に、まさに満を持して、ほぼ完璧な演奏者とともにこの曲を録音することが出来ました。
ソリストには、スロヴァキアのオルゴナショヴァー、ドイツのフォンドゥンク、韓国のキム、イタリアのコロンバーラという、国際色豊かな面々が集められています。そして、オーケストラはノリントンのもとでランクが高められたシュトゥットガルト放送交響楽団、もちろん合唱は、リリンクの手兵、ゲヒンガー・カントライです。
オーケストラは、ノリントンの時には例の「ノン・ビブラート」を強いられていますが、他の指揮者では普通に「コン・ビブラート」で演奏しています。しかし、おそらくノリントンは、ビブラートを取ってごまかしのきかないシビアな状態になったときに、きっちり「ハモる」ような訓練を、このオケにみっちり施していたのでしょうね。そこで得られたであろう精密なハーモニー感は、ビブラートをかけた時でもえもいわれぬ美しい響きを醸し出すことになりました。そんな、「ピュア」な響きを、何度味わえたことでしょう。この曲は、とにかく音の大きさの振幅が極端ですから、ともすれば静かになったところで神経が行き届かないことがありがちなのですが(その最も危ないところが、「Offertorio」冒頭のチェロの上向スケール。さる地方オケが、見事に醜態をさらしていました)、ここでは、弦楽器のアンサンブルが出てくるところでは常に至福の喜びを味わえます。
ソリストの中では、初めて聴いたキムの確かな表現力には、感服してしまいました。最初の「Kyrie」という一声から、もう圧倒されてしまいます。そして、そんな「張った」声だけではなく、「抜いた」声のなんと美しいことでしょう。それは、「Offertorio」の中の「Hostias」という部分、ここでこんな繊細な歌い方を聴いたのは、初めてのような気がします。
ところが、それに続いて5度下で同じメロディを歌い出すコロンバーラの、なんという存在感のなさでしょう。声に輝きはないし、何よりも音程がひどすぎます。「画竜点睛を欠く」とは、まさにこのようなことを指し示すのでしょうね。
闇雲に疾走する印象の強い「Dies irae」も、リリンクは堅実に仕上げています。やはり彼は「草食系」でした。

CD Artwork © Hänssler Classic

10月3日

The Sibelius Edition
Choral Music
V.A.
BIS/CD-1930/32


シベリウスの没後50周年という記念の年であった2007年からスタートしたBISによる「シベリウス全集」も滞りなくリリースが続き、このたび全13巻のうちの11巻目にあたる「合唱曲」が発売となりました。シベリウスの全作品を、断片や異稿までも含めてすべて「音」にしようというこのプロジェクトも、あとは「交響曲」と、「その他」を残すだけとなります。ただ、これがシベリウスの祖国フィンランドではなく、お隣のスウェーデンのレーベルによる仕事というのが皮肉なところですね。確かに、今のフィンランドには、これだけのことを成し遂げる力を持ったレーベルは存在していません。かつてはフィンランドを代表するレーベルだったFINLANDIAは、WARNERの傘下に入ったと思ったら、いつの間にか消滅してしまいましたし、その後釜と期待されたONDINEは、なんとあのNAXOSの「ファミリー」になってしまいましたからね。先行きは不安です。
この全集は、それぞれの巻が厚さ3センチほどのしっかりとしたボックスに入っています。13巻をすべて揃えて棚に並べると、そこには見事に広大なフィンランドの湖の風景が広がる、というぜいたくなデザイン、これこそが、「物」としてのCDの醍醐味です。ネット配信では、絶対にこんなことはできませんって。
CDは、それぞれの巻に5枚から6枚ずつ入っているのですが、すべて「3枚分」の価格になっているあたりがお買い得感をそそります。確かに、6枚入りのこのボックスも、品番は「3枚分」しかありませんし。もっとも、それはこの「全集」がもっぱらすでにリリースされている音源を集めたものである、という事情も関係しているに違いありません。まあ、6枚のうちの3枚分ぐらいはすでに持っていても、この値段なら買ってもいいかな、と思わせるような「賢い」価格設定なのでしょう。
ボックスの中に入っているCDは、ただスリーブに入っただけの薄っぺらなものですが、その分ブックレットが分厚いものになって3センチの空間を埋め尽くしています。それだけの厚みを持っている訳は、中を開けば分かります。なんと、それは英語、フィンランド語、スウェーデン語、ドイツ語、フランス語、そして日本語という6カ国語のテキストによるものだったのですからね。あ、もちろん日本語はローマ字ではなくしっかり明朝体のフォントで印刷された「日本文」ですよ。ただし、その訳文は「日本語」には程遠い粗悪なものなのですが。
そんな粗悪さの一つの例が、おそらくこの6枚のCDに収められている中では最も有名な「合唱曲」、「フィンランディア」に関する解説です。もともとは1899年に作られた同名のオーケストラ曲で、当初はそれを合唱曲にすることは作曲者の念頭にはなかったのですが、後になって1938年に、その中のメロディアスな部分にヴァイノ・ソラという人の歌詞を付けた男声合唱曲を作ります。それを、1940年に、今度はヴェイッコ・アンテロ・コスケンニエミという人の、より「フィンランド」を意識した歌詞のものに改訂します(これも男声合唱)。さらに、1948年には男声版と同じ変イ長調と、もう一つヘ長調の2つの混声合唱バージョンがつくられます(歌詞はコスケンニエミ)。つまり、合唱曲としての「フィンランディア」には、全部で4種類のバージョンが存在していて、それらはすべてこのボックスに収められているのですが(なぜか、ヘ長調の混声バージョンが、半音高く歌われています)、この日本語訳では男声バージョン1、混声バージョン2の3つのバージョンが存在しているようにしか読み取れないのですね。
いずれにしても、そんな版の違いなどもすべて音で確認できますし、なによりも、これが世界初録音となる学生時代の習作が聴けるというのがたまりません。それぞれの作品にはさらにいくつかのバージョンがあり、若き日のシベリウスの推敲の跡までも体験できるのですから、サイコーです。

CD Artwork © BIS Records AB

おとといのおやぢに会える、か。


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