私を抱かせてください。.... 佐久間學

(07/9/12-07/9/30)

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9月30日

BERNSTEIN
West Side Story
Hayley Westenra(Maria)
Vittorio Grigolo(Tony)
Connie Fisher(a Girl)
Nick Ingman/
Royal Liverpool Philharmonic Orchestra
DECCA/476 6269
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCS-1111(国内盤10/31発売予定)

今年、2007年は、バーンスタインのミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」がブロードウェイで初演されてから50年目という、記念すべき年にあたっています。東京では「劇団四季」が12年ぶりのロングラン公演を行っている最中、この際ですから、今まで映画でしかこの作品を見たことのない方は、ぜひ舞台版もご覧になっていただきたいものです。というのも、1961年に映画化されたときには、ナンバーの順序を入れ替えるなど、かなりの改変が行われているからです。例えば、「クール」というかっこいい曲は、映画では決闘でジェット団のボス、リフが殺されたあとで、団員のアイスが歌っていますが、オリジナルの舞台ではこれは決闘の前に、まだ死んではいないリフによって歌われることになっているのです。
バーンスタイン自身がこの曲をオリジナルの形で録音し、その際に決定稿ともいうべき楽譜を出版してくれたおかげで、今ではまるでオペラを録音する感覚でクラシックのアーティストがアルバムを作るようになっています。もちろん、それは舞台版に基づいたストーリーに従った楽譜によっているわけですから、映画のプロットが頭に入っている人には、多少混乱を招くかもしれません。そのうち、オペラハウスで上演されたこの作品(スカラ座などでは、しっかりレパートリーになっています)のDVDが発売されるようなこともあるのでしょうね。そんなものがまだ市場に出回らないうちは、ステージ版を体験できるのは「劇団四季」ぐらいしかありませんから。バカにしてはいけませんよ。なんせ、30年近く前に上演されたときには、オケピットではあの高橋悠治が指揮をしていたのですからね。
やはり50周年記念ということで作られたのが、このアルバムです。セリフやちょっとした転換のための音楽などは省いてあっても、必要な音楽はすべて1枚のCDに収まってしまうというのが有り難いところ、バーンスタインの自演盤以後の、おそらく3枚目となる全曲盤です。とは言っても、マリア役にあのヘイリーを起用したというあたりに、そもそも真摯にこの作品の「名盤」を作る気などさらさら無かった制作者の趣味を感じてしまうのは、やむを得ないことでしょう。そう、「ピュア・トーン」だかなんだか知りませんが、この歌手が歌い始めた瞬間に、その場に不思議なオーラが立ち上るのを、誰しも感じないわけにはいかないはずです。そしてそのオーラは、確かにそこに彼女の世界を造り出してはいるものの、それは完璧なまでにこの「ウェスト・サイド・ストーリー」とは乖離した世界だったのです。そこにあるのは、確かに美しく、もしかしたら癒されると感じられるかもしれない歌、しかし、その歌からは見事にドラマというものがが消え去っていたのです。その場の空気を読むことを決してせずに、ひたすら「私って、きれいでしょ?」と自らの世界に入り込んでいる姿が、そこにはありました。
Somewhere」は、映画ではトニーとマリアとのデュエットですが、ステージ版では「少女」が歌います。これ1曲だけのために参加しているのが、この度ウェスト・エンドで25年ぶりに再演された「サウンド・オブ・ミュージック」での主役に大抜擢されたというシンデレラ・ガール、コニー・フィッシャーです。まだまだ物足りない部分もありますが、ヘイリーに比べたら間違いなくドラマを表現していて、大スターとなる片鱗を見せていました。トニー役のグリゴーロは本物のオペラ歌手、リズム感こそ甘いものの、安心して聴いていられます。
オーケストラも、ここでは頑張っています。録音のせいもあるのでしょうが、バーンスタインのオーケストレーションの要がきちんと聞こえてきています。プロローグの後半のリズムが、まるで「春の祭典」のような複雑なアクセントで成り立っているなんて、ここで初めて気が付きました。その気になればかなり水準の高いものとなっていたはずなのに、ヘイリー1人のためにどうしようもないアルバムになってしまったのが、とても残念です。

9月28日

大人の科学マガジンVol.17
学習研究社刊
ISBN978-4-05-604874-2


本屋さんの店頭で平積みになっていた雑誌に、「テルミン」の発明者のテルミン博士の写真が載っていたので、思わず手に取ってしまいました。そこには、なにやらかわいらしい「RCAテルミン」のミニチュアのようなものも写っていますよ。この雑誌は、確か豪華な「科学ふろく」が最大のセールスポイントだったはず、いよいよ「テルミン」の自作キットがふろくに付いたのでしょうか。そうなのです。少し前までは名前すらも知られることのなかった世界で初めての電子楽器「テルミン」は、このところ各方面でブレイク、今ではかなりの人がその存在を知るようになっています。そこにつけ込んで、ちょっと手先が器用な「大人」をターゲットに、ついにこんなものまで登場してしまったのです。まんまとその罠に引っかかってこれを購入する「大人」はおそらくかなりのものなのではないでしょうか。他人のことは言えませんが。
ふろくはともかく、いちおう「雑誌」ですから、その本体の方もチェックしなければいけません。もちろん、特集は「テルミン」です。わざわざモスクワまで行って、モスクワ音楽院にあるテルミンセンターを取材したり、テルミン博士の娘さんにインタビューしたりと、これはかなり気合いの入った企画のように思えます。その中で、博士が最初に作ったという「テルミン」のプロトタイプの写真が、ひときわ目をひくものでした。ちょうど「H」という文字のような形をしていて、両サイドが高くなっており、そこからアンテナがつきだしているというものです。これは、初めて目にするモデルでした。その楽器をロバート・モーグが演奏している写真などというものも、まさに「お宝」です。これによって、モーグとテルミンとの結びつきがそもそもただごとではなかったことが、よく分かります。
その他の記事も、テルミン博士の生涯についてはかなり詳細に述べられていますし、その楽器から始まることになった電子楽器の変遷なども、コンパクトにまとまっています。最後の締めを松武秀樹に頼ってしまったのが、ちょっと安直な気はしますが、ウェンディ・カーロスの「近影」もあることですし、許すことにしましょうか。
参考になりそうな書籍やビデオ、CDのリストもありますし、もっと現実的なものとしては、「テルミン教室」の案内まで載っていますよ。こういうものを見てしまうと、「テルミン」もここまでの広がりを持つようになったのだな、という感慨のようなものすら湧いてきます。いや、そもそも、そこの参考書籍の中でも取り上げられている「のだめカンタービレ」にも登場するぐらいなのですから(ケーブルがつながれていないとか、例によってマニアックな突っ込みがありましたね)、もはや音楽シーンにはしっかりと認知されたものだと見なしても構わないのでしょう。
そして、もちろん「科学」ですから、「テルミン」の音の秘密を「科学」することも忘れてはいません。これを読めば、「なあんだ」というぐらい、その原理はプリミティブなものであることが分かります。そして、それを最もシンプルな回路設計で実現した「おまけ」によって、この神秘的な音を実際に創り出す楽しみを得ることが出来るという仕組み、原理は簡単なのに、それを実現させるのはなんと困難であるかも知ることが出来るでしょう。いやぁ、チューニングの難しいこと。
ちなみにこのミニチュアには、音程を操作する「ピッチアンテナ」しか付いてはいません。音量をコントロールする「ヴォリュームアンテナ」はなし、従って音を一つ一つ切るということは出来ません。まあ、税込み2300円ですから。
もう一つのふろくとして、この世界の第一人者、ここでも矢野顕子と対談している竹内正美先生による教則本(ただのワンポイントレッスンですが)がふくろ綴じになっています。

9月26日

BROADWAY
Berühmte Musical-Melodien
VA
SONY/88697120592


ドイツのSONY BMGからまとめてリリースされたバジェットものの中の1枚です。音符の頭(符頭といいます)をデザインしたジャケットは、すべてのアイテムに共通したもの、普通はタイトルの文字はBACHとかBEETHOVENといった作曲家の名前なのですが、これはブロードウェイミュージカルのコンピレーションなので、BROADWAYですって。その下にあるドイツ語は、「有名なミュージカルの旋律たち」という意味です。SONY、というかCOLUMBIAには、ブロードウェイミュージカルのオリジナルキャスト盤の膨大なコレクションがありますから、そのうちのほんの「有名な」ものを集めてみた、というアルバムなのでしょう。
そんなわけですから、18曲のラインナップのうち、殆どは1950年代、もしくは1960年代のものとなっています。中でもフレデリック・ロウの「マイ・フェア・レディ」(1956)からは5曲、レナード・バーンスタインの「ウェスト・サイド・ストーリー」(1957)からは4曲と、やはり「有名」なものに集中しているのは当然のことでしょう。これらの作品は映画化されて多くのオスカーを獲得したという実績もありますし。
もちろん、ここに収録されている音源は、映画のサウンドトラックではなく、劇場で上演された際のキャストによるオリジナルキャストのものです。「ウェスト・サイド・ストーリー」に関しては、すでに全曲盤をこちらでご紹介していますから、その値打ちは保証済みです。中でもマリア役のキャロル・ローレンスの可憐さは、サントラ盤のマーニ・ニクソン(ナタリー・ウッドの吹き替え)を聴き慣れた方にはとても新鮮に感じられるはずです。
実は、同じニクソンがオードリー・ヘップバーンの吹き替えをした「マイ・フェア・レディ」の映画は、サントラ盤も買い込んでしっかり聴いていたのですが、オリジナルキャストのジュリー・アンドリュースがイライザを歌っているバージョンは、今回初めて聴くことになりました。「踊り明かそう」などを彼女の歌で聴いてみると、やはりさすが、という気がします。独特のくずし方が、しっかりとした表現となって確かに歌に深みを与えているのが、よく分かります。もちろん、それはこの曲が作られた当時の話ですから、今となってみれば多少「臭く」感じられるのは、致し方のないことではありますが。ですから、この作品に関しては、やはりオードリーの完成されたヴィジュアルの方が、歌のまずさには目をつぶっても惹かれるものがあります。それにしても、映画版でも出演しているヒギンズ教授のレックス・ハリソンや、アルフレッド役のスタンリー・ハロウェイの歌のディーテイルが映画と寸分違わないのには驚かされます。ステージでの「芸」が、そのまま映画で披露されていたのですね。
サイ・コールマンの「スウィート・チャリティ」(1966)からは2曲収録されていますが、その中の「ビッグ・スペンダー」というナンバーは、この頃のレビューの雰囲気を色濃くたたえたもので、殆ど「パブリック・ドメイン」に近いほどの汎用性を持ってしまった曲です。あのロイド・ウェッバーが「キャッツ」の中でよく似たナンバーを作ったのも、このあたりの時代に寄せたある種のオマージュだったのかもしれませんね。あんこをたっぷり入れて(それは「お饅頭」)。
そんな、ある特定の時代を間違いなく感じられるようなテイスト(それは、かなり新しい作品である「コーラス・ライン」や「バーナム」にもついて回っています)が露骨に現れている曲たちの中にあって、バーンスタインの作品の中だけには時代を超えた真の意味での斬新さが宿っていることを認めないわけにはいきません。「ウェスト・サイド・ストーリー」こそは、時代を、そしてジャンルをも乗り越えた名作であることが、こんなコンピから図らずも明らかになっていたのです。

9月24日

HERBERIGS
Choral Music
Johan Duijck/
The Flemish Radio Choir
PHAEDRA/92021


ベルギーで作られたCDなのですが、ジャケットに堂々と日本語の文字が印刷されているというのがすごいところです。もちろん、ブックレットの中もきちんと日本語で印刷されたページがあります。もっとも、オランダ語を英訳したものを読んだ方が、その日本語よりもよっぽどすんなり意味が理解できるという程度の日本語なのが、悲しいところではありますが。
これは、このレーベルがシリーズでリリースしている「In Flanders' Fields」というシリーズの最新盤になります。このシリーズでは、主に最近のフランドルの作曲家の作品を、体系的に紹介しているようです。そのラインナップを見てみると、知っている名前は皆無、「ロマンティック」というタイトルでセザール・フランクとあるのが、ただ一人の知己だというのは、現代のフランドル、あるいはベルギーの作曲家が、いかに知られていないかを物語っています。
「フランドル」(英語読みでは「フランダース」)といえば、ルネサンスの時代には「フランドル楽派」というものが隆盛を誇っていたように、かつては音楽の一大中心地でした。その頃は領地もオランダからフランスまでを含んでいましたが、現在ではベルギーの北半分を占めているだけです。有名なものと言ったら、「犬」と(「フランダースの犬」ね)、腰みのを着けた踊り(それは「フラダンス」)しかないというのは、ちょっと寂しくはないですか?
作曲家であるとともに、バリトン歌手としても活躍したロベルト・ヘルブリヒスは、ジャケットの日本語によれば「20世紀のフランドルを代表する作曲家の一人」なのだそうです。1886年に生まれて1974年に亡くなるまでに、アルフレッド・コルトット(と、書いてあるのですよ)に捧げられたピアノ曲や、合唱曲に宗教曲、そして、2曲のピアノ協奏曲と20曲に及ぶ大オーケストラのための曲などが作られています。
このCDには、そんな「膨大」な作品の中から、合唱のための作品が集められています。最初の3曲は、女声合唱とオルガンのための「3つのうた」。まるでグレゴリオ聖歌のように、終始ユニゾンで歌われる宗教曲です。変なクセのない、しっかり心に染み渡るその単旋律の流れが素敵、この作曲家は確かに聴き手を魅了するだけのメロディを作る才能には恵まれていることがよく分かります。
続いて、3曲のやはり宗教曲が、今度はきちんと4声の混声合唱で歌われます。まるでロマン派の合唱曲のような親しみのある和声が、心を和ませてくれます。演奏しているフランドル放送合唱団は、一応プロの団体ですが、パート内での音色のまとまりや、アンサンブルはちょっとゆるめ、オランダあたりの団体とはちょっと差が付けられているな、という感じがします。
次は、「8つの混声合唱曲」という曲集から、6曲が演奏されています。この曲集の特徴は、それこそネーデルランド楽派が隆盛だった時代の詩人の歌詞に、曲が付けられているということです。他の曲はオランダ語ですが、これだけ言葉がフランス語、曲調もまるでラヴェルの合唱曲のようなおもむきです。そうなってくると、この合唱団のゆるさがもろに現れてしまって、ちょっと辛い状況に陥らざるを得ません。まず、フランス語のディクションがちょっとお粗末、オランダ語とフランス語というのは、かなり隔たった言語であることがよく分かります。そして、アンサンブルの荒さは、このちょっと小粋なハーモニーには致命的、ちょっと残念です。
しかし、最後の「13の古いフランダースの歌」という曲からの抜粋は、文句なしに楽しめるものでした。文字通り、フォークロアのようなものを素材にした合唱曲なのですが、そこに7人ほどの管楽器が加わります。しかも、手の空いた人は太鼓なども叩きますから、とても賑やかな仕上がりになっています。ちょうどカントルーヴの「オーヴェルニュの歌」のような趣でしょうか。こうなると、合唱団の血が騒ぐのでしょうか、今まで見られなかったような楽しさが演奏から伝わってきます。伴奏の管楽器にちょっと変わった和声を使ったりするところがなかなか気がきいていて、このあたりが「フランドルを代表」などと言われる所以なのでしょう。この曲が聴けただけで、買っただけの価値はあったと思うことにしましょう。

9月22日

XENAKIS
Percussion Works
Shannon Wettstein, John Mark Harris(Cem)
Jacqueline Leclair(Ob), Philip Larson(Voc)
Steven Schick(Perc,Dir)
Red Fish Blue Fish
MODE/MODE 171-73


MODEのクセナキス全集第7巻、打楽器のための作品集です。3枚組のボックスに収録されているのは、打楽器ソロの曲が2曲、打楽器アンサンブルの曲が3曲、そして、打楽器と他のソロ楽器(あるいは声)との組み合わせによる曲が4曲と、なかなかヴァラエティに富んだラインナップです。久しぶりにまとめて聴いてみたクセナキス、この、アメリカの演奏家が中心になったアルバムからは、改めて彼の魅力を存分に味わうことが出来ました。
ほぼ作曲年代順に収録されていますから、1枚目の最初のトラックが、彼の最初の打楽器のための作品「ペルセファッサ」になります。かつてストラスブール・パーカッション・グループの名演、そして名録音でさんざん聴いていたはずなのですが、その頃体験したと思っていたひたすら音の渦に巻き込まれていたという感覚は、ここからはほとんど感じることが出来なかったのが、ちょっと意外なことでした。演奏している「レッド・フィッシュ・ブルー・フィッシュ」というのは、カリフォルニア大学のレジデント・パーカッション・アンサンブルです。もちろんしっかりとしたテクニックと、卓越したリズム感を備えたメンバーが集まっているのでしょうが、この曲の、例えば中間部に現れるサイレンの音などを聴いていると、ちょっとホッとさせられるようなユーモラスな一面すら感じることが出来るのです。眉間にしわを寄せて難しい音楽と「格闘」しているのではなく、曲から生まれるメッセージを、さりげないスタンスで楽しみながら聴衆に提供しているような姿勢が、この演奏からは感じられてしょうがありません。
この曲は、本来は6人の打楽器奏者が聴衆の周りを取り囲むように配置されて演奏されます。そのため、例えばサッカー応援の時のスタジアムでの「ウェーブ」のように、音が発せられる場所が周りをぐるぐる回るというように作られた箇所がたくさん用意されています。そういうものだと分かっている人は、この普通のステレオ録音でもそんな音場を想像することが出来ますが、今でしたらサラウンドでそれをきちんと再現できるのですから、この演奏で実際に「回って」いる様子を味わってみたかったところです。そうすれば、もっともっとこの音楽を「楽しむ」ことが出来たことでしょう。クセナキス自身がそれを望んだかどうかということは、もはやそれほど問題にはなりません。
打楽器と他の楽器とのコラボレーションが、予想通り本当に楽しめるものでした。オーボエとの共演「ドマーテン」では、いきなりオーボエがオリエンタルな哀愁に満ちたフレーズを吹き始めるので、いっぺんになじみます。なんというキャッチーなツカミを用意したことでしょう。あのクセナキスが。ですから、これを聴いてしまえば、そのあといかに難解を装った重音やらフラジオレットが出てきたとしても、ひるむことはありません。
「声」が使われている「カッサンドラ」は、もちろんギリシャ神話に登場する予言の女神が題材となっています。ランチメニューではありません(それは「カツサンド」)。物語を進めるのは男の歌手1人ですが、彼はファルセットを駆使して、女の声も再現、まるで「能」のような節回しで、1人何役だかのお話を語っていきます。
そして、チェンバロと打楽器という、想像を絶するような組み合わせが、「コンボイ」と「オーファー」という2曲です。荒々しい打楽器と、繊細そのもののチェンバロ、一体どうなることかと思ってみても、チェンバロの意外な逞しさに驚かされることになります。もちろん、ここでクセナキスが用いたのは、軟弱なヒストリカル・チェンバロではなく、もっと芯のある音を出すことが出来るモダン・チェンバロでした。クレジットによると「1932年製のプレイエル」だとか、本来この楽器で演奏されるべき音楽にはもはや使われることのなくなった、ある特定の時代にしか存在しなかったあだ花のようなこの楽器は、もしかしたらこのような曲に於いてのみ、その存在価値がこれからも継続されていくのかも知れません。

9月20日

MAHLER
Symphony No.8
Soloists
Chor der Deutschen Staatsoper Berlin
Rundfunkchor Berlin
Aurelius Sängerknaben Calw
Pierre Boulez/Staatskapelle Berlin
DG/00289 477 6597
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1376/7(国内盤10/24発売予定)

ブーレーズがDGに録音していたマーラー・ツィクルスは、この「8番」で完了することとなりました。特定のオーケストラとではなく、世界的なオーケストラをとっかえひっかえ使って録音出来たというのは、まさに「巨匠」の証でしょうか。これまでの相方は大半がウィーン・フィル、他にはシカゴ交響楽団とクリーヴランド管弦楽団が2曲ずつでしたが、今回はちょっと意外なシュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)との組み合わせです。今年の4月にベルリンでコンサートが行われたのと並行して、ほぼ同じメンバーによってDGの数々の名録音で知られるベルリンの「イエス・キリスト教会」で録音されたものです。
ところで、巨大な編成で知られているこの「8番」では、大オルガンも使われることになっています。この教会にはもちろん備え付けのオルガンぐらいあるのでしょうが、そんな大した楽器ではないようなので、それを使うとは思えませんでした。確か、ショルティがウィーンのゾフィエンザールでこの曲を録音した時には、オルガンだけは別の場所で録音していたはずですし。ところが、クレジットを見て驚きました。ここでは生のオルガンではなく「デジタル・オルガン」が使われているというのです。「ヴァイカウント」という、安売りみたいな(それは「ディスカウント」)メーカーのそのオルガンは、サンプリング、つまり、生のオルガンの音を録音したものを音源として使っている「電子楽器」なのです。しかし、曲の冒頭から華々しく現れるその音は紛れもない「大オルガン」の音でした。スピーカーから出てきた音をマイクで録音したのか、直接ラインで取り込んだのかは分かりませんが、クラシックの雄、DGがそれを使ったのですから、電子楽器もここまでのものになったということでしょうか。もっとも、ブーレーズ自身は電子音響による作品なども披露していますから、なんの抵抗もなかったのかもしれませんね。
そのブーレーズの演奏、データを見ると全曲で85分以上かかっています。これはかなり長目。実は、他の録音と比較してみると、これより長い演奏というのはマゼールのもの(SONY)ぐらいしかありませんでした。普通は長くても80分前後、うまくすればCD1枚にも収まってしまうというのが、この曲の標準的な演奏時間のようです。ブーレーズの場合は、特に第2部の演奏時間が長くなっています。確かに、ここで聴かれるその第2部の最初のオーケストラだけの部分は、かなりおおらか、と言うより、あまりの引っかかりのなさにちょっと物足りなさを感じてしまいます。特に、木管楽器が、このテンポで明らかに緊張感をなくしているのがよく分かります。弦楽器も、これ以上ないというほどの淡泊さ、練習番号14のあとで出てくる、本来ならうねうねとした音型でのたうち回るはずのファースト・ヴァイオリンのよそよそしさったら。さらに、練習番号21(楽譜参照)のフルートのパッセージでは、その前の「遅くしないで」という表記を受けて大概の指揮者は倍近くまでテンポを上げて軽やかに演奏するものなのですが、ブーレーズはかたくなに前のテンポを変えようとはしていません。その結果、この部分で誰しもが期待する場面転換が全く感じられないまま、もったりとした音楽だけが続くことになってしまいます。これは果たして、82歳という彼の年齢とは、無関係なことなのでしょうか。
ベルリン国立歌劇場合唱団と、ベルリン放送合唱団という2つの団体が参加している合唱は力強さと繊細さを見事に表現していて、聴き応えがあります。ソリスト陣はというと、女声がちょっとヒステリック過ぎるでしょうか。最も存在感を示していたのはテノールのヨハン・ボータでした。

9月18日

音楽でウェルネスを手に入れる
リハビリ専門医の体験的音楽健康法
市江雅芳著
音楽之友社刊
ISBN978-4-276-12251-2

「ウェルネス」という言葉、医療関係や介護関係ではよく使われているようですが、少なくとも「音楽」の世界ではあまり馴染みはないような気がします。そんな名前のアイドルが、昔いましたが(それは、「アグネス」)。著者である市江さんによれば、それは「強いられるのではなく、自分が望んで健康であること」なのだそうです。リハビリテーション科の専門医である著者は、さまざまな実例から押しつけられたプログラムをこなそうとすると、人は必ず挫折することを痛いほど体験しています。そもそも人間は「努力」を継続するのが苦手、年をとってからも「脳トレ」などのドリルで苦しめられるなんて、たまったものではありません。それだったら「楽」な方法で継続できるプログラムはないか、そこで、著者のもう一つの専門分野である「音楽」の登場です。要は、「音楽を通して、楽しみながら健康な生活を維持しよう」というわけなのです。
ただ、「音楽」と言っても、それをただ聴いているだけでは「ウェルネス」を手に入れることは出来ません。「音楽」を自分で奏でる、つまり楽器を演奏することによって、それが初めて可能になるのだ、と著者は訴えます。そうなんです。常々、クラシックに限らず、ロックなどのミュージシャンは、同年齢の一般人に比べていつまでも若く見えるし、実際若々しい生活をしている(ポール・マッカートニーなどは、新しい奥さんとの間に子供ももうけましたね。もっとも、すぐ離婚してしまいましたが)のが不思議でしょうがなかったのですが、それにはちゃんとした医学的な理由があったのです。
著者は、専門的な知識を駆使して、その仕組みを解明してくれます。管楽器や声楽では心肺機能、楽器の演奏全般では運動機能、そして、楽譜を読んだり他の人とアンサンブルをする時には脳の機能が著しく活性化するという事実を、時には実際に著者が行った実験結果も交えて詳細に説明しているのです。ここまで丁寧に勧められれば、少なくとも「音楽」が嫌いな人ではない限り、今すぐなにか楽器を始めてみようという気になってくるはずです。さあ、こんなところで偏屈なレビュー(「おやぢの部屋2」のことですよ)などを読んでいるヒマがあったら、とりあえず著者イチオシのリコーダーあたりから始めてみてはいかがでしょうか。
もちろん、ここではある程度の年をとってから楽器を始める、あるいは、昔(若い頃)はやっていたけれど、かなり長い間その楽器には触ってはいなかったという人が主なターゲットになっています。そこで、そのような人が門を叩くであろう「師匠」に対しても、著者は提言することを忘れてはいません。正直、読んでいてこの部分が一番面白かったのですが、中高年の人たちは、何もこれからプロの演奏家を目指すわけではなく、楽しく楽器を演奏したいためにレッスンを受けに来ているのです。そういう人たちを受け入れる「師匠」サイドの意識改革、これはぜひとも必要なことです。そのための努力を惜しむ「師匠」たちは、「『師匠』の成長を待っている時間はありません」と見切りを付けられて、中高年の弟子には去られてしまうことでしょう。
実は、筆者とは同じオーケストラで席を並べて演奏していた間柄でした。この本の中で述べられている、オーボエからチェロに転向した経緯もよく知っています。著者自身の真剣に音楽に立ち向かう、そして心から楽しんでいる姿勢を目の当たりにしていると、その「体験」がとても重みのあるものに思えてきます。市江さんを見習って、「ウェルネス」を手に入れるための「努力」、いや、「楽しみ」を、ぜひ実践したいものです。
それにしても、ここに書かれていることは飲み会の席でさんざん聞かされたこと。それがこんな立派な本にまとまってしまったのですから、ちょっと驚いているところです。

9月16日

SMILE
宮本笑里(Vn)
ソニー・ミュージック/SICC 10050-51(hybrid SACD,DVD)

「ライト・クラシック」と呼ばれるようなカテゴリーの音楽がもてはやされるようになったのは、1990年代初頭あたりからだったでしょうか。いかにも心地よく取っつきやすいそのような音楽は、「クラシック」を敬遠してきた人たちをも次第に取り込んで、コンサートに、CD発売にと大きな流れを形作ってきます。「クライズラー・アンド・カンパニー」のリーダーのヴァイオリニスト葉加瀬太郎などは、ソロとして活躍するようになってからもそんな流れの牽引役として大活躍してきたのはご存じの通りです。
ところが、そのような音楽は、実は「クラシック」とはなんの関わりもないものだということも、次第に明らかになってきます。「ライト・クラシック」を中心に構成されたさるテレビ番組で、その、殆どカリスマと化したヴァイオリニストがモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を弾き始めたとき、それを聴いていた全国のお茶の間の人たちは唖然としたことでしょう。その演奏は、指は回らないわ、テンポはキープできないわ、音程は定まらないわで、どうひいき目に見てもアマチュアのものにしか聞こえなかったのですから。
そんな、すっかり「クラシック」というものをなめてかかって、最低限の修練すらも怠っている人でももてはやされるようなフィールドで展開されるべきものだと思われるアルバムが、数多くリリースされている中にあって、この宮本笑里というヴァイオリニストのファースト・アルバムは、ひと味違う魅力をたたえていました。笑里と書いて「えみり」なんて、素敵な名前ですね。この方は苗字でもお分かりの通り、世界的なオーボエ奏者をこのたび「引退」なさった宮本文昭氏の娘さんです。
音を聴けば、これは明らかに「クラシック」とは異なるファン層をターゲットにしたものであることが分かります。いかにも人工的な残響が、とてもふくよかにヴァイオリンを彩り、傷など全くないような甘く、美しい響きに満ちています。言ってみれば、アイドル歌手などの録音にありがちな過剰包装された音です。ところが、そんな甘ったるい音の彼方から、彼女でしかなしえないようなある種の主張が聞こえてきたのには、ちょっとびっくりしてしまいました。それは1曲目、大島ミチルの「Le Premier amour」というオリジナル曲での出来事です。いかにも引っかかりのない滑らかなテイストに満ちるその曲の中のある箇所で、彼女はちょっと音程を崩してまるでジプシー・ヴァイオリンのような雰囲気を出すという「表現」を行っていたのです。これは、こういう曲想の中で行われるとかなりインパクトのあるものです。もちろんそれは確実な主張となって伝わってきます。さらに、注意深く聴いていると、彼女はテンポもほんの少し揺らして、単調なメロディに陰影を加えてさえいるように感じられます。
カッチーニの「アヴェ・マリア」では、親子による共演が行われています。最初に出てくるのはお父さんのオーボエ、それはいつもの彼らしく、とことん熱いものを秘めた濃厚な演奏でした。それに続いて、2コーラス目には娘さんのヴァイオリンが聞こえてくるのですが、それが父親に負けないほどの情熱的なものであると同時に、父親よりもさらに洗練されたものであったのです。まるで、「お父さん、私みたいにちょっと力を抜いてみたらどうなの?」と、心温まる親子の会話を交わしているかのように、そのデュエットは聞こえてきました。
このパッケージは、CDの他にDVDも入っています。その映像から分かるのは、彼女の音楽に対する真摯な姿勢です。伏し目がちなその表情は、曲の内面だけを見つめているもの、聴衆に媚びるような目線や、口を半開きにして笑みをたたえるといった、「ライト・クラシック」のアーティストにありがちな見苦しい姿は、そこには微塵も存在してはいませんでした。

9月14日

のだめカンタービレ英語版/バイリンガル版
二ノ宮知子著

(英語版)

David and Eriko Walsh訳
DEL LEY/BALLANTINE BOOKS刊
ISBN 0-345-48172-0
(バイリンガル版)
玉置百合子訳
講談社刊

ISBN978-4-7700-4072-5


本当に迂闊だったのですが、「のだめ」には「英語版」(左)というものが存在していたのだめ。書店サイトを何気なく眺めていたら、それはいきなり視界に飛び込んできました。その、アメリカの出版社から2005年にすでに発売されていたものを即座に注文したことは言うまでもありません。そして、その現物を手にとってまず驚いたのが、英語の本であるにもかかわらず「右綴じ」になっていたということです。英語というのは左から右に読んでいく言語ですから、当然「左綴じ」になるはず、それはコミックの場合も同じで、吹き出しのセリフは左から、そして、コマの進み方は左上から右下に進むことになっているはずなのに。事実、何年か前までは、日本の「マンガ」を英語で出版する時にはその様に「左綴じ」にしていた時代があったそうです。そのために、わざわざコマ割りを左上から始まるように(日本語の場合だと、右上から始まります)書き直したり、あるいは多少手抜きをして原稿をそのまま裏返しにして印刷していました。
しかし、今では、「マンガ」はもはやそんな卑屈な思いをしなくても、ただ吹き出しを英語に直すだけで、そのまま読んでもらえるような時代になりました。少なくともこの分野では、日本の文化がそのままの形で受け入れられるようになっていたのですね。これには、少し感激です。もちろん、そんな「マンガ」の「文法」を知らずに読み始める人だっているはずです。そんな「自国人」のために、普通に左綴じの最初のページから読み出そうとすると、そこには「TOMARE!」というサインがでかでかと印刷されたページが待っているという仕掛けになっています。そこには「『マンガ』は、日本流に右から左に読まなきゃダメなんだよ。ここから読むのは間違い。一番『終わり』のページから読み始めなさい。そして、コマは右上から見ていくんだよ」と、初心者のためのメッセージがしっかりと印刷されています。
そして今年になって、こちらはオリジナルと同じ講談社から「バイリンガル版」(右)というものが発売されました。タイトルの通り、吹き出しの中は全て英訳されていますが、そのまわりの空白(その分、本全体が一回り大きくなっています)に元の日本語がそのまま書いてありますから、いわば対訳、それこそ「英語の勉強」にもなるという優れものです。
ただ、そこで用いられている英訳が、「英語版」のものとはまったく異なるものであるために、当然ながらそれぞれを比べてみるという楽しみも生まれてくることになります。この前の「指環」とは違って、原文もしっかりありますから、どちらがより正しいかもしっかり判断できますし。
ということで、軽い気持ちで比較してみたのですが、正直これほどの違いがあるとは思いませんでした。「バイリンガル版」を訳しているのは日本人のようですが、いかにも学校で教えるような「直訳」っぽい堅苦しさがあるのです。それに比べると「英語版」はかなり会話になじむ「意訳」になっています。その結果、「英語版」の方が圧倒的に滑らかな英語に直っているな、という感じなのです。日本語特有の「敬語」も、かなり忠実に取り入れています。そのためにわざわざ2ページを費やして、「-san」と「-sama」の違いとか、「Sempai」(これって、敬語なんですね)とはどういうものなのかを説明しているのです。ですから、「千秋せんぱ〜いっ」は、「Chiaki-sempai!」となるわけで、「バイリンガル版」での「Chiaki!」は大きく水をあけられることになってしまいました。
しかし、残念なことに、「英語版」には決定的な「誤訳」がありました。「ハリセン先生」の「ハリセン」を、「puffer fish」と訳しているのです。これを見た時には一瞬何のことだか分かりませんでしたが、辞書を引いたら「ハリセンボン」ですって。訳者の1人はErikoさんですから、おそらく日系人なのでしょうが、こんな関西ローカルの単語はご存じなかったのでしょうね。もう一つ、「2台ピアノのためのソナタ」を「Piano Sonata #2」と訳したのもお粗末。
ちなみに、こちらで取り上げた楽譜に関しては、「バイリンガル版」では新しいものを採用していましたが、「英語版」は古いままでした。

9月12日

HANDEL
Arias
Magdalena Kozená(MS)
Andrea Marcon/
Venice Baroque Orchestra
ARCHIV/00289 477 6547
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCA-1077国内盤 11/21発売予定)

コジェナーという人は、なんとも不思議な魅力をもつメゾ・ソプラノではないでしょうか。今回のジャケ写などは、はっきり言ってかなり不気味、美しさからはちょっと離れた、極めてユニークなチャーム・ポイントを強調したものとなっています。もちろんそれは、決して自分の恋人にはしたくないようなルックスなのですが。
しかし、ここで彼女が披露しているヘンデルのアリアは、まさにそんなルックスに背かないユニークさを持って迫ってきているのですから、驚いてしまいます。そんな印象を最も強く受けるのが、9曲目、「オルランド」から「狂乱の場」として知られる「おお、黄泉の国の怨霊よAh! stigie larve!」です。ここでのコジェナーはまさに「狂乱」そのものといったすさまじい表現を見せつけてくれています。レシタティーヴォは、殆ど音程も無視したような「叫び」に変わり、地声まで駆使して濃厚な情念を伝えています。
同じような、ほとんど「語り」に近いせっぱ詰まった歌い方が聴けるのが、2曲目、英語によるオペラ「ハーキュリーズ(ヘラクレス)」の中のデジャナイラが歌う「私はどこへ飛んでいけばいいのWhere shall I fly」というデンジャラスなアリアです。こちらも自分のミスで夫を死なせてしまったというシチュエーションですから、その歌は真に迫っています。わざと音程を狂わせて歌うというやり方は、言葉が英語ということもあって、まるでブロードウェイ・ミュージカルのように聞こえます。ジュリー・アンドリュースあたりの、あのいかにもわざとらしい崩し方ですね。コジェナーがそれをやるのですから、そこからはとてつもない迫力が生まれてきます。オペラもミュージカルも、人の声を通してなにかを訴えかけるという点ではなんの違いもないということが、時代を遙かに超越して伝わってくるような、それはものすごい迫力です。
そんな彼女が、有名な「リナルド」の中のアルミレーナのアリア「私を泣かせて下さいLascia ch'io pianga」を歌うとき、そこから導き出される言葉の重みに、思わずたじろいでしまうに違いありません。例えば先日聴いたマナハン・トーマスのような表現とは次元の違う、確固とした意志の力が、そこからは痛いほど感じることができることでしょう。
今回彼女とは初顔合わせとなるマルコンの指揮によるヴェニス・バロック・オーケストラも、彼女に負けないほどのテンションをもって、緊張感あふれる音楽を作っています。それは、1曲目の「アルチーネ」からのアリア「ああ、私の心よ、そなたは嘲るのかAh, mio cor! Schernito sei!」の前奏の弦楽器の刻みを聴いただけでも分かります。背筋がゾクゾクするほどの、恐ろしいまでの集中力がそこに込められていることに気づくはずです。一人一人のプレーヤーのレベルも高いのでしょう。「ゴールのアマディージ」からのメリッサのアリア「地獄から呼び寄せようDestero dall'empia Dite」でソロを聴かせてくれるオーボエとトランペットの素晴らしいこと(ただ、「テオドーラ」からの「私の哀しみほどに深い闇でWith darkness deep as is my woe」のイントロで確かに聞こえてくるトラヴェルソのソリストが、メンバー表に載っていないのは片手落ちです)。
そんな、歌い手もバックも申し分のない熱演を繰り広げているアルバムなのですが、全部聴き終わってもあまり幸せな気持ちになれなかったのはなぜなのでしょう。いかに素晴らしいものでも、あまりに主張が強すぎると、ヘンデルのようなものの場合は体が受け付けないのかもしれません。

おとといのおやぢに会える、か。


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