芸術家は、しょうがない。.... 佐久間學

(08/8/20-08/9/7)

Blog Version


9月7日

VERDI
Requiem
Violeta Urmana(Sop), Olga Borodina(Alt)
Ramón Vergas(Ten), Ferruccio Furlanetto(Bas)
Semyon Bychkov/
NDR Chor, Chor des Teatro Regio Turin
WDR Sinfonieorchester und Rundfunkchor
PROFIL/PH08036(hybrid SACD)


ケルンにあるWDR(西ドイツ放送)専属のオーケストラには、かつて「ケルン放送交響楽団」と呼ばれていたWDR SinfonieorchesterWDR交響楽団)と、もう一つWDR RundfunkorchesterWDR放送管弦楽団)の2つの団体があります。こんな風に、ドイツの放送局の大半が複数のオーケストラを抱えているというのが、すごいところです。SWR(南西放送)なんかは、3つもオーケストラを持っていますし。
ビシュコフが10年以上も首席指揮者を務めているのは、このSinfonieorchesterの方です。今回は、本拠地であるケルンのフィルハーモーニーでの録音ですが、演奏会のライブではなくきちんとしたセッション録音というのが、いまどき珍しいところでしょう。トイレはどこにでもありますから(それは「立ちション」)。というか、これは放送局との共同制作ですから、放送用のプログラムとしての録音、というのが第一義的なのでしょう。それにしても、ヴェルディのレクイエムの放送だけのためにセッションを組むなんて、なんと恵まれた環境なのでしょうね。日本の場合、放送局専属のオーケストラが番組を持っていたなどというのは大昔の話、現在では、国営放送局の名前だけを持つオーケストラが、連続ドラマのテーマ曲を録音するぐらいしか、仕事はありません(「篤姫」のやっつけ仕事には、聴くたびに腹が立ちます。チューバ奏者のやる気のなさったら)。
このケルンのホールは、よく映像でも登場しますからそのユニークな形のステージは有名ですね。あの「キャッツ・シアター」のように、ステージは半円形にせり出していて、客席もそこから放射状に広がっているというものです。ブックレットの中の写真を見ると、この録音の時にはこのせり出し部分、つまり指揮者の後ろ側に、ソリストが配置されています。指揮者のまわりをオーケストラ+合唱とソリストが取り囲む、という配置、もちろんソリストは指揮者を見ることになりますから、客席には背を向けるわけで、ライブではない、録音、それもサラウンドの録音を意識したセッティングであることが分かります。我が家のシステムはマルチチャンネルではありませんから、実際にはどのような音場になっているのかは分かりませんが、ソリストが合唱とは全く別の場所にある、という感じはよく伝わってきます。そして、最も壮大な音場となるはずの「Tuba mirum」も、バンダの金管はサラウンドに頼らなくても距離感が分かるような絶妙の録音ですから、確かに、なにもスピーカーがない後ろの方から聞こえてくるような感じがするから不思議です。全体のバランスといい、ダイナミック・レンジの広さといい、これはSACDのスペックをフルに使い切った素晴らしい録音となっています。
もちろん、素晴らしいのは録音だけではありません。特に、4人のソリストの劇的な、まさに「オペラ的」と言うべき表現力のベクトルは、まさにこの曲の本質を的確に現したものです。特に、最初に曲の性格を決定してしまう役割を担っているテノールのヴェルガスの力強さには、圧倒されてしまいます。ウルマーナ、ボロディナという女声2人の卓越した存在感も見逃せません。そして、ベテランのフルラネットあたりの、力で押すのではないしっとりとした表現は、まさに絶品です。
合唱は、3つの合唱団の連合体という贅沢な布陣です。中でも、放送合唱団ではない、トリノのオペラハウスの合唱団が参加しているのは高いポイントになっています。それぞれのキャラクターが最高の形で混ざり合った結果、劇的である上に節度を超えることのないという、理想的な合唱団の登場です。
そして、オーケストラも決して暴走することのないベースの上で、思い切り弾けているというスマートな仕上がり、これで、情熱と知性という相反するものが仲良く同居している素晴らしい演奏が出来上がりました。

9月5日

GRIEG
Choral Music
Magnus Staveland(Ten)
Carl Høgset/
Grex Vocalis
2L/2L45SACD(hybridSACD)


去年2007年はノルウェーの大作曲家エドヴァルト・グリーグの没後100年にあたっていました。ですから、例によってそんなグリーグの珍しい合唱曲を集めたアルバムは、確か1年ほど前にBISから発売になっていましたね。そのペデルセン盤はこちらで聴くことが出来ますが、作曲家の母国のレーベルである2Lからも、同じようなアルバムが出ていました。これは確かに録音もリリースも2007年なのですが、なぜかやっと今頃になって国内で出回っています。
録音に関してはマニアックな追求をしてやまないこのレーベル、これはもちろんSACDですが、ジャケットにはよく見る「DSD」ではなく「DXD」というロゴが踊っています。なんでもこれはDSDの4倍の情報量を持つものだとか、PCMでは32BIT/352.8kHzに相当するのだそうです。とんでもないハイビット、ハイサンプリングですね。これもひとえに、限りなくアナログ録音に近づけようという思いの結果なのだそうです。もちろん、最終的にはSACDのフォーマットであるDSDにトランスファーされてしまうのですから、あまり意味がないようにも思えますが、CDでのハイビット・マスタリングのような、マスタリングでのメリットもあるのでしょうね。いや、このレーベルはすでに「ブルーレイ・ディスク・オーディオ(リニアPCM 24BIT/192kHz)」という世界も開いていますから、デジタル・オーディオのさらなる可能性をひたすら追求していくのでしょう。
そんな、最高の規格によって録音されたグリーグのさまざまの合唱曲、まずは男声合唱のための「男声のためのアルバム」と、女声合唱のための「7つの子供の歌」が歌われます。この2つの曲集を、順序を入れ替えて男声合唱と女声合唱を交互に聴かせようというアイディアです。男声はやんちゃに、女声はしっとり、という対比がなかなか面白いところですが、そんな最高の録音によって、ここではそれぞれのパート間の能力がかなり異なっていることが明らかになってしまいます。女声パートは音色もきれいに整えられていて、その中でかなり硬質な表現で迫るという、素晴らしいものなのですが、男声パートだけになるとなんとも危なげなハーモニー、人数もそんなに多くないのでしょうが、かなりクセのある個人の声がもろに聞こえてきたりします。
そんな、ちょっと怪しい男声が、女声と一緒になった混声合唱の中では、見事にその役割を果たしているのですから、まずは一安心、おそらくこれが彼らの本来の姿なのでしょう。えてして、混声合唱団の男声パートというものは、男声合唱としてはイマイチのことが多いものです。
そんな混声の編成で歌われる、有名な「過ぎにし春」(これは日本人女性「杉西ハル」さんがモデルになっています・・・ウソ)は、トマス・ベックの編曲によるもの、弦楽合奏などを聴き慣れた耳には新鮮に響きます。ただしっとりと歌うだけではなく、ちょっとびっくりするようなアクセントなど、あくまで「表現」にはこだわっている姿勢も、なかなかのもの。
そして、最後に演奏されているのが、最近話題になっているグリーグ最後の合唱作品「4つの詩篇」です。篤い信仰心は持ちながらも、現実の「教義」や「牧師」といったものとは距離を置いていたグリーグが最後に到達した「宗教音楽」の世界、「詩篇」とは言いながらも、聖書のテキストそのものではありませんし、その素朴なメロディライン(民謡が素材になっています)には、心が打たれます。2曲目「神の子は安らぎを与え給えり」の最後の「fri(安らぎ)」という言葉の繰り返しには、強い訴えが感じられます。3曲目のソリストと合唱が応答を繰り返すという曲「イエス・キリストはよみがえり給えり」では、ペデルセン盤ではなにやらプレーン・チャント風の唱法による装飾が加わっていましたが、ここではごく素直な歌い方、この方が違和感は少ないでしょうですね。

9月3日

MENDELSSHOHN
Elias
Letizia Scherrer, Sarah Wegener(Sop)
Renée Morlec(Alt)
Werner Güra(Ten), Michael Volle(Bas)
Frieder Bernius/
Kammerchor Stuttgart, Klassische Philharmonie Stuttgart
CARUS/83.215(hybrid SACD)


来年2009年は、メンデルスゾーンの生誕200年のアニバーサリーにあたっています。ただ、モーツァルトやバッハに比べて、彼の場合はいまいち盛り上がりに欠けると感じられるのは、単なる気のせいなのでしょうか。思うに、彼の場合の最大のヒット曲といえば、「ヴァイオリン協奏曲」、ひところはチャイコフスキーの曲と一緒にコンビを組んで、「メン・チャイ」という名前で引っ張りだこだったあのアイドルも、今ではすっかり世の中から見放されてしまっているのかもしれません。5つあるフルサイズの交響曲にしても、普通にコンサートで演奏されるのは「3番」と「4番」だけですし。
もちろん、そんな一般社会の人気などには目もくれず、そんな年だからと珍しい作品をまとめて録音してくれる、というのがCD業界の恒例でもあります。CARUSレーベルのメイン・アーティスト、ベルニウスもそんな一人、おそらく来年中の完成を目指して、メンデルスゾーンの珍しい宗教音楽全集の録音を着々と進行中です。今回の新譜は、その第12集にあたる、オラトリオ「エリア」です。
旧約聖書に登場する預言者エリアを題材にしたこのオラトリオは第1部、第2部がそれぞれ1時間、合計2時間を要する大作です。それぞれのパートはレシタティーヴォやアリア、合唱など、細かい曲に分かれていますが、曲の間に休みを入れないというメンデルスゾーンの得意技(「メンコン」では楽章の間はつながっていますし、「スコットランド」も休みなしに演奏すべきものです)はここでも発揮されているため、音楽は延々と続いているという印象があります。アリアなども、そこが聞かせどころだ、といったようないかにも「アリア」っぽい作り方では決してありあせんから、音楽としてのインパクトはあまりありません。正直、これはかなり「渋い」曲、全曲を聴き通すのはちょっとしんどいな、というのが、偽らざる印象ではないでしょうか。
しかし、このベルニウスの演奏に限っては、そんなネガティブな思いを抱くことはまずありません。何よりも、録音がとびきりのものなのですからね。ホールではなく教会で録音されたもので、豊かな残響を伴ってはいますが、決してそれで音の明晰さが失われるということはありません。そこではたと気づいたのですが、これはSACDではありませんか。このレーベルでは、だいぶ前から一部のアイテムでSACD化されていたのですね。なにしろ、それはジャケットの片隅に遠慮がちにSACDのロゴが入っているだけというものでしたから、全く気づきませんでした。そこで、改めてCDレイヤーと比較してみると、その違いは歴然としたものがありました。CDではソリストの声の伸びやかさは全く失われていますし、なによりも雰囲気が台無しです。録音はDSDではないようですが、24BIT/96kHz、あるいは192kHzといった最近のPCMの成果を受け入れるには、16BIT/44.1kHzというCDのスペックがいかにしょぼいものであるかが、ここには如実に現れています。
演奏も、合唱、ソリスト、そしてオーケストラが、実に伸び伸びとした演奏を繰り広げてくれています。中でもベルニウスの手兵シュトゥットガルト室内合唱団の素晴らしさには、圧倒されてしまいます。単に響きが美しいというだけではなく、この曲のようなさまざまなシチュエーションの中での歌い分けがとても見事、なんせ、この曲では合唱によるレシタティーヴォまでこなさなければならないのですからね。さらに、個々のメンバーのレベルの高さにも驚かされます。普通はソリストが歌うアンサンブルも、合唱団員が担当、その透明な響きはソリストにはないクリアなものです。メンバーのサラ・ヴェーゲナーという人は、第1部での「子供」のソロも任されています。その無垢な声はまさに心を打たれる感動的なものです。

9月1日

YL-The Voice of Sibelius
Matti Hyökki/
YL Male Voice Choir
BIS/CD-1433


YL」というのは、フィンランド語の「Ylioppilaskunnan Laulajat」つまり「学生合唱団」の頭文字をとったものです。「学生」というのは、ヘルシンキ大学(Helsingin Yliopisto)の学生のこと、ただ「学生」というだけでそれはヘルシンキ大学の学生をあらわすという、唯一無比の価値が、そこには認められます。そういえば、ポーランドでも「国立フィルハーモニー」といえば「ワルシャワ・フィル」のことをあらわすというような事例がありましたね。
そんな名前の名門男声合唱団は、1883年に出来たと言いますから、今年は創立125周年、ものすごい歴史を誇っていることになります。何よりもすごいのは、フィンランドを象徴するような作曲家、シベリウスの作品を、軒並み初演しているということです。そんな由緒正しい合唱団の歌うシベリウスの合唱曲集なのですから、面白くないわけはありません。ライナーには、この中の曲のうち、実際に初演されたもののリストが載っていますが、それだけで圧倒されてしまいますからね。
まず、最初の無伴奏の「6つの歌」から、その深みのある、いかにも男声らしい響きには魅了されてしまいます。重厚感のようなものは申し分ありませんし、ベースの超低音なども、とても日本の合唱団には真似の出来ないものでしょう。さらに、フィンランド語を母国語としている団体でなければ、おそらくなし得ないと思われるような独特のフレーズの処理は、まさに目から鱗が落ちる思いです。しかし、それにもかかわらず、なにか物足りない思いがつきまとうのはなぜなのでしょう。
実は、彼らの演奏は以前も他のレーベルで現代曲クリスマス・キャロルのアルバムを聴いたことがあったのですが、その時に感じたテナー・パートの伸びやかさが、ここでは殆ど見られないのです。アンサンブルもなんだか雑ですし、「透き通るような」ハーモニーにはほど遠いもののように思えてしまったのです。
このアルバムには、無伴奏の曲の他に、オーケストラが入った曲も収録されています。オスモ・ヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団という、このレーベルでわんさかCDを出しているチームですが、それらの曲では、実はオーケストラの渋い響きにばかり耳が行ってしまって、合唱のことはあまり気にならなくなります。かなり派手なオーケストレーションの曲でも、決して華美にはならないそのサウンドは、おそらくエンジニアの腕が良いせいなのでしょう。
そんな、素敵なオーケストラの響きを堪能してうっとり、肝心の合唱はちょっと締まりがないけど、まあいいか、などと思って聴いていたのですが、後半になって「レミンカイネンの歌」という曲が始まったとたん、その合唱がいきなり今までと全く違う音色で迫ってきたので、慌ててしまいました。それは、とても今まで聴いてきた合唱団と同じものとは思えないような、確かな訴えかけのあるものだったのです。テナーのピンと張った音も、以前聴いたものに近いように感じられます。
なぜ?と思ってデータを見ると、この曲と次の曲の2曲だけは、録音年代が違っていました。殆どのものは2005年から2006年にかけての録音なのですが、この2曲は2000年の録音、会場も他のようにホールではなく教会が使われています。もちろん、エンジニアも別の人です。ということは、確かに録音の条件が異なっているのは大きな要素には違いないものの、なによりも年代によるメンバーの違いが大きく影響しているということなのでしょう。この合唱団の団員がどのように入れ替わっているのかは分かりませんが、2000年と2006年とではそれが出てくる音楽に反映されるほど変わっていた、ということになりますね。
最後に入っているのが、2006年に録音されたご存じ「フィンランディア」。細部までよく知っている曲だけに、その物足りなさは隠しようがありません。

8月30日

PEPPING
Passionbericht des Matthäus
Stefan Parkman/
Rundfunkchor Berlin
COVIELLO/COV 40801(hybrid SACD)


ベルリン放送合唱団の現在の首席指揮者はサイモン・ハルジー、このレーベルやHMなどにこのコンビによる録音がたくさんありますね。一方で、スウェーデン生まれ、母国やデンマークなどのメジャーな合唱団の指揮者のポストを歴任してきたステファン・パークマン(パルクマン)も、最近はこの合唱団と親密な関係にあるようです。このレーベルには、シチェドリンの珍しい合唱曲以来の登場となります。
ここでパークマンが取り上げたのは、1901年生まれのドイツの作曲家、エルンスト・ペッピングの作った「マタイ受難曲」です。実はこの曲は、パークマンはすでにデンマーク国立放送合唱団とCHANDOSレーベルに録音していますので、これは2度目の録音となります。
ペッピングは、1901年に生まれて1981年に亡くなったといいますから、まさに「20世紀」を生き抜いた人になります。奥さんは、さぞやきれいな方だったのでしょう(別嬪)。作曲はベルリンでシュレーカーの弟子のワルター・グマインドルに師事します。3つの交響曲や多くの協奏曲など、幅広いジャンルでの作品を残していますが、なんといっても教会関係の宗教曲に、多くの成果が集約されており、オルガン曲や無伴奏の合唱曲など、実際に教会で演奏されるためのものが数多く作られています。
この「マタイ」は、正式のタイトルは「マタイによる受難の語り」というものです。もちろん、新約聖書のマタイ福音書にテキストを求めたものですが、バッハあたりのマタイ受難曲の始まりよりも少し後の部分、ユダの裏切りから、音楽が始まっています。ただ、バッハの曲のようにヴァラエティに富んだ構成を持つものではなく、もっと前の時代、例えばシュッツのマタイ受難曲のような、淡々とした福音書の朗読をア・カペラの合唱に置き換えたという部分が大半を占めています。そして、そのシュッツの曲のように最初と最後、そしてここでは真ん中あたりに、福音書とは別のテキストによる合唱曲が入る、という構成です。さらに、合唱団も2つに分かれているという「二重合唱」の形態をとっています。ただ、それがどのような効果をねらったものなのかは、2チャンネルステレオを聴いた限りではあまり良く分かりません。これは、マルチチャンネルによるサラウンドの音場を想定してのものなのでしょうか。
ペッピングの生きた時代を考えれば、作曲技法的にはさまざまな可能性が考えられるものですが、この曲を聴く限りそのような「前衛的」な技法には、彼はあまり関心がなかったことがうかがえます。もちろん、あからさまな三和音などを用いることはありませんし、それなりの先進的なアプローチは見られるのですが、それが音として聞こえてきたときに殆ど抵抗なく入っていけるあたりが、彼の持ち味なのでしょう。この曲の場合、殆どがホモフォニックな、流れるようなスタイルで作られています。一見退屈を呼ぶようなものではあるのですが、そこに適度の刺激的な不協和音と、シンコペーションのリズムなどが加わることによって、確かに平穏ではあり得ない世界観を醸し出しています。ただ、最後のシーンである「ゴルゴタ」では、まさに唐突にラテン語の歌詞によるポリフォニーが登場します。これはなかなか効果的。
2度目の録音だけあって、パールマンはとかく単調に陥りやすいこの音楽から、見事に劇的な緊張感を引き出しています。終わり近くの磔のシーンなどは、劇的な情景さえ目に浮かぶほどです。もちろん、そんな充実した世界を76分もの間、ア・カペラだけで描けたのは、合唱団の実力に負うところが大きかったはず、この合唱団の表現力の大きさには、感服させられます。かなりの大人数のようですが、ハーモニーはあくまで透き通っていて、どんなヘンな和音でも、即座に反応して的確に音楽の中に取り込むという能力には、卓越したものが感じられます。だからこそ、最後のニ長調の和音が感動的に響くのでしょう。

8月28日

CIMAROSA
Atene Edificata
Francesco Quattrocchi/
Schola Cantorum San Sisto
Alio Tempore Ensemble
BONGIOVANNI/GB 2428-2


モーツァルトが活躍していた頃には最も人気のあったオペラ作曲家、ドメニコ・チマローザは、ウィーンの宮廷楽長に就任する前、1787年から1791年までロシアのエカテリーナ二世の宮廷楽長として、サンクト・ペテルブルクに滞在していました。そんな「ロシア時代」のチマローザの珍しい作品が、初めて録音されました。
このCDに収録されている「アテネの建都」というカンタータは、1788年に作られたもので、3人のソリストに合唱とオーケストラが付くという編成です。演奏に1時間以上を要するこの曲は、フェルディナンド・モレッティの台本によるもの、テーマはタイトルのようにギリシャ時代の物語ですが、実際には登場する人物のうちのアラウロとチェクローペという2人の主人公は、女帝エカテリーナと、その愛人であるポチョムキンを模しているものでした。モーツァルトの「シピオーネの夢」みたいな、庇護者に対する音楽家のゴマすりですね。
余談ですが、エカテリーナ女帝は、公式にはピョートル三世の后でしたが、この2人の夫婦関係は完全に破綻していたといいます(彼には男性としての能力がなかったのだとか)。そこで、夜な夜な愛人を寝室に招き入れるという、逆大奥状態の女帝、しかし、そんな多くの愛人の中でクリミア総督のグリゴリー・アレキサンドロヴィッチ・ポチョムキンだけは、真に彼女の心をとらえ、政治的にも信頼を寄せられていた人物でした(極秘に結婚していたという説もあります)。女帝より10歳年下のポチョムキン、その関係は彼が亡くなる1791年まで続きました。
このポチョムキンは音楽には大変造詣が深く、パイジェッロを始めとして、多くの作曲家から曲の献呈を受けています。このチマローザの新作も、彼は非常に気に入ったということです。しかし、肝心の王妃の方はというと、前任者だったジュゼッペ・サルティあたりの方がお気に入りだったようで、チマローザのことはそれほど評価していなかったようですね。
実はこの曲は、世界初録音にあたって日本人の音楽学者山田高誌さんが楽譜の校訂をして世に送り出したものです。同じように山田さんが校訂したものを、同じ指揮者が同じレーベルに録音した以前のCDでは、その演奏者たちのあまりのレベルの低さにがっかりさせられたものでした。ただ、今回は同じ指揮者でもオーケストラも合唱団も全く別の団体ですから、そんなことはないだろうという期待を持って聴き始めます。確かに、最初のシンフォニアでは、実に生き生きとした音楽が聞こえてきたので、まずは一安心、にぎやかな部分が終わって弦楽器が登場すると、さすがに人数が少ないせいかやや雑なところが目立ってしまいますが、エスプレッシーヴォなどもきちんと伝わってくる聴き応えのあるものでした。ただ、後半にタランテラのようなリズムに変わるあたりは、もっとテンポが速くてもいいのにな、という感じはします。
しかし、2曲目になって合唱が登場すると、彼らの演奏に対する姿勢は、前作と何ら変わっていなかったことに気づかされます。この合唱の、なんというやる気のなさ。
その後は、ソリストによって、とても美しいレシタティーヴォやアリアが歌われます。特に、最後のアラウロとチェクローペによる二重唱には、今までは入っていなかったクラリネットが新たに登場して、素晴らしいオブリガートを披露してくれます。それは、まさにさまざまな楽想が次から次へと現れるという心躍るような二重唱なのですが、なぜか素直に音楽に浸れないもどかしさがあります。それはおそらく、指揮者のテンポ感の悪さなのでしょう。歌手たちのモタモタした歌い方にオケを合わせているうちに、どんどんテンポが遅くなっていくのですよ。音楽の美しさを全く殺してしまっているこの生命感のない演奏、本来なら知られざる曲によって新たな感動が得られるはずのものが台無しになっているのが、本当に残念です。

8月26日

BERLIOZ/LISZT
Symphonie Fantastique
François Duchable
TOWER RECORDS/QIAG-50005


仙台駅前、というよりは駅のすぐ隣にあったビルが取り壊されたと思っていたら、その跡地に突然「パルコ」が出来てしまいました。このようにして、地方都市は渋谷や池袋のファッションに否応なしに染まってしまうことになるのでしょうね。そこの8階には、今まで街中にあって、イマイチ雑然としたたたずまいだったタワー・レコードが、すっかりおしゃれな装いとなって引っ越してきていました。クラシックに関しては全く不十分な品揃えは以前のままですが、こんな風に容れものが変わると、いくらか違って見えてくるから不思議です。
クラシックを扱っているほんのわずかのスペースに行ってみると、まず目に付くのが先日のラトルの「幻想」。最新の注目盤ということで、大々的にディスプレイがなされています。そして、それに便乗したかのように、このリスト編曲のピアノ独奏版「幻想」も、その存在を主張していました。これはこのタワー・レコードの単独企画商品ですので、ここでしか手に入らないというもの、レアな曲目ですし、ジャケットのエロさにも惹かれて、つい手が伸びてしまいます(しかし、すごい絵ですね)。原盤はEMI、フランソワ・デュシャーブルによる1979年の録音です。そういえば、その日は土砂降りの雨でした。
リストがベートーヴェンの交響曲を全て(「第9」までも)ピアノ用に編曲を行っていたことは知っていましたが、「幻想」にもそんなバージョンがあったことは初めて知りました(そもそも、このCDを見つけた時に、デュシャーブルって指揮もやっていたのかな、と思ったぐらいですから)。こんな色彩的なオーケストレーションを持つ曲をピアノだけで演奏したら、さぞや淡泊なものに仕上がるだろうな、と、聴く前は思ってしまいました。しかし、実際に聴いてみると、この、いかにもフランスEMIらしい豊饒な音色に仕上がった録音とも相まって、そこにはオーケストラにはひけをとらないほどの豊かな音楽があったのです。
何よりも素晴らしいのは、その完璧なアンサンブルでしょうか。あくまで、ピアニストのテクニックが完璧である、という前提の上でのことになりますが、オーケストラのすべてのパートをたった一人で演奏するわけですから、そこには奏者によるタイミングやニュアンスの相違などは存在し得ません。ここでピアノを弾いているのは、あのヴィルトゥオーゾ・ピアニストのデュシャーブル、その「均質性」にはなんの遜色もありません。聴いたばかりのラトルの演奏では、弦楽器と管楽器が全く異なることをやっている部分などは、明らかにズレまくっていたものですが、ここではそんなハラハラさせられる部分は皆無です。
迫力だって、負けてはいません。例えば、第4楽章の「断頭台への行進」など、ラトル盤では明らかに指揮者と演奏者との方向性がかみ合わなかった結果、無惨にもへなちょこなものになってしまっていましたが、デュシャーブルのすべてのベクトルが揃えられた迷いのないアタックは、決然とした力となって迫ってきます。
そして、圧巻は第5楽章。多くの声部がとてつもない早さで絡み合う様は(実際、オーケストラの奏者はごまかさないことには弾けません)、壮観です。そこからは、楽器固有の音色までも感じ取ることは出来ないでしょうか。ここに不足しているものは、フルートとピッコロのグリッサンドや、E♭クラリネットの微妙にずれた音程という、ピアノでは決して演奏することの出来ないものだけです。
デュシャーブルの技巧の凄さは、参考までに聴いてみた「並のピアニスト」イディル・ビレットの演奏と比較すると歴然としています。こういう人は、退き際も潔いのかもしれません。彼は、2003年にはなんと51歳という若さで引退してしまったのですからね(なんでも、湖の中にピアノを2台放り込んだのだとか)。もっとも、最近ではまた演奏活動を再開したという噂もありますが。

8月24日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
La Mort de Cléopâtre
Susan Graham(MS)
Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/2 16224 0


ラトルとベルリン・フィルの最新盤、ライナーのデータでは今年の5月30日から6月1日にかけてのイエス・キリスト教会での録音となっています。今時のオーケストラのCD制作といえば、公開の演奏会をゲネプロも含めて全部録音してそれを編集するという「ライブ録音」がだいぶ一般的なものですが、これは、セッションによる「スタジオ録音」なのでしょうか。いや、もともとはフィルハーモニーでの演奏会をいつものように録音する予定だったのでしょうが、なんでも本番の10日前、5月20日にそのフィルハーモニーが火災にあって、演奏会そのものが空港のイベントブース(元々は格納庫だとか)のようなところで開催されることを余儀なくされたそうなのです。ですから、とてもまともな録音などは出来ない状況だったので、改めてセッションを組んだのでしょうね。ちなみに、火災直後に行われるはずだったアバドとの演奏会は、なんと野外のヴァルトビューネに会場が変更になったのだとか。
そんなわけで、やむなく古巣の録音会場であるイエス・キリスト教会での録音となりました。なんと言っても1973年までは、ベルリン・フィルの殆どの録音がこの会場で行われていたのですからね。もちろん、DGだけではなく、EMIのチームも、ここでカラヤンの数多くの録音を手がけていたはずです。
しかしこの録音、そんな昔のものに比べると、実際にホールで聴くような自然なバランスの、なかなか素晴らしいものに仕上がってはいるものの、なんだか細かいところの明晰さ(例えば、第4楽章冒頭のティンパニのリズム)が失われてしまっているような気がします。そこで気になるのが、さっきの録音データ。そもそものフィルハーモニーでの演奏会は5月の29日から31日までの3日間、それがそのまま「飛行場」に場所が変わっただけですから、5月30日には「本番」があったはずなのですがね。あるいは、リハーサルを教会でやったとか。
真相は知るよしもありませんが、ラトルがここで造り上げた音楽は、そんな不本意な本番のコンサートを録音でリベンジしてやろうとでも言うかのように、徹底的に緻密なものでした。それは、まるで室内楽のようにクリアで精密な世界、お互いのパートがそれぞれ他のパートとの役割を熟知している様が、手に取るように分かるものとなっています。ラトルは、そんなある意味自発的なアンサンブルを促すように、大きな流れを用意してそれぞれのパートのやりとりを楽しんでいるようにさえ感じられます。その上で、例えば第1楽章の提示部の繰り返しでは1回目よりさらに濃厚な表情付けを施すなど、指揮者の存在感を示すことにも抜かりはありません。
ただ、そんなちょっと恣意的な「操作」が加わっているために、本質的なドライブ感が不足しているような印象を受けるのは避けられません。第4楽章など、金管のアタックがあまりに美しすぎるために、「断頭台」などというようなグロテスクなものでなく、もっと晴れがましいまるで結婚式に臨んでいるような感じすら受けてしまいます。第5楽章の「Dies irae」のコラールも、まるで「天使のコーラス」のようなかわいらしさ、あまりに伸び伸びと演奏しているので、なんだか聴いている方が恥ずかしくなるような。
といった具合で、美しさはこの上ないのに、全く興奮させられることのない音楽は続きます。それが最後の最後になって、ピッコロが1オクターブ上の音を出して華やかに迫っているのは、ラトルの埋め合わせの気持ちの表れなのでしょうか。それとも、これは業を煮やした団員の鬱憤晴らしだったでしょうか。
カップリングの「クレオパトラの死」では、極力部分部分のキャラクターの違いを際だたせようとする意図がうかがえますし、最後の迫力もなかなかのものでした。しかし、ソリストのグレイアムのフランス語のディクションは、ちょっといただけません。コジェナーを使わなかったのはなぜ?

8月22日

SCHANDERL
Lux Aeterna
Jan Lukaszewski/
Polski Chór Kameralny
CARUS/83.416


このCARUSというレーベルは、もちろんシュトゥットガルトにある有名な楽譜出版社が母体となっています。ここで出版されている楽譜をCDにしてリリースするという、同じ街にあるHÄNSSLERと同じような役割を担っているのでしょう。主に合唱曲の分野で非常に良質の演奏のものを提供してくれており、どれを買ってもまず失望させられることはないという、希有なレーベルです。
今回のニューリリース、ハンス・シャンデルル(シャンダール)という照明器具のような(それは「シャンデリア」)名前のドイツの作曲家の無伴奏合唱作品を集めたアルバムも、まさに期待通りの素晴らしいものでした。いや、実はそれどころではなく、これからも末永くつきあっていけるかもしれないとびっきり相性の良い恋人にでも出会えたような新鮮な喜びに浸っているところです。
1960年に生まれたシャンデルル、非常に好奇心の旺盛な人だったようで、普通の音楽教育だけでは飽きたらず、トルコやインド、そしてアフリカのギニアなどで、積極的に非西欧の音楽を吸収することに務めます。そんなバックボーンが作品として結実したものが、このアルバムの中のアフリカ音楽にインスパイアされた「Stimmen von Innen」(最後の部分だけ)、「Bazar」、「Mambo Kaluje」、「Kiris Bara Bari(キリストは生まれた)」、「Wunderbar」といった曲たちです。そこには、アフリカ音楽の一面だけを様式化した「ミニマル・ミュージック」とは根本的に異なる、アフリカ音楽そのものが持っている「力」と「楽しさ」が見事に反映された姿を見ることが出来ます。生命の躍動感がストレートに現れたそのリズムを聴いているだけで、体中からあふれ出てくるエネルギーを感じないわけにはいきません。それは、まさに音楽の根源であるエンタテインメントを、理屈ではなく感覚的に直接心の中に送り込んでくるものです。「Wunderbar」あたりには、「ヴォイス・パーカッション」なども用いられていて、魅力は尽きません。ソロとの掛け合いの妙や、さまざまな情景が登場する「Mambo Kaluje」などは、コンクールの自由曲などに使ったら、さぞや喝采を浴びることでしょう。
これらの曲、もちろん「合唱曲」としてきっちりと五線紙に記譜されたもののようです。ほんと、あの微妙な音程やソロのニュアンスなど、どんな風になっているのか、楽譜を見てみたい気がしますが、それをここで歌っているポーランド室内合唱団のメンバーは、そんなことを全く感じさせない、まるで口伝えで歌っているかのような生き生きとした演奏を繰り広げています。そこからは、まさに作曲家が込めた思いが楽譜などを通り越して伝わってくる思いがします。
そのような、決して「クラシック音楽」の枠にはとらわれない表現は、他の曲にも見ることが出来ます。「Rosa das Rosas」という作品は、中世の吟遊詩人の曲のようなテイストを、そのまま現代の合唱曲として再現したものです。ここでは、合唱団は発声までも地声丸出しのものに変えて、すっかり「中世」コスプレで迫っていますよ。
さらに、全く傾向の異なる、まるで昔のシンプルな民謡のようなものを作り出すことも、シャンデルルはやってのけています。「Es saß ein schneeweiß Vögelein」や「Schwesterlein, wann gehen wir nach Haus」などがそんな曲、まさに現代に蘇ったマドリガルです。
ですから、タイトルのような宗教曲を聴く時でも、そこからは新鮮な驚きを期待して裏切られることはあり得ません。唯一この曲だけがオルガン伴奏の入った「Lux Aeterna」、そのオルガンはまるで合唱の一部と化して、壮大なクライマックスを造り出しています。同じタイトルの、あのリゲティの名曲とも肩を並べる、素晴らしい作品に立ち会えたことに、誰しも喜びを隠すことは出来ないはずです。素晴らしい演奏と相まって、このアルバムでは、現代の合唱作品の到達した最良の姿を聴くことが出来ますよ。こんな恋人、ぜひ皆さんに紹介したいと思うじゃないですか。

8月20日

GODOWSKY
Strauss Transcriptions
Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67626


「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス二世が亡くなったのは1899年、そして、その9年後の1908年から、第一次世界大戦が勃発する1914年まで、ウィーンに居を構えることになったのが、ポーランド生まれ、アメリカ国籍のピアニスト/作曲家ゴドフスキでした。この「三拍子の街」で、彼は誰でも知っているシュトラウスの名作を元にしたトランスクリプション「ヨハン・シュトラウスの主題による交響的変容−ピアノのための3つのワルツ・パラフレーズ」を作曲し、1912年に出版します。その「主題」は、「芸術家の生涯」、「酒、女、歌」という2つのワルツと、「こうもり」というオペレッタです。
いずれの曲も、オープニングはなんともおどろおどろしい、一体なにが始まるのだろうという濃厚な曲調です。そこから、まるで霧が晴れるように聴きなれたフレーズの断片が現れてきて、初めてこれがシュトラウスに由来している音楽なのだな、と気づく仕掛け、しかし、そこまで行ってしまえば、あとはワルツやオペレッタの世界に入っていくのは容易なことです。「変容」などという大層なタイトルから連想される難解な世界は、そこにはありまへんよう
3曲の中で最も楽しめたのは、やはり「こうもり」でした。序曲に現れるワルツのモチーフを基本テーマにして、そこにさまざまなモチーフが絡むという仕掛け。それがアデーレのアリアの前半と後半だったりしますから、かなりマニアック、ファンにはたまらないサービス精神まで感じることが出来ます。
おそらく、譜面づらは真っ黒けになっているのでしょうが、そんな難しさを全く感じさせないのがこのアムランの演奏です。本来は、そんな大変な楽譜に大汗かいて挑戦して、膨大な量の音符を音にする「苦行」の跡をみて感動をもぎ取る、といった趣の音楽なのかもしれません。しかし、彼の場合、必要な量の音符が、必要な時間の中に間違いなく収められているのは最初から当たり前のことだと思えてしまうほどの超絶技巧を備えているために、苦労の跡が全く見えず、逆に物足りなさを感じてしまうという、恐ろしく贅沢な不満が伴うことになります。
このジャケットに使われているクリムトの、いかにも「世紀末」といった雰囲気や、アール・デコ風のフォントのいかにも煌びやかなコンセプトは、ヨハン・シュトラウスを、まさにこのクリムトのようなデコラティヴなものに変えてしまったゴドフスキを端的にあらわしたものなのでしょう。しかし、それを演奏しているのがそんなアムランなのですから、今度はそんなけばけばしさがすっかり払拭されてしまって、なんともさっぱりした仕上がりになってしまっています。そんな、言ってみれば二重に仕掛けられた「トランスクリプション」の結果であるこのアルバム、はたしてクリムトのジャケットはこのCDにふさわしいものだったのでしょうか。
シュトラウスのトランスクリプションの他に、このアルバムではゴドフスキ自身の「三拍子」の曲も演奏されています。24曲から成る「仮面舞踏会」からの4曲と、30曲から成る「トリアコンタメロン」という、ボッカチオの「デカメロン」に触発されたタイトルを持つ曲集からの5曲です。これらはまさに、顔を合わせることはなかった「ワルツ王」への熱いオマージュとなっています。
最後に入っているのが、オスカー・シュトラウスという、シュトラウス一族とは全く関係のない作曲家(ラストネームのスペルはStrausと、sが一つ足りません)の「最後のワルツ」という曲です。実は、この楽譜は出版されていないため、ゴドフスキ自身の演奏によるピアノロールから復元されたものなのだそうです。それを行ったのが、アムランのお父さんのジル・アムラン。やはり、彼にはすごいバックボーンがあったのですね。

おとといのおやぢに会える、か。


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