さて・・・。.... 佐久間學

(09/10/18-11/5)

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11月5日

DVOŘÁK
Symphony No.9
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.251


ベートーヴェンやブラームス、さらにはマーラーまで斬新なアプローチで聴くものを驚かせてきたノリントンですから、この「新世界」にも期待しないわけにはいきません。今回はいったいどんな衝撃を与えてくれるのでしょう。
果たせるかな、最初に聞こえてきた第1楽章の弦楽器による序奏は、まさに想像を絶するようなインパクトを持ったものでした。なんという速いテンポ、まさにオリジナル楽器による演奏で初めてモーツァルトのアダージョ楽章を聴いたときの新鮮さが思い起こされる感じでした。ただ、次の瞬間、その「速さ」は、あくまでビブラートをかけていない楽器の特性によるものであり、決してここでドヴォルザークが求めている表現ではないことにも気づきます。それはビブラートなしでボヘミアの魂を歌い上げることの限界を、ノリントン自らが認めているようないかにも投げやりなテンポ設定だったのです。
続いて、フルート(この重めの音はリエトでしょうか)を中心にした木管アンサンブルが同じフレーズを吹き出すと、それは今までのテンポとは全く変わって、ごく普通のゆったりとしたものになっていました。もちろん、そこではフルートにもオーボエにもたっぷりしたビブラートが付けられていて、先ほどまでのストイックさは影も形もなくなっています。いったいあれはなんだったのか、と思えるほどの、それは変わり身の速さでした。
その後は、テンポに関してはなんの「冒険」も見られません。しかし、ノリントンならではの、楽譜には書かれていないインプレッションの高まりは、ゾクゾクするものを感じさせてくれます。それは、ついさっき聴いていた衝撃的なイントロのテンポを忘れさせてくれるほどの、濃い「味付け」でした。
第2楽章は、一転して「薄い」味に変わります。それは、なんといってもノンビブラートの弦楽器の淡白さに起因するものなのでしょう。その落ち着いたたたずまいは、確かに澄みきった世界を見る思い、おそらくこのあたりが、ノリントンの「技」が最も冴えを発揮しているところなのでしょう。
ただ、メインの交響曲以上に面白かったのが、カップリングの「謝肉祭」でした。おそらくアンコールででも演奏されたのでしょう、いきなりアグレッシブに迫ってくるオープニングには、無条件に圧倒されてしまいます。そして、もう見境ないほどのオーバーな表情付け、まさに音楽が「生きている」ということをまざまざと感じさせられるものでした。ただ、面白かったのは実はそんなことではなく、そのあとに続く朗々とした弦楽器のフレーズが、全くつまらなかったことです。もちろんそれはノンビブラートのせい、それまでの音楽がしっかり「生きて」いたのに、この瞬間、まるで「死んだ」ような音楽に変わってしまったのですからね。
ところが、さらにしばらくして出てくるヴァイオリン・ソロが、なんともびしょびしょのビブラートをかけているではありませんか。うすうすと感じてはいたのですが、ノリントンの「ノンビブラート」というのは、あくまでトッティの弦楽器だけに適用されるもので、ソロ楽器についてはその限りではない、ということなのでしょうね。確かに、木管のソロなどは今までもしっかりビブラートをかけていましたし。
しかし、気持ちは分かりますが、なんか変な気はしませんか?ノリントンの思想の出発点は、「20世紀の初頭まで、オーケストラの中の弦楽器がビブラートをかけていたことはない」という主張です。この「弦楽器」には、当然ソロも含まれるはず、それがこんなにビブラートをかけていて、いいものなのでしょうか(ソロもみんなにそろえないと)?
あるいは、そんな細かいことにはこだわらないのが、そもそものノリントンの芸風だったのかもしれませんね。「新世界」の頭のように。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH

11月3日

VICTORIA, GESUALDO, PALESTRINA, WHITE
Lamentations
Nordic Voices
CHANDOS/CHAN 0763


ノルウェーの超ハイテク集団、「ノルディック・ヴォイセズ」については、つい最近AURORAというノルウェーのレーベルから出た現代作曲家の作品集をご紹介していました。今回はイギリスの大手マイナーレーベル(?)からの、2枚目となるアルバムです。しかし、レーベルは違っても録音スタッフは全く同じですので、原盤はアーティストに属しているということになるのでしょうか。そうなってくると、レーベルは単なるディストリビューターに過ぎないのに、ブックレットに「CHANDOSの録音ポリシー」などと書いてあるのを見ると、ちょっと白けてしまいますね。
その「ポリシー」なるものは、「24bit/96kHzによる最新のテクノロジー」なのだそうです。辛いソーセージではありません(それは「チョリソー」)。もちろん、これと同等のスペックはSACDであれば難なくクリアできるものですから、すべてのアイテムをハイブリッドSACDでリリースすれば良さそうなものなのですが、なぜかこれはスタンダードCDでした。同じレーベルの前作はSACDだったというのに。ヨルン・ペデルセンとアーネ・アクセルベリという録音チームが作り出した卓越した録音は、SACDで聴いてこそ、その真価を発揮するものであることは、AURORAの(CHANDOSの前作は持ってません)SACDレイヤーとCDレイヤーを比較すればすぐに分かります。このような極めて緊張感のある無伴奏の声が重なっているときには、CDではそれぞれの声の存在感が薄くなってしまうのがはっきり分かるのですね。
このCDでは、ですから、とても優秀な録音であることは良く分かるのですが、時折声同志が重なり合って輪郭がぼやけてしまうところが出てくるのです。SACDであれば、そんなところは間違いなくもっとクリアに聴けるはずなのに、と思うと、ストレスが募るばかりでした。
このアルバムでは、現代曲と同時に彼らのもう一つの重要なレパートリーである16世紀ごろの音楽が扱われています。それは、いわゆる「ルネサンスのポリフォニー」という範疇でとらえられるものなのでしょう。しかし、このジャケットからは、そんなある意味遠い時代のイメージは湧いては来ません。この写真は、2004年にバグダッドで起きた自動車爆弾の爆破直後の現場なのだそうです。さらに彼らは、このアルバムの収益を全てユニセフに寄付するというコメントを寄せていますよ。そこで改めてタイトルと曲目を見てみると、それは「哀歌」というコンセプトでくくられるものでした。そう、ここで彼らは旧約聖書の「哀歌」や、新約聖書の福音書などにあらわれている「哀しみ」の情感を、現代に於ける「哀しみ」とオーバーラップさせようとしていたのです。
旧約聖書の「哀歌」というのは、いわゆる「預言者エレミアの哀歌」として合唱ファンにはお馴染みのテキストです。トマス・タリスの作品などはもうすっかりアマチュアの男声合唱団のレパートリーとしても定着しているほどの名曲となっています。しかし、「哀歌」自体は全部で5章からなる長大なものですから、そのタリスあたりは第1章の最初の5節しか使っていません。ここでのヴィクトリア、ロバート・ホワイト、そしてパレストリーナの作品では、それとは別の部分のテキストが用いられています。それを演奏している彼らは、ポリフォニーの澄んだ流れの中に、その、「バビロン捕囚」を背景としたメッセージを盛り込むことに最大限の力を注いでいるように見えます。それはなんと熱いポリフォニー、そこには軽く5世紀の時間を超えてしまった「哀しみ」の情念が宿っています。
音楽的にも他の人とはちょっと異なる斬新な作風のジェズアルド、最後に収録されているレスポンソリウム「あまねく暗くなりて」では、お馴染み、キリストの「受難」のシーンが歌われます。ここでも、予想不能な和声や突拍子もないメリスマが、彼らの手によってなんなく「現代」への扉と化しているのです。

CD Artwork © Chandos Records Ltd

11月1日

MOZART
17 KIRCHENSONATEN
Zsigmond Szathmáry(Org)
CARUS/18.067/99


今までのCARUSCDとはちょっと違った品番の付け方だったのでもしや、と思ったら、やはりこれは楽譜の品番と連携したものでした。ご存じのようにCARUSというのはシュトゥットガルトにある大きな楽譜出版社で、その楽譜を使って演奏されたものをCDとしてリリースするという、いわば「音のサンプル」を提供する役割を持っているのが、レコード部門なのでしょう。ただ、今までは楽譜とCDとの品番はそれぞれ独立していたのが、ここに来てこんなあからさまなことを始めたのは、なぜなのでしょう。
モーツァルトの「教会ソナタ」という作品群は、いわゆる「教会ソナタ(sonata da chiesa)」という、バロック時代に多くの作品が作られた緩−急−緩−急という4楽章の形式を指し示すタームとは全く無関係、「もっぱら教会で演奏されたソナタ形式の曲」ぐらいの意味なのでしょうね。もちろん、レコード会社の社員が演奏したものでもありません(それは「業界ソナタ」)。これらの単一楽章の曲は、実際に、ザルツブルクの教会での礼拝の合間に演奏されたものが大半だと言うことです。編成は弦楽器が主体ですが、教会で演奏されますから、そこにはオルガンが合奏に加わっています。それも、単に通奏低音のように地味なパートから、それこそコンチェルトと思えるほどの立派なソロを弾かされるものまで、さまざまなヴァリエーションが、この17曲の中には見られます。長いものでも5分、短いものではたった2分で終わってしまうという手軽さもなかなか捨てがたいもの、モーツァルトの音楽のエキスを味わいたいと思えば、この曲をまとめて聴いてみるのもいいのではないでしょうか。どれをとっても同じように感じられるのか、あるいはそれぞれに個性を見いだせられるのか、それは聴き手のモーツァルトに寄せる思い入れの度合いを測る絶好のバロメーターとなることでしょう。
そんな合奏用の曲を、オルガン独奏用に編曲したのが、ここで演奏しているジークムント・サットマリーです。もちろん、これが彼の編曲による初録音ということになります。いや、おそらくこの曲をオルガンだけで弾こうとした人など他にはいなかったでしょうから、そもそもオルガン版の初録音ということになるのでしょうね。
サットマリーの編曲は、それぞれの曲のキャラクターをきちんと踏まえて、その違いが良く伝わってくるようなものでした。オルガンが目立たない初期の作品ではシンプルに、そして、オルガンがソロとして活躍するようになる後期のものでは、オルガンパートとオーケストラパートを別の鍵盤で演奏して、音色的に違いを出そうとしています。楽譜の一部がブックレットに掲載されているK.329では、そのオルガンとオーケストラとのテーマの掛け合いが良く分かるような配慮が見て取れます。
ただ、若い頃には超絶技巧を誇ったサットマリーも、もはや70歳という高齢になっていました。モーツァルトではぜひとも聴かせて欲しい整った粒立ちのスケールなどはもはや望むべくもありません。それと、この人の昔からの「クセ」でしょうか、おそらくストップ操作を自分で行っているために生じる一瞬の「間」が、なんとも音楽の流れを損なうものになっていました。もっとも、これはストリート・オルガンのような「自動楽器」として聴いたときには、えもいわれぬ鄙びた味が出てくるものなのかもしれません。左手のアルベルティ・バスが奏でるパイプの音が、そんな、まるで遊園地のような雰囲気を醸し出していると感じられるのは、そんなに間違ったことではないはずです。
出版社としてのCARUSからは、オリジナルの「教会ソナタ」のクリティカル・エディションも出版されていますが、同じブックレットに、その校訂者ウルリッヒ・ライジンガーによる校訂報告の前書きが掲載されているのも、なかなか興味深いものです。

CD Artwork © Carus-Verlag, Stuttgart

10月30日

TORMIS
Vision of Kalevala
Ants Soots/
Estonian National Male Choir(RAM)
ALBA/NCD 35


このレーベルからは、2001年から、当時常任指揮者だったアンツ・ソーツの指揮によるエストニア国立男声合唱団の演奏によって、トルミスの男声合唱のための作品のアンソロジーが次々とリリースされています。それらは例えば「Vision of Estonia」というように「Vision」が頭に付くタイトルでまとめられていて、これが5枚目のものとなります。そもそも最初のアルバムタイトルが1989年に作られた曲のタイトルから取られているのですが、この曲はすでに男声合唱のレパートリーとして日本でも定着している名曲です。というか、ごく最近実際にこの曲を歌う機会があったのですがね。男声合唱だけでこれだけのアルバムが出来てしまうのですから、これからはさらに多くの作品が、男声合唱団の演奏会のステージを飾っていくことでしょう。
今回のアルバムでは「カレワラ」がテーマとなっている作品が集められています。「カレワラ」といえば、シベリウスの多くの作品でお馴染みの、フィンランドの一大叙事詩ですね。「ワイナモイネン」という老人が主人公、いしいひさいちも使っていますね(それは「モンナドンダイ」・・・わかんないだろうな)。フィンランドがロシアからの独立の際の拠り所としたのと同様に、同じようなロシアとのスタンスを持つエストニアでも、この「カレワラ」は重要な意味を持っているのでしょう。
アルバムの半分を占める、34分という長さを持つ、男声合唱曲としては異例の大作「『カレワラ』の第17章」は、その名の通り、「17章」全てをテキストにしたという、膨大なものです。ブックレットには、対訳がちっちゃい字で10ページにもわたって掲載されているのですから、すごいものです。フィンランドの民族楽器の「カンテレ」や、多くの打楽器などが加わって、最初は民謡風の5拍子のテーマが延々繰り返されるという「ヒーリング」っぽい曲調ですが、途中から全く感じが変わってアグレッシブなものになり、そんな長い時間も退屈することはありません。なにしろ、この合唱団の表現力の幅の広さといったら、しっとりと響き渡るとてもきれいな三和音の世界から、荒々しいトーン・クラスターの世界まで自由自在なのですからね。
そこで思い起こされるのが、このアルバムの中の「サンポの鋳造」と「鉄を呪え(鉄への呪い)」の男声バージョンを初録音していたスヴァンホルム・シンガーズのCDTOCCATA)です。並べて聴いてみると、とても同じ曲とは思えないほどの表現の違いが、両者の間にはあったのです。「鉄〜」はトルミス自身がシャーマン・ドラムを叩いていたぐらいですから、TOCCATA盤では作曲者の意図がしっかり演奏者には伝えられてはいたのでしょうが、このALBA盤を聴いてしまうと、こちらの方がより深いところでトルミスの思いに通じているのでは、という思いが募ります。その最もはっきりした違いが、ソロを担当している人のキャラクターです。あちらはあくまで美しく「歌う」ことを心がけているようですが、こちらはなんとも品のない歌い方(というか、しゃべり方)に徹しています。その結果現れてくる「粗野さ」といったら、途方もないレベルに達したものなのですから。あちらが「ブレス」だとすれば、こちらは「パリンカ」でしょうか(意味不明)。この曲の後半に、2人のソロが3度平行でグリッサンド、その後合唱が半音ずつ和音を移動させるという場面があるのですが、そんな一見「前衛的」な作り方も、このソーツと「RAM」の手にかかると、きっちり「魂」を感じさせるものとして聴くことが出来るようになります。
トルミスのことを「音響主義」などと言ったアホな指揮者がいましたが、彼の作品はそんな上っ面だけのものではないことが、この演奏を聴けば如実に分かるのではないでしょうか。

CD Artwork © Alba Records Oy

10月28日

TCHAIKOVSKY
1812 Overture
Valery Gergiev/
Mariinsky Orchestra, Soloists and Chorus
MARIINSKY/MAR0503(hybrid SACD)


最近は、既存のレコード会社に頼らないでオーケストラが自前でレーベルを立ち上げるのがブームになっていますね。ロンドン響、シカゴ響、コンセルトヘボウ、最近ではバイエルン放送響などでしょうか。お陰で、収入が2倍になったのだとか(「倍得るん」)。日本でも、何かと注目の山形響が最初に独自レーベルを作りましたね。嬉しいのは、それらのオケ・レーベルでは、ほとんどSACDの形でリリースしてくれているということです。いまいち普及が芳しくないSACDですが、このブームを契機に良さが見直されれば良いのですが。
そんな中で、ゲルギエフが音楽監督を務めるサンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場も、こんなレーベルを立ち上げました。ゲルギエフと言えば、すでにロンドン響とのコンビでLSO LIVEから多くのアルバムを出していますが、実はこのマリインスキーのレーベルも、ロンドン響と同じスタッフが関わっているのだそうです。あのハイレベルのLSOのノウハウが、こちらでも存分に発揮されていくことでしょう。
このアルバムは、品番でも分かる通りレーベルの3番目のアイテムです。前2作はショスタコーヴィチでしたが、ここに来てチャイコフスキー、「1812年序曲」と「スラヴ行進曲」は超有名曲ですが、その他に「戴冠式祝典行進曲」とか「デンマーク国歌による祝典序曲」、さらには「カンタータ『モスクワ』」などというレアな曲目がカップリングされているのは、ゲルギエフならではの選曲のセンスなのでしょうか。なにしろ「戴冠式〜」やカンタータには作品番号すら付いていない、つまり出版されていないほどのレアものですからね。実際にはこれには統一したテーマがあって、それは「依頼によって作られた作品」というものです。つまり、何かの祝典などの際に、主催者からその目的のために頼まれた曲、というくくりなのでしょう。
ロンドン響とは違って、こちらはライブではなくセッション録音のようです。そして、録音会場が、2006年に出来たばかりのマリインスキーのコンサートホールです。ここは、あの豊田泰久さんが音響設計を担当したホールで、音の良さでは折り紙付きですから、期待が出来ますよ。
実際、「1812年」などは、とても深みのある重厚な音でした。録音のポリシーみたいなものはロンドン響と共通したものが感じられますが、こちらはやはり別の個性を持ったオケ、その違いはクッキリ音にあらわれています。そして、このホールのどっしり腰の据わった響きと相まって、まさに大地に根を下ろしたような壮大な音響が広がっていましたよ。大砲の音なども、昔TELARCの録音でびっくりしたものですが、そんなものを軽く超えるほどの迫力とリアリティです。
クレジットにもあるように、このレーベルはあくまで「マリインスキー劇場」のトータルのアーティストを聴かせるためのもののようです。そこで、「カンタータ」では劇場の合唱団とソリストが登場です。メゾのリュボフ・ソコロワとバリトンのアレクセイ・マルコフは、ともに若手のホープ、重みのある豊かな響きの持ち主です。そして、合唱がやはり重量級、ヴェルディなどを歌うときにはまた違うのでしょうが、チャイコフスキーとあっては彼らの「地」である非西欧のハーモニー感丸出しで、骨太の音楽を聴かせてくれています。これはいかにも盛り上がるための曲、最後の「スラバ!」という、ほとんど叫びに近い賛歌は、まさに宗教的なまでの高揚感を見せてくれます。
「戴冠式祝典行進曲」も「デンマーク国歌による祝典序曲」も、なんとも底の浅い音楽ですが、ゲルギエフの手にかかるとそんな高揚感に無条件に圧倒されてしまうものに変わります。たまにはどっぷり音の渦に浸って、頭の中を空っぽにするのも良いのではないでしょうか。

SACD Artwork © State Academic Mariinsky Theatre

10月26日

The Baroque Beatles Book
Joshua Rifkin/
Baroque Ensemble of the Merseyside Kammermusikgesellschaft
NONESUCH/WPCS-12356(Dom.)


ちょっと前に「廃盤になっているリフキンの『ロ短調』を、オリジナルジャケットでタワーレコードあたりがリイシューしてくれないものでしょうか」と書いたことがありましたが、なんと来月には「デトゥール・コレクション」の新譜として発売されることになりましたよ。担当者がこのサイトを見ていたのかもしれませんね。
こちらはもっと前、おそらくリフキンにとっては初めての自分名義のアルバムとなるこの1965年の作品が、初CD化となりました。日本国内だけでも累計300万枚も売り上げたというビートルズのリマスター盤の余波を受けての、こんな超レアなアイテムの再発なのでしょうか。
ライナーによると、リフキンという人はジュリアードの学生だった頃にNONESUCHに出入りしていて、ライセンシングなどの仕事をやっていたそうですね。そこで、このレーベルを1964年に創設したジャック・ホルツマンが「ビートルズをバロックスタイルでカバーする」というアイディアを思いつき、それをリフキンに振ってきた、というのです。ここで興味深いのが、リフキンは最初に知り合い(大学の先輩!)であったピーター・シックリーを推薦していた、という事実です。こんなところでP.D.Q.バッハとリフキンとの接点があったとは。ただ、あいにくシックリーは都合が悪く、リフキン自身にお鉢が廻ってきたのですが、それは結果的にはまさに大正解だったことになるのでしょうね。おそらく、シックリーが編曲をしていたら、これほどまでにバロックとビートルズがしっくりいった結果は望めなかったのではないでしょうか。根っからの「ビートルマニア」であったリフキンには、最初からこの仕事を引き受けるべく運命が待っていたのです。
アルバムは、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」のきっちりとしたパロディで始まります。「序曲」のネタは「I Want to Hold Your Hand」、中間部のフーガでのこのテーマの使い方などはとても堂に入ったもので、リフキンの才能をうかがい知ることが出来ます。バッハの教会カンタータのパロディまで登場するのもさすが、ですね。その中のアリアは「Help!」がネタ。ですから、それを歌っているハロルド・ブリーンスは「Helpentenor」なんですって。わかるでしょ?「Heldentenor」のもじりですね。こんなセンスはシックリーそっくりですね。演奏団体の名前だって、ビートルズが好きな人ならすぐ分かるはず。
この、世界初のビートルズのバロック風カバー、実際の録音は1965年の秋に始まっています。この中で使われている「Help!」が収録されている同名のアルバムがリリースされたのが、まさに同じ年の8月だったわけですから、その企画の反応の早さには驚かされます。「他社に先を越される前に」制作を敢行したホルツマンとリフキンの嗅覚には、恐れ入るしかありません。しかし、この中には、同じアルバムの中の作品で、オリジナルがすでにバロックのテイストをもっていて、現在ではそのような企画の定番となっている「Yesterday」は含まれてはいません。じつは、「Yesterday」はUKのオリジナル盤には入っていたものの、アメリカ盤はサントラ仕様の別編集だったためにアルバムには入ってはいませんでした。9月になってシングルが発売されますが、そこではB面扱い、おそらくリフキンたちにとってはまだカバーの対象とは認識されてはいなかったのでしょう。というか、ロックンロールとバロックというミスマッチをねらった企画では、この曲はちょっと浮いてしまいます。もしすでにこの曲が大ヒットしたあとだったら、アルバム自体の企画が出ていたかどうか、なんとも微妙なタイミングだったのですね。
そのリイシュー盤、盤面に「DDD」というあり得ない表記があるのは不思議なことですが、日本語版のライナーには「1981年のマタイ受難曲」と書くぐらいのおおらかさなのですから、別に驚くことはありません。

CD Artwork © Nonesuch Records Inc.

10月24日

山口百恵 伝説から神話へ
山口百恵
SONY/MHBL 117(DVD)

1980年と言いますから、今から30年近くも前のコンサートのライブビデオです。もちろん、今までさまざまなフォーマットで出ていたものなのですが、DVDになってからの何回目かのリリースがつい最近のことだったので、ちゃっかり「おやぢ」の仲間入りです。
山口百恵が引退したのはついこの間のことのように思っていましたが、あれからもう30年も経っていたのですね。その年月がいかに長いものであるかは、このDVDに収録されているコンサートの機材などを確認するだけで分かることでしょう。武道館という広い場所で行われたにしては、ステージの規模はいかにもこぢんまりとした感じです。オーロラビジョンもありませんから、客席には大きな双眼鏡を持った人がたくさんいますね。
PAの機材も、マイクはワイヤード、もちろんイヤモニターなんかもありません。ですから、当然フォールドアウトのモニタースピーカーがあるはずなのですが、ステージにはそれらしい突起物は見当たりません。と思っていると、ステージ上から客席をとらえたカメラで、歌手のすぐ前のステージに穴が空いているのが見えました。うん、こんな工夫が当時はあったのですね。
さらに、バックバンドもストリングスまで入った大人数、いわゆる「演歌」スタイルでちゃんと指揮者もいます。その指揮者が、なんとコンサートアレンジを担当した服部克久というのですから、なんとも豪華なものです。
もう一つ、この中で歌われていた「謝肉祭」という曲の歌詞の中に「ジプシー」という「差別用語」がある、ということから、ある時期このDVDの中からその曲が削除されていたことがある、ということがブックレットに述べられているのにも、「歴史」を感じさせられます。もちろん、今ではそのような行きすぎた「配慮」に対しては逆に批判的な風潮となっているために、ここでは元通り復活されています。帯の「完全オリジナル版」という表記は、そのような経緯を物語っているのです。
この、引退へ向けてのファイナルコンサートは、まさに周到な準備を経て開催されました。コンサートのオープニングで歌われ、直後にリリースされたラストアルバム(もちろん、LPです)に収録された「This is my trial」という6/8のビートに乗った谷村新司の曲こそは、そんな周到さを象徴するものでしょう。なにしろ、歌詞の最後が「私のゴールは、数え切れない人達の胸じゃない」という、まさにファンに対しての決定的な絶縁のフレーズなのですからね。おそらく、谷村と、そして百恵のプランでは、最後は「胸じゃない?」という肯定の意味に取られることも計算していたのではないでしょうか(現に、そのように解釈していた人を知っています)。
熟れきった果実のように、まさに稔りの濃厚な味すらたたえた百恵の歌は、ひょっとしたら非の打ち所がないのでは、と思わせられるほどの高い完成度を見せています。2時間を超えるコンサートを一人で歌いきるという、「アイドル」には高いハードルを、彼女はものの見事にクリアしています。最後まできちんとコントロールされた声を聴かせてくれているのはまさに感動的です。それと同時に、歌の区切りで入るMCも、ステージの流れ、さらには引退への流れを明確に解き明かす確かなメッセージとなっています。いや、これはまさにMCまでもきちんと構成された「ショー」の一部として、細部にまで練り上げられた台本にしたがって「演じて」いた結果なのでしょう。
そう、この「ショー」は、トップアイドルが一切の芸能活動をやめて一般人に戻るための、壮大な「儀式」だったのです。これだけ入念なセレモニーが執り行われたからこそ、百恵はその後の人生を「一般人」として全うするという「奇跡」を成し遂げることが出来たのでしょう。豊かな胸はそのままに(それは「トップレスアイドル」)。
それにしても、この「儀式」の主人公がまだ21歳の少女だったとは。

DVD Artwork © Sony Music Direct(Japan) Inc.

10月22日

MAHLER
Symphony No.9
Alan Gilbert/
Royal Stockholm Philharmonic Orchestra
BIS/SACD-1710(hybrid SACD)


ともにニューヨーク・フィルのヴァイオリン奏者だった日本人の母親とアメリカ人の父親の間に生まれたアラン・ギルバート(1967年生まれですから、アランフォー)は、そのニューヨーク・フィルの歴史の中で初めてのニューヨーク生まれの音楽監督としてのキャリアを、つい最近スタートさせたばかりです。全くの余談ですが、先日ご紹介した世界のオーケストラのムックを読み直していたら、「09年秋に、NY生まれのケント・ギルバートが音楽監督に就任する」と書いてあったのを発見してしまいました。弁護士が指揮者に転身!でしょうか。思いこみとは恐ろしいものです。
それはともかく、彼のそれまでのポストが、このロイヤル・ストックホルム・フィルの首席指揮者、この録音が行われた2008年の6月には、ちょうど首席指揮者としての最後のコンサートが行われていたそうです。
マーラーの9番といえば、彼の作品の中でもひときわ複雑で難解なものとされています。さらに、曲の中にまざまざと感じられる、迫り来る「死」の予感、ある人に言わせれば、この曲を知っているのと知らないのとでは、人生観そのものが変わってしまうほどの影響力があるのだそうです。確かに、この作品の中にあらわれるテーマたちには、なんとも行き場をなくしてしまったような切なさが漂っています。
曲の始まりからして、そんなはっきり割り切ることの出来ない音楽の予感を与えられるものです。なにしろ、最初に登場するまともなテーマらしきものが、ミュートを付けたホルンという極めて脆弱な存在感の楽器によって奏でられるのですからね。ギルバートは、こんなつかみ所のない音楽を、聴いているものに的確に伝えるために、なにか具体的な現象をイメージさせるような方法をとっているようにも感じられます。そのための、さまざまなキャラクターを持つフレーズやパッセージを、その特徴が際立つような形に歌い分けてくれています。例えば、最初の楽章の真ん中過ぎに現れる「葬列のように」というマーラーの表記がある部分では、トランペットの奏でるマーチに乗って進む重々しいお葬式の行列が通り過ぎる様子が描かれます。それを見送るかのように小声でさえずる小鳥たち、そして、遠くの方からは、教会の鐘の音が聞こえてきます。こんな情景が、まるで絵画のようにギルバートの手によって描き出されているのです。
最後の楽章は、それまでの「死」のイメージから、それを乗り越えた浄化された世界に変わります。ほとんど弦楽器のみで演奏されるそのゆったりとした音楽は、まさに「5番」の「アダージェット」と同質の穏やかなテイストを持っています。しかし、「5番」と異なるのは、時折加わってくる金管楽器やバスドラム、シンバルなどによって、とてつもない荒々しい表現も見せる、という点です。真ん中あたりで見られるクライマックスが、そんな幅広いダイナミック・レンジの聴かせどころでしょうか。
そんな、金管とバスドラムの咆哮のあとに、瞬時にして訪れる平静なシーンでギルバートが強調したのは、なんとも穏やかでキャッチーなメロディ。それはまさにあのアーヴィング・バーリンの名曲「ホワイト・クリスマス」のメロディそのものではありませんか。そういえば、3楽章の途中でも、確かにこのメロディは聞こえてきたはずなのですが、なぜかそんな連想は出来ませんでしたよ。
もちろん、この映画音楽が作られたのはマーラーが亡くなって30年も経ってからのことですから、彼自身にはよもやこの旋律が後にクリスマス・ソングの定番に形を変えることなど思いもよらなかったことでしょうね。でも、「ホワイト・クリスマス」を知ってしまった私たちには、この旋律の中に、降りしきる雪の情景を重ねてしまうのはごく自然のことです。時代を超えて、全くジャンルの異なる二人の作曲家が同じメロディを用いて描いて見せた世界、そんな思いがけないことにふと気づかされるのが、このギルバートの演奏です。

SACD Artwork © BIS Records AB

10月20日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Christiane Oelze(Sop), Petra Lang(Alt)
Klaus Florian Vogt(Ten), Matthias Goerne(Bar)
Paavo Järvi/
Deutscher Kammerchor
The Deutsche Kammerphilharmonie Bremen
RCA/88697576062(hybrid SACD)


もうすでにあちこちで大評判のヤルヴィのベートーヴェン・ツィクルス、その最後を飾る「第9」です。もちろん、オーケストラはとドイツ・カンマーフィル、ジェンダーの壁を越えたオケです(それは、「ドイツ・オカマーフィル」)。このレーベルは、もはや実体のないものとなってしまったRCAですが、クレジットを見ると実際に制作しているのはこのオーケストラの自主レーベルなのでしょうね。そのライセンスを、やはり実体があるのかないのかはっきりしない「BMG Japan」(今月号の「レコ芸」では、ついに広告もなくなりました)に譲って、親会社のSONYからりリースされたという、今のCDの流通を象徴するような複雑な経過を経てユーザーの手に渡っている商品です。ほんと、こういうメジャー・レーベルの商売を見ていると、かれらはもはや「ものを作る」という仕事を放棄しているようにしか思えません。
そんなことは、もちろん演奏家にはなんの責任もありません。ヤルヴィたちはいつものように、極めてスリリングな演奏をメディアを通して多くの人に伝えたいと願っているだけのことなのでしょう。
「カンマーフィル」の名前の通り、ここでの弦楽器の編成は8/7/6/6/4という(プルトではありません)、「第9」を演奏するときの「普通の」オーケストラの半分の人数しかいないというものです。合唱も40人程度、決して「大人数」とは言えません。ただ、データではこの録音は2008年の8月(1〜3楽章)と12月(4楽章)の2回に分けて行われており、それぞれでメンバーが少しずつ異なっています(だからどうしたということではないのですが)。
「今」のベートーヴェンの演奏、普通のオーケストラでもかつてのような雄大なものを期待するのはなかなか難しいところですが、それがこの人数になれば、当然さらに軽やかな音楽になるはずです。第1楽章などは、いとも軽快なテンポで、まさに「室内楽」的な、外へ向かって大声で叫ぶのではない、もっと仲間同士の声を聴き合う親密さの中での音楽が生まれています。中でも、木管セクションはとても良く溶け合った響き、決して少ない弦楽器に覆い被さるようなことはありません。ソリスティックはフレーズがあったとしても、それは決して個人が目立つのではなく、セクション全体で盛り上がる、といった姿勢でしょうか。
ですから、つい大味になりがちなフィナーレにも、細やかな神経が行き届くことになります。出だしこそびっくりするような音の炸裂がありますが、低弦のレシタティーヴォなどはいとも穏やかな表情で、拍子抜けするほどです。そして、それを受け継ぐバリトンのゲルネが、なんとも爽やかなソロを聴かせてくれています。「O Freunde!」という、いかにも大見得を切りたくなるようなオペラティックなフレーズを、彼はまるでリートを歌うような繊細さで歌っているのですからね。
テノールのフォークトも、こういうコンセプトの中ではまさにうってつけの軽いキャラ。歩いているのではなく、小走りほどの急速な「マーチ」に乗って歌われる彼のソロは、そんな軽やかさの中で、まるで羽根が生えたような浮遊感を味わわせてくれるものでした。
そして、合唱の、特に男声はかなりのハイレベルの演奏を聴かせてくれています。なんといっても白眉は「Seid umschlungen」での男声合唱。これほどの透明感をもって「神の前に跪いて」いるさまを表現した演奏は、ほとんど初めて聴いたような気がします。後半では、なんと合唱とオーケストラとが共鳴しあって、とてもこんな人数とは思えないほどのダイナミックな音響を生み出していますよ。
楽譜はベーレンライター版。最初の頃こそもの珍しさが半分で使われていたこともありましたが、対抗馬のブライトコプフも、ほとんど同じような新版を出したことで、演奏家の認識も変わったのでしょうか、例えばオーケストラの間奏を締めくくるホルンの不思議なシンコペーションにも、しっかり意味を見いだせるような自信に満ちた表現が聴かれます。

SACD Artwork © The Deutsche Kammerphilharmonie Bremen

10月18日

ゆめのよる
波多野睦美(MS)
高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25475


このCDでの波多野さんの「肩書き」は「メゾソプラノ」、ムチなんかが好きなのでしょうね(それは「マゾソプラノ」)。しかし、そんな「クラシック」っぽい呼ばれ方など邪魔になってしまうほどに、彼女の声は、古楽から現代曲、さらにはポップスまでと幅広いレパートリーに対応できるものです。そういえば、かつてつのだ☆ひろ、ではなくて、つのだたかしのバンドと共演したアルバムでは「ボーカル」というクレジットになっていましたね。そう、彼女の声はまさにそんな風に呼ばれるのがもっとも適しているような、時代やジャンルには特定されないしなやかさを持っています。
今回のアルバムでは高橋悠治と共演しています。もちろん悠治の作品も歌っていますが、メインはモンポウやプーランク、ブーランジェ、そしてサティといった人たちの作ったフランス語の「歌曲」です。そこで歌われる歌たちは、彼女の手にかかるとおよそ「フランス歌曲」といったくくりでは語り得ないような不思議な肌合いを持つことになります。まず、テキストであるフランス語のディクションが、決してフランス語には聞こえないというほとんど「カタカナ」の世界であることが、かなり重要な意味を持ってきます。「カタカナ」で歌われた結果、「フランス歌曲」はもはやそのようなカテゴリーの持つ「瀟洒」や「粋」といった属性を剥奪され、限りなく「にほんごのうた」に近づくかに見えてきます。悠治の「むすびの歌」が、サティの「Daphénèo」とブーランジェの「Reflets」に挟まれたところで全く違和感を与えないのは、そのせいなのでしょう。悠治の曲をさらりと歌ってのけた中山千夏のイノセンスと同じ種類のものを、そこでは感じられるはずです。
この中では、悠治のソロも聴くことが出来ます。それがサティの「ジムノペディ」3曲です。あまり言及する人はいないかもしれませんが、今では「名曲」となって誰でも知っているこれらの曲を、ほとんど最初に日本の音楽シーンに紹介したのが、実は悠治だったのです。ただ、彼が我々の前に提示したサティの世界は、あくまで「ヴェクサシオン」などに代表されるような「前衛的」な姿でした。今のサティの聴かれ方からは想像も付かないことですが、悠治はあくまでもジョン・ケージのさきがけとしてサティをとらえ、それを聴衆の前に提示していたのです。 その「時代」、1976年にDENONに録音したサティのアルバムを聴くと、そこからはなんとも乾いた肌触りの「ジムノペディ」が聞こえてくるはずです。まるで機械のような正確なビートに乗って、メロディは決して歌われることはなく、単なる音の高低の連続のように響いています。それこそ「瀟洒」や「粋」が完璧に剥奪された、従って確実に「未来」の見える音楽が、そこにはあったのです。

しかし、それから30年以上経った「未来」に彼自身が再び世に問うた「ジムノペディ」は、そんな「過去」の音楽とは全く異なる様相を呈していました。かつてあれほど厳格だった時間軸の呪縛は完膚無きまでに消え失せ、そこには左手のベースと右手の旋律とが全く別のクロックによって支配されているかのような不思議な流れがあったのです。いや、そういう印象はあくまで「過去」の彼のスタイルを基準にして述べているだけであって、ごく普通の言い方をすれば、極めて「ロマンティック」なスタイルに変わった、というだけのことなのですが。
これは、5年前のバッハの場合には見られなかったこと、それは、もはや「前衛」としてのサティなどどこにもなくなってしまったことの反映なのか、あるいはその5年の間の悠治の変化なのか、にわかには判断は出来ません。そもそもそんな答えを見つけたところでなにになるのか、という思いの方が、より切実なものとして存在しています。

CD Artwork © Avex Entertainment Inc., Nippon Columbia Co., Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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