他人ベッド。.... 佐久間學

(10/8/23-9/11)

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9月11日

Ghibli
Dietmar Wiesner(Flutes)
Ruth Velten(T Sax)
ENSEMBLE MODERN/EMCD-011


「アンサンブル・モデルン」のメンバーは、人気があるそうですね(「アンサンブル・もてるん」)。そんなメンバーの一人のフルート奏者、ディートマー・ヴィースナーのソロアルバムです。大半が現在活躍している作曲家のものですが、最初と最後に物故者の作品がチョイスされているあたりが、なかなか的確なセンスです。その最初の曲が、まさにフルートにおける「現代曲」のさきがけとも言える、ヴァレーズの「デンシティ21.5」です。曲の途中でキイを「叩いて」打楽器のような効果音を出すという指示があるのが、「現代曲」たる所以、しかし、他の部分ではもっと「歌」があっていいものを、まるでロボットのように無表情に演奏されてしまうと、なんだか「現代音楽」の悪い面だけが強調されているような気にもなってしまいます。
2曲目、ポルトガルの作曲家エマニュエル・ヌネスの「フルート・ソロのための『アウラ』」あたりが、そんな「悪い」ものの典型かもしれません。いきなり、ジャズ・フルートみたいな「声」を伴った演奏、それからはありとあらゆる「現代技法」が登場して、確かに「フルートの可能性」を存分に広げて見せてくれてはいるのですが、それらを軽々と操っているヴィースナーのテクニックの冴えには感心しながらも、「そんなに一生懸命やって、なんになるの?」といった正直な声が聞こえてきてしまいます。これが作られた1980年代とは、そんな頑張りがそろそろ見直され始めてきた頃だったような気がします。
3曲目は、アンサンブル・モデルンの創設者、キャシー・ミリケンの「ピッコロ、フルート、バスフルートのための『ラウンド・ロビン』」。これも、基本的に頑張っている作品ですが、3種類の楽器でそれぞれの持ち味を体験してもらおうという試みは大成功、特に最後のバスフルートの迫力には、こんな大きな楽器すら軽々と操っているヴィースナーのスキルと相まって、圧倒されてしまいます。
そして、次が、ヴィースナー自身の作品「アルトフルート、テナーサックスとテープのための『ギブリ』」です。「テープ」というのは、電子音やミュージック・コンクレートのような具体音を編集した、ギンギンのサウンド・エフェクトのことです。その、まさに「熱風」とも言うべき暑苦しい音楽が収まると、そこで作曲者のアルトフルートと、若くて美人(たぶん)のサックス奏者、ルート・フェルテンのテナーサックスによる、それまでとは様子の異なるスタティックなミニマルっぽいデュオが始まります。これはなかなか気持ちの良い、「楽しめる」現代音楽ですね。最後のパートでは、「テープ」と一緒に、この二人がとてつもないユニゾンを披露してくれます。それが、なんとも「現代的」な興奮を産んでいます。
アンサンブル・モデルンのピアニストであるヘルマン・クレッツシュマーの作品は、「フルート・ソロのための『インフレーション』」です。これは、本当に1本のフルートだけが、さまざまな単音を時間の中にちりばめていく、といった趣の曲です。その単音の間の密度が徐々に濃くなっていく様が「インフレーション」なのでしょう。クセナキス的な、「メロディ」や「リズム」とは無縁の世界が広がります。
同じ1本のフルートでも、アラン・ファビアンの「フルートと、リアルタイムでデジタル処理されたフルートの音による『レゾナンス』」は、ライブ・エレクトロニクスの手法を用いた、テクノロジーなくしてはあり得ないまさに今の「現代」ならではの作品です。
そして、最後を締めるのが、1955年に作られた(トラックリストにある「1995年」というのは、間違いです)アメリカの作曲家ジェームズ・テニーの、「フルート・ソロのための『ポエム』」です。冒頭の「デンシティ」に呼応するのなら、本来なら「シランクス」なのでしょうが、これはそのドビュッシーの名曲を見事にパクった唖然とさせられる曲です。

CD Artwork © Ensemble Modern Medien

9月9日

Boulez Conducts Ravel
Pierre Boulez/
New York Philharmonic
The Cleveland Orchestra
SONY/88697689682


かつての「RCA」も完全に手中にしたSONYは、その有り余るほどのカタログを手を変え品を変えリリースしようとしています。そんな中で、最近の「Originals」という、かつてどこかで見たことがあるような名前のシリーズにちょっとそそられました。それこそ「オリジナル」のジャケットが使われているというのですね。昔LPで持っていたブーレーズのラヴェルなどは、かなり鮮烈な印象のあったものですから、改めて聴いてみるのもいいかな、と思いました。ただ、同時にリリースになった別の、少し価格帯の低いシリーズにも、同じようなカップリングのものがあるので、どちらを買おうか迷ってしまいます。そんなあたり、買う人のことを全く考えていない独りよがりなレーベルの正体を見た思いですね。
届いたものは、殆ど「2 on 1」といった感じの、LP2枚分の分量の曲が入ったCDでした。そして、ブックレットの裏表紙には、その、もう1枚のLPのジャケットがあるではありませんか。

これが、かつて持っていたLPでした。とてつもなくかっこいいジャケットですよね。ほとんど「アート」とも言えるクオリティの高さ、この頃は、クラシックのジャケットも力が入ってました。これがブーレーズのラヴェルとしては最初にリリースされたもの、1969年に録音されていて、オーケストラはクリーヴランド管弦楽団でした。そして、表のジャケットは、1974年にニューヨーク・フィルと録音された2番目のラヴェル集のものです。さらに、「ボレロ」だけは、同じ時期に録音されたもののずっと後、1983年にやっとリリースされたものです。都合3枚のLPからのコンピレーション、これのどこが「オリジナル」だというのでしょう。
まず、LPの追体験のために、クリーヴランドで録音された「スペイン狂詩曲」から聴いてみます。これは、今聴いてもゾクゾクするような素晴らしい録音ですね。当時の「CBS」の特徴がよく分かる、とても密度の高い音です。その上に、ブーレーズの音楽はとてもメリハリがきいています。それは、オーケストラのすべてのパートを完全に掌握した上で、自分の設計通りのものをきちんと作り上げているという潔さです。最後のクライマックスの高揚感さえ、きちんと計画的に作り上げたものだという、恐るべき統率力が、ここでは発揮されています。ある意味、「再生芸術」としての一つの理想的な姿があるのではないでしょうか。これに比べると、例えば最近のエマールとのライブ録音(DG/00289 477 8770)にあまり魅力が感じられないのは、そんなハッタリのようなものが今ではばったりと消え失せてしまっているせいなのかもしれません。
ニューヨークでの録音では、クリーヴランドに比べると生々しさという点では多少物足りないものになっています。おそらく、この頃から徐々に個々の楽器ではなく全体の雰囲気のようなものを大事にするような録音の傾向になっていった、そんな過渡期の「迷い」のあらわれかもしれませんね。しかし、そんなことはお構いなしに、ブーレーズの自信に満ちた演奏は続いていました。「ラ・ヴァルス」での、いかにも人工的な「ウィーン風」のリズムなどは、ここまで徹底されることによってなんともアイロニックな趣が見えてきます。
「マ・メール・ロワ」は、最近では主流となった室内オーケストラの編成ではなく、あくまでフル・オーケストラとしての華麗な響きを目指したものです。さらに、「ボレロ」も、延々と続くクレッシェンドの計画性は、見事としか言えません。その結果、ダイナミック・レンジの設定がとんでもないことになって、最後に出てくる小節の3拍目のドラの強打は、すさまじいインパクトを与えてくれます。
思いがけず、予想をはるかに超えるCDの音を体験してしまいました。せっかくDSDのマスターを作ったのですから、こんなすごい録音こそ、ぜひともSACDで出してもらいたいものです。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

9月7日

BRIGGS
Missa for Notre Dame
David Briggs(Org)
Stephen Layton/
The Choir of Trinity College, Cambridge
HYPERION/CDA67808


デイヴィッド・ブリッグスという、1962年生まれのイギリスのオルガニストでもある作曲家の作品集です。タイトルのミサ曲などを、自らのオルガン演奏とともに聴かせてくれています。コーラスはレイトンと、彼の持つ多くの合唱団の一つ、ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団です。
このアルバムが録音されたのは、ブリッグスがオルガニストを務めるグロスター大聖堂、もちろん、彼はその中にあるフランス風のストップを持つ大オルガンを演奏しています。余談ですが、映画版ハリー・ポッターのロケ地にもなったこの大聖堂は「Gloucester Cathedral」という英語の綴りですから、知らない人はそのまんま「グローチェスター大聖堂」と読んでしまうかもしれませんね。「Worcester」という地名も、ブルドッグの「ウースターソース」がなかったら、「ウーチェスター」と読むのが日本人にとっては自然なことなのですからね。見事にそんな間違いを犯してしまったのが、おなじみのメーカー・インフォ。おかげで、ネットには「グローチェスター大聖堂」という実在しない建物の名前があふれています。
ちなみに、以前その「ウースター」とこの「グロスター」などの聖歌隊が一堂に会したデュリュフレのレクイエムをご紹介したことがありますが、そこでもブリッグスがオルガンを演奏していましたね。
そのデュリュフレも、作曲家としてよりはオルガニストとして有名な人でしたが、このブリッグスはまだ聖歌隊で歌っていた9歳の時に、デュリュフレの弟子であるオルガニスト、ピエール・コシュローの演奏をLPレコードで聴いて大きな衝撃を受けたそうなのです。長じてからも、パリのノートルダム寺院で「生」のコシュローも聴き、それは彼の人生観が変わるほどの体験となったのです。そのコシュローの演奏というのは、「即興演奏」と言われるものです。すでに出来上がった曲ではなく、与えられたテーマをもとに、オルガニストがその場で「即興的」に曲を作って披露する、というもの、これは特にフランスではオルガニストとしての必須のスキルとされていて、音大の卒業試験での重要なポイントにもなっています。ブリッグスは後にパリでジャン・ラングレのレッスンを受けることになりますが、その時に彼はコシュローの即興演奏の録音を、自分の手で編曲することに没頭したと言います。
ここで演奏されている「ノートルダム・ミサ」について彼は、「曲の15パーセントは、コシュローの即興演奏が元になっている」と語っていますが、そんな「合唱」と「オルガンの即興演奏」のコラボレーションとも言うべきこの作品のコンセプトは、「Introït」と呼ばれる、オルガン演奏だけの最初の曲でもはっきりと知ることが出来ます。フランスオルガン独特の華やかな音色のリード管を多用したり、ペダルでめざましいフレーズをパワフルに演奏したりと、それはもうハイテンションのオルガンには圧倒されてしまいます。そして、本編であるミサ曲が始まるわけですが、それを歌う合唱もこのオルガンに触発されたのか、あるいはレイトンのいつもながらのやり方なのか、そのとてつもないパワーには言葉を失います。その間には、またブリッグスのめくるめく技巧の丈を尽くした即興演奏が繰り広げられるという、まさに合唱とオルガンの双方で聴くものを興奮のるつぼに巻き込むという、それはエキサイティングなものでした。
いや、曲自体はそれこそデュリュフレを思い起こされるような、プレーン・チャントを素材として、それに粋な和声を施したという敬虔さに満ちあふれたものなのですが、この、まるでギンギンのヘビメタでも聴いているような興奮感が、そこに恐ろしいほどにマッチしているのですから、たまりません。
そう、このオルガンは、取り澄ました「即興演奏」というよりは、まるでキース・エマーソンのような、狂気にも近い「アドリブ・ソロ」だったのです。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

9月5日

MAHLER
Das Lied von der Erde
Christa Ludwig(MS)
Fritz Wunderlich(Ten)
Otto Klemperer/
New Philharmonia & Philharmonia Orchestras
ESOTERIC/ESSE 90043(hybrid SACD)


杉本一家さんのマスタリングによるSACDでマスターテープのすごさを見せつけてくれたESOTERICのプロジェクト、今まではDECCADGといったUNIVERSAL系列のものばかりでしたが、そこに新たにEMIの音源が加わることになりました。その最初のアイテムに選ばれたのは、クレンペラーの「大地の歌」です。ヨーデルは入ってませんが(それは「ハイジの歌」)。
この演奏、オーケストラが「フィルハーモニア管弦楽団」と「ニュー・フィルハーモニア管弦楽団」という2つの名前が掲載されているというのが、面白いところです。これは、録音している途中でオーケストラの名前が変わってしまったためです。1945年に、EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグによって作られた「フィルハーモニア」ですが、1964年の3月(5月という説もあり)に、レッグ自身が解散させてしまうのですよ。その後、「フィルハーモニア」という名称はレッグが所有していたので使うことはできず、「ニュー・フィルハーモニア」という名前になって自主運営という形で再建されるのですが、その「事件」までに録り終えていたのは、1964年2月にキングスウェイ・ホールで行われたセッションでの、ルートヴィヒが歌った部分だけでした。残りのヴンダーリッヒのソロの部分と、ルートヴィヒで録り残した部分は、196411月と1966年7月に、それぞれアビーロード・スタジオで行われたセッションで録音、足掛け2年半もかかって、やっと完成したのですね。
今回、SACDによってそれこそマスターテープそのもののような生々しい音に変わったものを聴いてみると、その録音場所による違いをはっきり聴きわけることが出来ます。ヴンダーリッヒが歌う奇数楽章はすべてアビーロードですが、特に第1楽章の明晰な音には、「これがEMI?」と驚かされてしまいます。一つ一つの音がくっきりと際立って聴こえてくるのですね。中でもグロッケンの音は、まるで耳のそばで鳴っているように飛び出して聴こえます。弦楽器には、なんともつややかな色が加わってますし。そして、ヴンダーリッヒは目の前で大きな口をあけているようなリアルな音場ですよ。
それが、偶数楽章のルートヴィヒのソロになると、様子がガラリと変わります。第2楽章は、最初は弦楽器が弱音器を付けているのでなおさら印象がソフトになっているのでしょうが、後半の弱音器を外した部分でも、なんともあっさりとした音になっています。何よりも、ルートヴィヒの存在感が、ヴンダーリッヒに比べると希薄、なにか布が一枚顔の前に垂れ下がっているようなもどかしさが残ってしまいます。第4楽章のグロッケンも、第1楽章とはまるで別物のようなおとなしさです。ところが、第6楽章になったとたん、そんな印象がまるで変わってしまうのですよ。ソロは前面に出てくるし、弦楽器は生々しさが戻ってきました。ハープやマンドリンの、普段聴こえないような音まではっきり聞こえるのは、まさにショッキング。ですから、おそらくこの楽章だけが、アビーロードで録音されたものなのでしょうね。ライナーにはそのアビーロード・スタジオでの写真が載っていますが、歌っているのはルートヴィヒ、マンドリン奏者と、一人しかいない打楽器奏者は、これが第6楽章であることを示唆しています。
しかし、いくら会場が違ったからといって、これほどまでに音が変わるのは、このような大レーベルではまずあり得ないことです。そこには、やはり「解散前」と「解散後」でプロデューサーが変わってしまったのが、大きな要因になった、と考えるべきでしょう。エンジニアも変わったのかもしれませんね。
そんな、「歴史」の一コマまでもが、このSACDには生々しく記録されているのには、感動すら覚えます。そんな中で、クレンペラーの音楽は、特にアビーロードの明晰な録音の前ではなんとも融通のきかないどん臭いものに感じられてしまいます。

SACD Artwork © Esoteric Company

9月3日

BACH
Great Choral Works
Many Soloists
Karl Münchinger/
Stuttgarter Hymnus-Chor, Lübecker Kantorei
Wiener Singakademiechor
Stuttgarter Kammerorchester
NEWTON/8802001


2009年に出来たばかりのオランダの新しいレーベル「NEWTON」の第1回目のラインナップが、日本でも発売になりました。とは言っても、このミュンヒンガーといい、他のマリナーとかラベック姉妹、はたまた小澤といい、どこかで見たことのあるようなアイテムばかりです。つまり、このレーベルは、もはや新しい録音は行わない名前だけの存在になってしまったDECCAPHILIPSのカタログを、専門にリイシューするために作られたものなのです。確かに、これらのレーベルを統括するUNIVERSALが、古いカタログの再発にあまり手をかけていない、という印象は免れません。ちょっと古くなってしまうと、十把一絡げにバジェット・プライスで投げ売りするという無神経さは、最初に出たときの興奮を味わったことのある人にとっては、とても悲しく感じられるのではないでしょうか。もっとも、国内盤のように、古いものも新しいものも一緒くたにして仰々しく「ベスト100」とか言って出す神経には、もっと腹が立ちますが。
そんな大レーベルの旧譜に対する思いやりのなさをカバーするために、陽の目のあたらないものをケアして、愛好家の要望に応えよう、というのが、このレーベルの「建前」なのでしょう。それはなかなか高潔な志ではあるのですが、同じオランダのあのBRILLIANTのように、「死んだ」レーベルのカタログを、まるでハイエナのように「俺(おら)んだ!」とあさっているという風にも感じられるところが気になりますね。同じようなことをやっていても、PENTATONEのように、結果はどうあれ、SACDのためにきちんとマスタリングを行うというのなら、まだ好感は持てますが、そんな手間もかけてはいないようですし。
これは、カール・ミュンヒンガーという往年の「巨匠」がDECCAに録音したバッハの代表的な宗教曲を集めた9枚組のボックスです。価格は5000円前後。それをどう取るかは、おそらくこのアーティストへの親近感の持ち方によって変わってくることでしょう。正直、バロック音楽のパイオニアとしての名前だけは良く知られていても、特にこのジャンルでの評判はいまいち芳しくないものがありますから、「今」の目でそれを検証するための投資としては、妥当なところではないでしょうか。
1964年に録音された「マタイ」から、1974年に録音された「ヨハネ」まで、一通り聴いてみて感じたのは、バッハの音楽に対するミュンヒンガーの深い愛情でした。そして、彼はその「愛情」を聴くものに伝えるために、とことん「美しい」仕上げを施しているのが、良く分かります。弦楽器の、まるで同じレーベルのマントヴァーニのような流麗な響きがそのベース、そこに、例えばヴィンシャーマンのような「甘〜い」オーボエが加わると、えもいわれぬ愉悦感が生まれます。「マタイ」では、なんとフリッツ・ヴンダーリッヒのソロが聴けますよ。なぜ「マタイ」にタミーノが、という錯覚を抱くほど、その甘美さはバッハの音楽を超越したものとなっています。
言うまでもなく、そこには同じ時代のカール・リヒターあたりが持っていたような「厳しさ」はありません。おそらく、その辺が今では殆ど顧みられなくなってしまった要因なのでしょうね。しかし、これはこれで、なかなか捨てがたい味があると思うのですが、どうでしょう。
録音は、殆どがホームグラウンドであるシュトゥットガルトの教会で行われていますが、「ロ短調」だけはウィーンのゾフィエンザールという、ショルティの「指環」などが録音された場所が使われています。しかも、エンジニアがあのゴードン・パリーですから、これは嬉しい拾いものでした。これだけは、音の密度が全く違って聞こえます。さらに、ここにはウィーン・アカデミー合唱団というプロの合唱団が参加していますが、それも、他の(たぶん)アマチュアの聖歌隊とはまるで異なる存在感を示しています。

CD Artwork © Newton Classics B.V.

9月1日

In My Life
The Ventures
EMI/TOCP-70839


EMIの国内盤、久しぶりに買ってみたら、品番は相変わらず「TO-」から始まっているんですね。かつて「東芝EMI」という社名だった会社は、とっくの昔に「東芝」とは関係がなくなっているのですが、品番にだけはその大手電機会社に由来する文字だけは残しているのですね。昔からのお客さんを惑わせないように、との配慮なのでしょうか。
それにしても、このジャケットのはしたないこと。いや、ラジオで音だけ聴いて買ってみたのですが、現物が届いてみたらこんな悪趣味なジャケットだったのでびっくりしているところです。本当ですよ。名誉のために強調しておきますが、決して、ジャケット目当てに買ったわけではありませんからね。「はみ乳」は嫌いではありませんが。
もちろん、これはビキニの女性ではなく、左にデザインされているギターをこそ見せるべきものだったのでしょう。それは、1960年代に吹き荒れた「エレキ旋風」の立役者、「モズライト」のギターなのですからね。いや、ギターそのものではなく、そのギターを演奏して日本中を沸かせていたロック・バンド、「ザ・ベンチャーズ」を表現するのに、これほど的確なジャケットもありません。
かつて「ベンチャーズはロックではない」と言い切った、さる泡沫フリーペーパーの編集長の言を待つまでもなく、まぎれもない「ロック・バンド」でありながら、なぜかこのバンドをそのように呼ぶのには抵抗のある向きもないわけではありません。あまりに大衆に迎合したスタイルを持つが故の、そのような偏見は甘んじて受け入れつつも、彼らはすでに半世紀以上の歴史を持つに至りました。オリジナル・メンバーのドン・ウィルソンなどは、70歳を超えても現役で演奏しているのですから、すごいものです。中には、ドラムスのリオン・テイラーのような、父親の後を継いで同じパートを担当することになった「世襲」メンバーもいますがね。
そんな彼らが作った、これは初めての全曲ビートルズをカバーしたアルバムなのだそうです。いや、別に彼らはビートルズを録音してなかったわけではなく、今までに多くの曲のカバー自体は発表してはいたのですが、それだけで1枚のアルバムを出したのは初めて、ということのようですね。あまりにたくさんのアルバムを出していれば、このような差別化のための方便も必要なのでしょう。もちろん、そんな昔の録音を集めただけのコンピレーションではなく、きちんと「新録音」も入っていますから、それなりのモチベーションもあったはずです。
ラジオで聴いたのは、そんな新録音の一つ、「Norwegian Wood」でした。オリジナルではジョージ・ハリスンが本物のシタールを弾いていることに敬意を表して、ボブ・スポールディングがエレキ・シタールのイントロを入れていますが、なんと、その前に「Because」のイントロが入るというとんでもないアレンジだったので、ちょっと食指を動かされたのですよね。なんと斬新な、と。実際に全曲を聴いてみると、それは明らかに期待はずれではあったのですが、新録音の中には、「Paperback Writer」のような、コーラスが入らないことにはサマにならない曲に果敢にギターだけで挑戦したり、最後にはなんと「Abbey Road」の「B面メドレー」までやっているのですから、さすが、ではありますね。
でもねぇ。なんか違うんですよね。メロディが。それも、「これがビートルズ」という肝心の音を、ちょこっと違えているものですから、なんともダサイ仕上がりになっているのですよ。この前の「杉鉄」と全く同じ、アンダーソンがチャンバラになってしまうという感覚ですね。「Here Comes the Sun」が、X-Japanみたいに俗っぽくなってるのって、とても不思議な感じですよ。
でも、そこで笑ってはいけません。そんなおおらかさこそが、彼らの「ロック魂」なんですからね。ベンチャーズは永久に不滅です。たとえ、音楽は「B」だとしても。

CD Artwork © EMI Music Japan Inc.

8月30日

Baltic Runes
Paul Hillier/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
HARMONIA MUNDI/HMU 807485(hybrid SACD)


エストニア・フィルハーモニック室内合唱団の首席指揮者は、2008年にポール・ヒリヤーからダニエル・ロイスに替わってしまいましたが、ヒリヤーがまだ指揮者だった頃の2008年1月から2月にかけての録音が新譜としてリリースされました。彼が2001年にこの合唱団のシェフに就任してから手がけていた「Baltic Voices」というシリーズが、3集まで出たところで、なんだか尻つぼみになってしまったような感があったのですが、おそらくそれに関連した企画なのでしょう。しかし、今回はタイトルが「Baltic Voices」ではなく「Baltic Runes」、「声」ではなく「ルーン文字」になっていますね。「ルーン文字」というのは借金ではなく(それは「ローン」)、このジャケットや、ブックレットの中にも描かれている北欧の古代象形文字のことです。それは、あのワーグナーの「指環」に登場する神々の長ヴォータンが持つ槍に刻まれたものとして、ファンにはお馴染みのものです。話の中では登場しても、それがいったいどういうものなのかは誰にも分からない、というのが、その「ルーン文字」の実態でしたが、それは「指環」から連想されるようなおどろおどろしいものではなく、こんなかわいらしいものだったんですね。
そんな文字のように、北欧に昔から伝わる民族音楽などをモチーフにした合唱曲が、ここには集められています。メインの作曲家はエストニアのトルミスで3曲、そして、同じエストニアのクレークと、フィンランドからシベリウスとベリマンが、それぞれ1曲ずつ取り上げられています。
録音会場やスタッフは「Voices」と同じですが、あちらはCDだったものが、今回はSACDに変わっています。その違いは歴然たるもの、以前はちょっと硬い感じがしたものが、ここではなんともまろやかでふくよかな音に満ちています。全く何のストレスも感じることなく、最初から最後まで身を任せて聴いていられる無伴奏の混声合唱、こんな幸せな思いに浸れたのは、久しぶりのことです。
トルミスの作品は、素朴なモチーフをほとんどそのまま使っているにもかかわらず、作品としての「力」がみなぎっているということが、ここでも改めて確認できることでしょう。キングズ・シンガーズのために作られた「司祭と異教徒」という作品は、前にこちらでその合唱版を聴いたことがありました。その時は、繊細な演奏には感心しながらも、オリジナルのカウンター・テノールのパートの処理に、ちょっと苦労をしている印象を受けていましたが、今回は女声がそのパートを歌うことで、なんの無理もないクリアなサウンドが実現、この曲の透明な魅力がさらに増して、その「力」の存在感もより大きくなっています。
エリク・ベリマンの作品はBaltic Voices 3でも取り上げられていました。ここでも、そのとんがった作風は、この1975年に作られた「Lapponia」という曲によってまざまざと体験することが出来ます。4つの部分から成る24分にも及ぶ長大な作品ですが、そこにはテキストはおろか、メロディすらも現れないという、徹底した非西欧の世界が広がります。そこでは、ラップランドの自然と、伝承音楽の「ヨイク」(フィンランドの作曲家マンティヤルヴィに、「ヨイクもどき Pseudo-Yoik」という作品がありましたね)が、表層的な描写ではなく、エネルギッシュな「表現」によって描かれています。そんな、「地声」と「クラスター」しか与えられない作品からも、この合唱団はなんという音楽性と、そして、「歌う」という行為の根源に迫るほどの「力」を見せつけていることでしょう。
それは、シベリウスの名曲「恋する人 Rakastava」で見られるリリシズムとは対極にある表現、彼らの懐の深さには驚かされます。ちなみに、ここで演奏されているのはオリジナルの男声版ではなく混声版、ジャケットには作曲年が「1893/1911」とありますが、後者は弦楽合奏に編曲された年で、合唱版にはなんのゆかりもない年号です。

SACD Artwork © Harmonia Mundi USA

8月27日

ORFF
Carmina Burana
Patricia Petibon(Sop), Hans-Werner Bunz(Ten)
Christian Gerhaher(Bar)
Daniel Harding/
Tölzer Knabenchor
Symphonieorchester und Chor des Bayerischen Rundfunks
DG/00289 477 8778


DGの「カルミナ・ブラーナ」と言えば、ヨッフムの2種類の録音、バイエルン放送交響楽団との1950年代のモノラル盤と、1967年のベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団とのステレオ盤が有名ですね。それ以来、このレーベルからは数々の「カルミナ」がリリースされて来ましたが、ごく最近のものは1998年のティーレマン盤ということになるのでしょう。これも、オーケストラはベルリン・ドイツ・オペラ管でしたね。今回は、それから10年以上経った2010年4月に、かつてのヨッフムの手兵バイエルン放送響を、ハーディングが指揮したという、ミュンヘンのガスタイク・ホールでのコンサートのライブ録音です。
しかし、今回特徴的なのは、これがDG独自のプロダクションではなく、「BR KLASSIK」との共同制作だということではないでしょうか。いや、実際に録音に携わったのは「BR」、つまりバイエルン放送局のスタッフですから、DGとしては単なる「名義貸し」といった趣でしょうね。これは、かつてのDGでは考えられなかったこと、いや、このレーベルに限らず、レーベルがそれぞれに独自ポリシーをその録音に込めていたという時代は、とっくに終わっていたことにいまさらながら気付かされます。この「カルミナ」だって、そこから「DGらしい」音を感じ取ることなどはもはや不可能です。
そんな、幾分おとなし目な、なんの誇張もない音の中から聴こえてきたのは、かなり丁寧に仕上げられた合唱とオーケストラの姿でした。このバイエルン放送合唱団、芸術監督はダイクストラのはずですが、なぜか「合唱指揮」のクレジットがロベルト・ブランクという人になっているのが気になります。それはともかく、時として羽目をはずして暴走することすら許されているこの曲で、この合唱団はいとも淡々と自分たちの仕事を誠実にこなしている、という印象を受けます。非常に美しい合唱ではあるのですが、どこか醒めていて熱いものがほとんどないというのは、いかにも「現代的」な姿に思えてしまいます。児童合唱のパートのテルツ少年合唱団も、なんとも大人びた声で「無垢」というよりは「とりすました」ふうに聴こえてくるのがちょっと不思議というかブキミ。この合唱団は、昔はこんな歌い方はしていなかったはずですが、こちらも合唱指揮者に今までのシュミット・ガーデンと一緒にラルフ・ルーデヴィヒという人の名前があるせいなのでしょうか。
オーケストラも、がむしゃらに突き進む、というありがちな様相は全く見せることはなく、ひたすら細部を磨き上げるというところに腐心しているように思えてしまいます。例えば、「Tanz」とか「Chume, chume geselle min」でフルートソロが全く同じフレーズを繰り返すときには、必ず2度目のダイナミックスをワンランク落とす、という、楽譜にはない配慮です。ここまでやられると、ただの「小細工」にしか聴こえないのは、この曲では他にもっとやることがあるのでは、という思いからでしょうか。
しかし、そこにバリトン・ソロのゲルハーエルが入ると、その場の空気がガラリと変わってしまいます。なんという弾けたパフォーマンスなのでしょう。彼は以前ラトル盤でも歌っていましたが、今回はその時以上のはしゃぎよう、その「芸」にはますます磨きがかかってきています。もちろん、それはそれで聴くものを惹きつける魅力は満載なのですが、それまでのハーディングの「芸風」とのあまりの落差には、戸惑ってしまう人もいることでしょう。もっとも、そんなミスマッチを作り出すのが、今回のハーディングの仕掛けだったのかもしれませんがね。
プティボンのソプラノは、かなりの期待はずれでした。始めの頃こそ清楚な味わいが出ているな、と思っていたのに、だんだん力が入ってきて、「Dulcissime」のハイDなどは悲惨そのもの、彼女がこの曲を歌う旬は、とっくに過ぎています(シュンとしないでね)。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

8月25日

FAURÉ
Requiem
Anne-Marie Blanzat(Sop)
Pierre Mollet(Bar)
Jean Guillou(Org)
R.P. Martin de l'Oratoire/
Les Chanteurs et l'Orchestre de Saint Eustache
CHARLIN/AMS 39


前回の続きです。最初に聴いたCHARLINCDの音は、本当に素晴らしいものでした。前半にはヴィヴァルディの4つのヴァイオリンのための協奏曲が入っていますが、それこそ、頭の周りをその4人が取り囲んでいるようなリアルな音場とともに、そのヴァイオリンの音のみずみずしいこと。それぞれの奏者の個性までもが、くっきりと伝わってくるものすごい録音、CDで、これだけの存在感を感じられるものはそうそうあるものではありません。周りを取り囲んでいるトゥッティのアンサンブルも、とても雰囲気のある包み込むような響きです。ソロとトゥッティとのバランスも絶妙で、それはどこにも不自然なところのない、まさに「自然なサウンド」と言うにふさわしいものでした。
後半は、ヴィヴァルディの原曲を、バッハが4台のチェンバロのために編曲したバージョンです。もちろん、この録音が行われた1963年ごろには「チェンバロ」と言えば「モダンチェンバロ」しかありませんでしたから、今ではまず聴くことのできない繊細さからは程遠い「力強い」チェンバロの響きも堪能できますよ。しかし、モダンチェンバロ4台の迫力というのは、すごいものです。これも、当時の「自然」な音楽のありようだったのでしょう。このチェンバロのソリストの中に、ブルーノ・カニーノやクラウディオ・アバド(!)の名前を見つけるのも、楽しい体験です。
さらに、その「自然」さは、録音会場の遮音の悪さをそのまま反映したものにもなっていました。かつてLPで聴いたときに耳ざわりだった低周波のノイズは、実は外を通る自動車の音だったのですね。そのあたりも、この優秀なマスタリングではっきり知ることが出来ます。巷間で熱く語られていたCHARLINのもつ「自然」な魅力、それを、このCDによって、いろいろな意味で初めて存分に体験することが出来ました。
次に聴いてみたのは、1965年ごろの録音で、フォーレの「レクイエム」です。これはまだLP時代にも聴いたことのなかったアイテム、期待が高まりますが、これもジャケットに記載された曲順がまるでデタラメなのには、一瞬たじろいでしまいます。もちろん、演奏は普通の曲順で行われています。


この録音、「ヴィヴァルディ・バッハ」に比べると、なにかピントが定まらないような印象があります。ノイズもさらに盛大になったような感じ、ダミーヘッド(=ワンポイント)のレベル設定ではどうしてもちょっとした演奏ノイズまで拾ってしまうのでしょうか。それにしても、指揮台でも叩いているような、定期的に「バチン」と聞こえてくる音が非常に耳障りです。いや、もしかしたら。
そう、まさかとは思うのですが、もしかしたらこのCDはマスターテープから作られたものではなく、LPを音源にしている、いわゆる「板起こし」なのかもしれません。浅草名物ではありませんよ(それは「雷おこし」)。指揮台を叩く音ではなく、あれはスクラッチ・ノイズだと考えると、その他の不可解なノイズも納得がいきます。合唱などは、フォルテシモでは常に音が歪んでしまっていますしね。なによりも、全体を覆っている解像度の悪さは、とても「名録音」とは言えないようなものです。
なんでも、CHARLINのマスターテープというものは、もはや存在してはいないのだそうです。「ヴィヴァルディ・バッハ」などは、たまたまコピーが残っていたのでしょうが、そうでない場合にはLPを使うしか方法はないわけですね。
そんな、なんとも不安定な音で聴いていると、演奏自体もかなり荒っぽいもののように思われてしまいます。何よりも、合唱がとてつもなくヘタ。メンバーがてんでにバラバラの歌い方をしていて、全体としての方向性が全く見えてきません。
Pie Jesu」のソプラノ・ソロは、とても可憐で思わずハッとさせられてしまいます。これがまともなマスタリングで聴けないのが、とても残念です。

CD Artwork © Editions André Charlin

8月23日

VIVALDI, BACH
Concertos
Alberto Zedda/
Angelicum de Milan
CHARLIN/SLC 2


CHARLIN」というレーベル(どこかで「チャーリン」と英語読みしていた人がいましたが、フランス語なので「シャルラン」と読みます)を知っている人は、ずいぶん少なくなりました。1960年代にアンドレ・シャルランというレコーディング・エンジニアが作ったレーベルです。シャルランという人は、それまではERATOのエンジニアとして活躍していました。フリッツ・ヴェルナーの「マタイ受難曲」など、初期のERATOの録音は、彼の手になるものです。独立して彼の名前のレコードを作り始めたときにセールスポイントにしたのが、「ダミー・ヘッド」によるワンポイント録音でした。それは、彼自身の設計による、ちょうど人間の頭ほどの大きさの、ラグビーボールのような形をしたマイクを1セットだけ使うという録音のやり方です。そのマイクには、左右の耳にあたる部分に小さなマイクが2つ埋め込んであり、まさに人間の耳で聴いたのと同じ音場で音をとらえることが出来るのですね。
実際に、その音は多くの人の耳をとらえ、「シャルラン・レコード」は、なにか特別の、あたかも工芸品のような慈しみを持って迎えられていました。日本でも簡単に輸入盤が手に入りましたが、そのLPの現物を手にしたときには、まず音を聴く前に確かに「特別」な感慨を抱いたものでした。このCDのジャケットからは想像も出来ませんが、そのジャケットは見るからに手間がかかっているもので、タイトルの部分だけ、別の紙が貼り付けられていましたね。そして、普通はそのジャケットの中にポリエチレンなどで出来た中袋に入ったLP本体が収められているのですが、ここではLPは「袋」ではなく、発泡ウレタンを貼り付けた厚紙によって挟まれていたのです。ちょっと怖いですね(いや、「発砲」ではありません)。つまり、LPの盤面は、その柔らかい樹脂によって、傷やホコリから守られている、という形をとられていたのですね。今から考えれば、ウレタンの経時変化で盤面にダメージを与える方が大きいはずですが(かつて、組み物CDの中に入っていたウレタンがどろどろになってしまったという「事故」がありましたね)、その当時はなんとも贅沢な仕様のように感じられたものでした。
ただ、盤質はそれほどよくなかったような気がします。かなり反っていたものもありましたし、何よりもサーフェス・ノイズが多くて、肝心の音がじっくり楽しめなかったような記憶の方が強く残っています。
それがCD化されたものは、以前からあったようなのですが、最近簡単に入手できるような体制が整って、そのカタログが一斉に出回りました。その中から、たぶん最初にLPを買ったはずの、このアイテムで、CD化の成果のあたりを付けてみましょう。
これは、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲と、それをバッハが自分の勉強用と、後にはライプツィヒのコレギウム・ムジクムのためにチェンバロやオルガンに編曲したバージョンとを一緒に聴いてもらおうという、当時としてはなかなか斬新なコンセプトのアルバムでした。「4つのヴァイオリン(チェンバロ)のための協奏曲」などが入っているこれが「第1集」、そのあと「第2集」も出ていました。もちろん、どちらもCD化されています。
このCD、体裁はなんとも素っ気ないものでした。ライナーノーツは、オリジナルのLPに載っていたものをそのまま転載しただけ、詳細な録音データなどは全くありません。そして、なんということでしょう、CD面の印刷が見事に間違っています。これは、「第2集」、CDだと「SLC 24」という品番で出ているものの曲ではありませんか。とんでもないがさつな神経ですね。

しかし、そんな扱いにもかかわらず、聞こえてきた音はとても素晴らしいものでした。まさかこれほどのものとは全く期待していなかっただけに、逆の意味で裏切られた思いです。あまりに素晴らしかったので、他のアイテムも買ってしまいましたよ。それも含めて、詳細は次回、ということで。

CD Artwork © Edition André Charlin

おとといのおやぢに会える、か。


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