ポポロンと宇治金時。.... 佐久間學

(07/4/18-07/5/12)

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5月12日

SCHUBERT
Piano Quintet "Trout"
Jan Panenka(Pf)
Frantisek Posta(Cb)
Members of the Smetana Quartet
日本ビクター/JM-XR24205

CDの可能性を究極まで高めた「XRCD」については、例えばミュンシュの「幻想」や「オルガン」などでよく知られているはずです。日本ビクターが開発したこの高音質CDは、元々ビクター関連のRCAなどのオリジナルテープを使って作られていたのですが、最近ではレーベルを超えて過去の「名録音」と呼ばれていたものも登場するようになっています。少し前にはHARMONIA MUNDIのパニアグワなどが出ていましたね。このレーベルは、昔ビクターが発売していたこともあったので関連はなくはないのですが、今回はSUPRAPHONですから、全く無関係なレーベルということになります。本当によい録音のマスターテープの持つそのままの音質をCDで再現できるというこのフォーマット(もちろん、普通のCDプレーヤーで再生できます)は、いつのまにかそこまでの広がりを持つようになっていました。
名盤の誉れ高いこの「鱒」を、1960年に録音されたマスターテープからCDのためにアナログ−デジタル変換を行う「マスタリング」という作業は、ビクターの杉本一家さんという方が担当しています。それが行われたのが2007年の2月なのですが、そのほんの1ヶ月ほどあとに、実は別の録音での彼のマスタリングの現場に立ち会う機会がありました。その時に杉本さんの仕事ぶりを目の当たりにすることができたのですが、そこで見せつけられたものは、良い音に対する徹底したこだわりでした。たとえば、最初に行われるのが、接続してあるケーブルをいろいろなものに交換して聴きくらべるということを幾度となく繰り返し、最もその音楽に合ったものを選び出すという作業なのです。XRCDの説明を読むと、使われている機材のスペックなどが詳細に述べられていますが、こういう作業を見ていると、それだけではない、本当に細かいところまで神経を使っているということが、如実に分かったものでした。そして、最終的には、実際にマスタリングを行う人の「耳」がものを言うことも、はっきり分かりました。そこには、マスターテープの持っている味わいを、いかにしたらそのままCDに移すことが出来るのかという、元の録音に対するとてつもなく深い愛情がありました。
ピアノのヤン・パネンカと、スメタナ弦楽四重奏団のメンバーが中心になって演奏された「鱒」の録音は、かつてはほとんど一つのスタンダードとして広く知られているものでした。市販されていたレコードも、もはやオリジナルのSUPRAPHONだけではなく、得体の知れないレーベルからも廉価盤という形で出ていることもあったほどです。それらに接した限りでは、録音の面では特に印象に残るようなものではありませんでした。ところが、今回の新しいマスタリングによるCDからは、そんなレコードとはまったく違った音が聞こえてきたのです。実は、冒頭のピアノのアルペジオが終わった後は、ゲネラル・パウゼだとばかり思っていました。ですから、そこでなにやら音が残っていたのを聴いたときには、てっきり録音上の事故だと思ってしまったのです。しかし、それはコントラバスが延ばしていた音だったのですね。今まで数え切れないほど聞いてきたこの名曲ですが、スコアを見たことはなかったので、こんな風になっていたなんて、これで初めて知らされたことになります。そのポシュタのコントラバスは、なんとニュアンスに富んでいることでしょう。ボウイングの返しまでとらえていた録音が、このマスタリングによって見事に再現されています。
同じように、パネンカのピアノも、実に生々しく再現されています。それは、単にピアノの音だけはなく、そのまわりの雰囲気まで感じられるほどのものでした。まるで、1960年頃のちょっと垢抜けないチェコの録音スタジオの風景までが眼前に広がっているような錯覚さえ、この録音は引きだしてくれていたのです。
マスタリングだけでこれほどまでに情報量が増えたことで、ちょっと思いついたものがあったので確認してみたら、かつて、最新のマスタリングで音が全く変わっていたことをお伝えしたメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」のタッシ盤も、杉本さんが手がけていたものだったのですね。この「鱒」も、ますに「杉本マジック」のなせる業です。

5月10日

MOZART
Così fan tutte
Topi Lehtipuu(Ferrando)
Luca Pisaroni(Guglielmo)
Nicolas Riveno(Don Alfonso)
Miah Persson(Fiordiligi)
Anke Vondung(Dorabella)
Ainhoa Garmendia(Despina)
Nicholas Hytner(Dir)
Ivan Fischer/
Orchestra of the Age of Enlightenment
OPUS ARTE/OA0970D(DVD)


このDVDは、昨年のグラインドボーン音楽祭での公演の映像です。球を拾ったりするんですね(それは「グラウンドボーイ」)。BBCが収録して放送したものがパッケージになったものですが、これと全く同じもの(エンドクレジットも同じ)がNHKのBSハイビジョンでも放送されています。つまり、これはBBCとNHKとの共同制作なので、当然日本でも放送されることになるわけです。DVDではすぐ演奏が始まるものが、放送では最初にきちんと「音楽評論家」が出てきて前説を述べてくれますし、キャストが登場するたびにきちんとテロップが出てその人が誰なのかを教えてくれますから、こんな親切なことはありません。
ただ、その「前説」の中で、オペラに関しては造詣の深いその評論家の先生が、「この上演の歌い手はあまり有名な人たちではないが、その分しっかりリハーサルをしているので、完成度の高いステージとなった」みたいなことをおっしゃっているのを聞いてしまうと、そんな親切も時には仇になってしまうことがあるのだと思わないわけにはいきません。フェランドのレーティプーや、フィオルディリージのパーションなどは、「バロック・オペラ」の世界ではなくてはならない人、その他の人だってCDでのソロは数知れません。ドラベッラのフォンドゥンクなどは、先日のリリンクの「ロ短調ミサ」で絶賛したばかりですし。
しかも、彼らは言われるようなヒマな体ではないことは、2006年の6月末から7月初めにかけて行われたこの公演の直後に、レーティプーは「ツァイーデ」、パーションは「ポントの王ミトリダーテ」のリハーサルのためにザルツブルクへ飛ばなければならなかったことからも分かるはずです。
というわけで、実は売れっ子のキャストが集まったこの公演では、演出のハイトナーは一見なんの衒いもないオーソドックスなステージを作り上げているかに見えます。時代や人物の設定は元のまま、奇抜な「読みかえ」などは皆無です。しかし、そこで演じられているものの密度の高さには驚かされます。ダ・ポンテとモーツァルトが仕掛けた「罠」を、とことんリアリティあふれる演技の中から自然と浮かび上がらせようという強い意志を、そこからは感じることはできないでしょうか。プロット自体は何とも嘘くさいものなのですが、そこで真剣に「ドラマ」を演じることによって、それ自体が雄弁な主張を持ってくるのです。場面転換が非常に手際が良く、全く緊張の糸が切れないことも、大きなファクターでしょう。
その結果、お話の結末はまるでかつてのポネルのもののようなとてつもなく救いようのないものになりました。それは、どのキャストもドラマの中の役割をきちんと実体としてとらえて演じたことにより、ごく自然に導かれる結末だったのです。
ソリストたちは、皆アンサンブルにかけては長けたものを持った人たちばかりですから、デュエットなどの精度の高さには素晴らしいものがあります。それに加えて、ソロも見事、特にレーティプーのちょっとクールな、それでいて感情のほとばしりには不足のない歌いっぷりには感服してしまいます。パーションの深みのある歌も素敵です。
オーケストラは、オリジナル楽器のエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団。この分野での老舗ですが、ここではいささか精彩を欠いているのが気になります。主として木管楽器が、なぜか音程もフレージングも決まっていません。序曲の段階ですでにトラヴェルソは指がもつれている有り様、せっかくのアリアの足を引っ張っている場面もしばしば見られてしまいました。フィッシャーの取ったかなりゆっくりめのテンポでは、このオケは間を持て余しているのではないか、という気がするのですが、どうでしょう。

5月7日

MAHLER
Symphony No.2
Juliane Banse(Sop), Anna Larsson(Alt)
David Zinman/
Schweizer Kammerchor
Tonhalle Orchestra Zurich
RCA/82876 87157 2
(輸入盤 hybrid SACD)
BMG
ジャパン/BVCC-38471/2(国内盤 hybrid SACD

2枚組のCD、国内盤はどうなのかは知りませんが、輸入盤では以前にも苦言を呈したような、とんでもないパッケージになっています。CD2枚を重ねて差してあるという、本当にCDをいとおしく思う人だったら絶対出来ないような収納の仕方を平気でやっている人たちには、この商品を通じて「音楽」を届けているという意識は全くないのでしょうね。
もちろん、それは製造から出荷に携わる人の問題、演奏や録音を担当していた人の責任ではありません。というより、これだけいい仕事をしているだけに、その後のあまりに雑な扱いがやりきれなく思えてしまいます。
いつの間にかBMGの廉価レーベルのARTE NOVAから、大御所RCAに移っていたジンマン、もちろん、今のレコード業界ではそんな老舗レーベルに行ったからといって格段に評価が上がったとは考えにくいものですが、価格面でのランクは確実に上がってしまっていました。
そもそも、このCDから聞こえてきた音が、かつてRCAと言われて連想されるようなサウンドではなかったことが、もはやレーベルの個別のサウンドというものが存在していないという今の状況を反映しているものなのでしょう。ここで聴かれるしっとりとした弦や木管、炸裂する生々しい金管の肌触り、そして腹の底に響くような重たい打楽器の存在感は、在りし日のイギリスDECCAのサウンドそのものではないでっか。改めてエンジニアを確かめてみるとそれはサイモン・イードンというまさにDECCAサウンドの立役者、納得です。
そんなゴージャスなサウンドに助けられて、ジンマンの軽やかなマーラーはとても心地よく耳に届いてきます。オケ全体でひとかたまりになって迫ってくるというよりは、各パートの独立した細かい表情を集約して一つの表現に持っていく、というのが、マーラーに於けるジンマンの手法なのでしょうか。その結果、もしかしたらあまりマーラーらしくない音楽に仕上がっているのかもしれませんが、とても風通しの良い爽やかなものを体験することが出来ました。例えば、終楽章の後半に出てくるピッコロのソロは、おそらく本来マーラーはちょっと不思議なサウンドをもたらしたいためにこの楽器を選んだのでしょうが、トーンハレ管弦楽団のピッコロ奏者があまりにうますぎるために、逆になんの引っかかりも感じられないという皮肉な結果をもたらしてしまいました。
声楽陣では、アルトのラーションが、それほど深刻ぶらないでこのジンマンの世界に良く馴染んでいます。バンゼがこういうところで歌っているというのはちょっと意外でしたが、こちらは逆に少し張り切りすぎでしょうか。というのも、合唱で参加している、ベートーヴェンの「第9」などでお馴染みのスイス室内合唱団(「室内」といいながら、100人ものメンバーがクレジットされています)が、とことん冷静な歌い方に終始しているために、一緒に歌うソプラノがちょっと浮いて聞こえてしまうからです。ほんと、ベートーヴェンでは分からなかったことですが、フリッツ・ネフに率いられたこの合唱団の精緻なソノリテには、感動すらおぼえます。初めて合唱が登場する場面でのピュアな響きといったら、どうでしょう。特に男声パートがいかにも「大人」の音楽を提供、全体で盛り上がるところでも、決してコントロールが失われることはありませんでした。
そんな、ある意味醒めたパートの集まりから、ジャケットにある「魚に説教する聖アントニウス」のような、ちょっとユーモラスな世界すらも感じることが出来たというのも、ちょっと不思議なことなのかもしれません。

5月3日

MOZART
22 Operas
DG,DECCA,TDK/00440 073 4221

昨年、ザルルツブルク音楽祭で上演されたモーツァルトの全てのオペラのDVDセットは、まさにモーツァルト・イヤー最大の贈り物でした。厳密なことを言えば「花作り女」は音楽祭の期間中ではなく1月から2月の上演でしたし、「ティート」もここに収録されているのは3年前のものではあるのですが、そんなことはてぃーとも(ちっとも)問題ではありません。この全19セット、33枚のDVDから成るセットには、確かにこの年の熱狂ぶりまでも含めた、モーツァルトのオペラの最前線の記録が残されているのですから。
この「おやぢの部屋」では、その全てのセットのレビューを公開し終わったところです。ただし、それらのクレジットには、国内盤が出ているにもかかわらず品番は輸入盤のものしか表記されてはいません。つまり、これらはあくまで日本語字幕の入っていない輸入盤を見てのレビューだということを示す意味を込めて、その様な表記にしてみたのです。国内盤と輸入盤との最大の違いは日本語字幕があるかないかということですが、ただそれだけのために例えばこのボックスセットの場合では価格に3倍近い隔たりが生じています。常々ここで述べているように、国内盤DVDの価格設定は信じられないほど理不尽なもの、字幕だけのためにその様な暴挙を受け入れることは出来ないという、これは抵抗の姿勢のあらわれと受け取って下さい。事実、ことさら語学に堪能であるわけではないにもかかわらず、英語の字幕だけでなんの不自由もなくレビューを仕上げることが出来てしまったのですからね。
モーツァルトの音楽ほど、近年その演奏のスタイルが大きく変化したものもありません。19世紀のロマンティックな流れを汲むものは殆ど影を潜め、モーツァルトと同時代の様式に限りなく近づこうとするいわゆる「ピリオド・アプローチ」が主流を占めています。それぞれの演奏家の立場によってその取り入れ方は異なるとしても、今やこのムーヴメントは避けて通ることは出来ないものにまでなっています。今回のボックスでは、しかしそんなアプローチの差違よりは、やはり演奏者の個性の方がより印象に残っていたというのは、ある意味当然のことなのかもしれません。いかにこのムーヴメントの火付け役が指揮をしたところで、音楽そのものがつまらなければそれは退屈なものにしかなり得ないことは、「フィガロ」や「ティート」を聴けば誰でも分かるはずです。
DVDで映像として接するときには、やはり演出面に目がいくことになります。現在のオペラシーンでは、才能ある演出家であれば、かつて宮廷などで上演されたものを現代の聴衆の前で見せることにどのような意味を持つかということについて真剣に考えない人はいないはずです。その結果、退屈極まりないと思われていた「オペラ・セリア」が、見事に現代の観客にアピールするように変貌してしまうという「バロック・オペラ」の一大ブームが訪れることになったのですが、それはモーツァルトの場合も例外ではなかったことが、やはりこのボックスで確認することが出来ました。特に初期のほとんど知られることのなかったオペラ・セリアに於いて、見事な再創造がなされていたことは、個々のレビューでも述べてある通りです。
もちろん、その意欲は認めつつもアイディアが空回りして的確なメッセージが伝えられなかったものもかなり見受けられます。「後宮」でのプロットの崩壊はちょっとやりすぎでしょうし、「ツァイーデ」で「アダマ」という新作と合体させた措置も、到底成功していたとは思えません。「さまよい」の特に第2部と第3部も、あまりにもダンスの要素が勝ちすぎていて、モーツァルト・ファンを失望させていたことは明らかです。しかし、一方では、どんなに乱暴に扱われても、モーツァルトの音楽自体はびくともしないでその存在を主張していたことも、また確認できたのではないでしょうか。その様な意味でのモーツァルトの「強さ」が、図らずもアピールされたのであれば、それもまた一つの成果であったはずです。
個人的に最も面白かったのは、「バスティアンとバスティエンヌ」と「劇場支配人」を合体させたプロダクションです。オーディションという概念でこの2つの作品を無理なくつなげ、しかも「バスティアン」は人形劇というユニークさ、人間以上の演技を見せたくれたパペットたちに拍手です。

4月30日

MOZART
Irrfahrten II, & III
Ann Murray, Malin Hartelius,
Silvia Moi ,Marisa Martins
Josef Wagner, Jeremy Ovenden
Matthias Klink, Miljenko Turk
Marianne Hamre(Narrator)
Graham Smith(Dancer)
Joachim Schlömer(Dir)
Michael Hofstetter/
Chor der Ludwigsburger Schlossfestspiele
Camerata Salzburg
DG/00440 073 4250(DVD)


Irrfahrten」の「第2部」と「第3部」は、このザルツブルクでの公演が世界初演となる、まさにシュレーマーのコンセプトが最大限に発揮された作品になっています。そもそも「第2部」にはモーツァルトのオペラすら登場しません。タイトルは「Abendempfindung」、「夕べの憩い」と訳されるそのモーツァルトのリートが歌手(マレー)によって歌われるのが始まりで、様々な曲の断片が演奏される中、歌手そっくりの衣装とヘアスタイルの女(ハムレ)と男のダンサーがモーツァルトの手紙を読み上げるという趣向です。プロジェクターで映し出されるキャストに合わせて本物のキャストが演じるという複雑な「振り」も、ダンサーはともかくマレーまでも実に良くこなしています。ここでは男のダンサーが白いブリーフ1枚のヌードでダンスを披露したかと思えば、ステージ奥に設けられたプールで泳ぎ出すという、不思議な世界が広がります。合唱も登場しますが、そのメンバーも全て歌手と同じ扮装というのがショッキングです。
いろいろな曲がなんの脈絡もなく続く中で、グラスハーモニカのための曲が集中的に演奏されているのが印象的です。ちょっとシュールなステージを彩る、それは見事なアクセントに聞こえます。
「第3部」ではオーケストラもステージに上がり、全体がダンスフロアといった趣、ハムレもここでは「MC」という役回り、ワイヤードマイクを片手にこれから演奏される未完のオペラ・ブッファのあらすじと配役をDJ風ににぎにぎしく紹介します。もちろん、キャストは殆ど「第1部」に出演した人たち、あのイケメン、トゥルクも、ここでは少しコミカルな役に挑戦です。
ちょうど「後宮」と「フィガロ」の間に作曲されたことになる「騙された花婿Lo Sposi Deluso」と、「カイロの鵞鳥L'oca del Cairo」というオペラ・ブッファは、もし完成されていたならばあのダ・ポンテ・オペラと同様の人気を博していたに違いないと思わせられるほど、その残されたナンバーは魅力に満ちたものでした。「鵞鳥」でそのトゥルクが歌うアリアなど、あのレポレッロの「カタログの歌」を彷彿とさせるものですし、フィナーレの華やかさといったら、まさに楽しさいっぱいのブッファの神髄です。
後半は大勢のダンサーが登場してダンスが繰り広げられます。「ダンス」といっても、これはストリート系のかなり激しい動きのもの、流れるモーツァルトの曲の断片とはビートも曲調もなんの関係もないような印象を与えられるのは、シュレーマーの目指したところなのでしょう。
そして、そんな喧噪が一段落、ダンスがすんだところで合唱によってしっとりと歌われるエンディングが、モーツァルトの絶筆、「レクイエム」です。それは、実際の「絶筆」つまり後のジュスマイヤーなどが管楽器のパートを書き込む前の、作曲者が実際に残した部分だけが演奏されたものでした。それは、以前シュペリングが一つのサンプルとして録音していたことはありますが、それ自体に意味を持たせてこのような形で演奏するのは、CDやDVDに記録された形でリリースされたものとしてはおそらく初めての試みなのではないでしょうか。弦楽器だけの伴奏による「Dies irae」、そして「Lacrimosa」も、「アーメン・フーガ」も途中で未完のまま終わっているものをあえてそのまま演奏する、それこそが、この「遍歴」の終着点にふさわしいというのが、シュレーマーのコンセプトなのでしょう。

4月27日

MOZART
Irrfahrten I
La Finta Semplice
Malin Hartelius, Silvia Moi
Marisa Martins, Marina Comparato,
Josef Wagner, Jeremy Ovenden
Matthias Klink, Miljenko Turk
Marianne Hamre(Narrator)
Joachim Schlömer(Dir)
Michael Hofstetter/
Camerata Salzburg
DG/00440 073 4251(DVD)


モーツァルトには、「Irrfahrten」、つまり「さまよい」とか「遍歴」といった意味を持つタイトルの作品などはありません。これは、以前シュトゥットガルト州立劇場の「ラインの黄金」のプロダクションで演出を担当していたヨアヒム・シュレーマーという振り付け師が、モーツァルトの作品を再構築して3夜にわたって上演される「三部作」の形にしたものなのです。本格的なオペラとしては最初のものとなる「ラ・フィンタ・センプリーチェ」から始まり、間に様々な曲を集めたパスティーシュを置いて、未完の「騙された花婿」と「カイロの鵞鳥」の断片を紹介したあと最後の作品である「レクイエム」で締めくくるという、言ってみればモーツァルトの劇場音楽に於ける「遍歴」をテーマにしたプロダクションに仕上がっています。
そんな、「旅」には欠かせない旅行鞄が、ここでは一つのモチーフとして、全体を通して登場します。中に入っているのはお札とピストル、これらがなんのメタファーなのか、それは見る人の解釈次第でしょう。
「第1部」では「ラ・フィンタ・センプリーチェ」がそのまま上演されます。とは言っても、そこにはシュレーマーのコンセプトがしっかり入り込み、物語の進行を務める原作にはないキャラ(ハムレ)が登場することになります。彼女は登場人物を紹介したりレシタティーヴォの一部を語ったり、時には他のキャストと絡んだりまします。ちなみにタイトルには「みてくれの馬鹿娘」というかなりぶっ飛んだ邦題が一般に用いられていますが、主人公のロジーナ(ハルテリウス)は別に「馬鹿」なのではなく、「うぶな娘のふり」をしているというだけですから、いずれはこんな邦題は使われなくなることでしょう。と言うより、今まではそういうものがあるということだけは知られていたのに、実際に上演される機会が殆どなかったために直しようがなかっただけなのでしょうから、こんなDVDできちんと中身が分かるようになれば、自然と是正されることになるはずです。
舞台装置は白一色、登場人物も真っ白なシンプルそのものの衣装で登場したものが、場面が進むにつれて次第に赤い靴を履いたり、赤いベルトを付けたり、赤い時計をしたり、赤いシャツを着たり、そして最後には全身を赤い絵の具で塗られたりという「変化」が見られるようになってきます。ある種の成長過程の、これまたメタファーになっているのでしょうか。
女嫌いの兄カサンドロ(ワーグナー)に許されないために、恋人フラカッソ(オヴェンデン)と結婚出来ない妹ジアチンタ(コンパラート)のために、フラカッソの妹ロジーナが「うぶな娘」のふりをしてカサンドロを誘惑する、というお話、そのロジーナの本心ともいうべきキャラが、ダンサーによって演じられているのも、もちろんシュレーマーのプランです。全く同じ仕草をしたり、アリアの間にダンスを踊ったり、そしてこんな風にまるで「貞子」のような髪ではだかを披露したりと、大活躍。でもこれは、いくらなんでも「リング」(もちろん、ワーグナー)を意識したものではないでしょうね。

会場のレジデンツホーフは、ちょっとしたスタジオといった狭いところ、オーケストラも一応ピットに入っていますが、演奏している姿は観客からはよく見えます。通奏低音にフォルテピアノとリュートという組み合わせがちょっとユニークなところでしょうか。これはセッコの時だけではなく、普通のナンバーでも演奏に加わって、変わった味を出しています。
もう一組の恋人の片割れを演じているトゥルクというバリトンの、ひときわ伸び伸びとした素敵な声が印象的です。彼はマスクも涼しげなイケメン、きっとこれからファンが増えることでしょう。

4月25日

宮城なつかしCM大全集
宮城なつかCM保存会
ISBN4-9903231-2-2 CO876

全国(全世界?)ネットの「おやぢの部屋」でこんなローカルなCDをご紹介するのはちょっと気が引けるのですが、個人的に心の琴線に触れたものということでご理解ください。あ、もちろん制作者から金銭を受け取っているというようなこともありませんから。
仙台市の中心部、「一番町」や「中央通り」(最近は別な呼び方になっていますが)を歩いていると、何とも古色蒼然としたCMソングが流れているのに気づかされます。「♪キンコンカンコン金港堂」とか、「♪鈴喜が一番、一番丁の鈴喜陶器店」といった、お店の名前を連呼するだけというまさにCMソングの王道を行く、と言うことは、今のCM界では絶えて聴くことのなくなった歌が、一日中鳴り響いているのです。最近では東京から進出したおしゃれなファッションビルが建ち並ぶようになった仙台の商店街、その中に何ともミスマッチ気味に流れているこれらのCMソングたちは、まるで仙台商人の意地を見せるかのように、頑なに昔のままの姿でその存在を主張しています。
そう、この移り変わりの激しいマーケティングの世界で、この場所の街頭PAだけは、なぜか昭和30年、40年代のまま、昔からここで暮らしている人にとっては何ともノスタルジックな感傷に浸れるものになっているのです。その事に気づいた人たちが、その頃の時代に作られたCMソングを集めて、こんなCDを作ってしまいました。まるでセピア色に変わった昔の写真を見ているような、これは、その時代をこの土地で過ごした人にとってはかけがえのない「音のアルバム」になっているはずです。
最初に聞こえてくるのが、仙台駅前の丸光デパート(その後「ビブレ」→「ダック・シティ」と名前を変え、現在は「さくら野百貨店」)の屋上にあったミュージックサイレンから流れてくる「荒城の月」の録音です。もちろん、これは屋外で鳴っているものですから、まわりを走る車の音などもしっかり録音されています。そして、昭和47年に作られた、その「丸光」のCMソングが続きます。「おもちゃのチャチャチャ」などを作った越部信義というヒットメーカーの曲を、当時人気を博していたNHKの番組「ステージ101」でのレギュラーメンバー伊藤三礼子と藤島新が歌っているというものです。今でこそ頭が禿げ上がって見る影もない藤島ですが、その頃は今のキムタクのような甘いマスクと、爽やかな声が大人気、この歌の発表会のために来仙したときにはファンが押し寄せたといいます(風邪をひいていて、肝心の歌は歌わずサインだけして帰ったそうですが)。
このCDには分かる限りの作家や演奏家、そして制作年のクレジットが記載されているのも嬉しいところです。そこで、これらのCMソングは、大多数がその道の大御所の手になるものであることが分かります。「♪お茶お茶チャッチャカチャッチャ、井ヶ田チャッチャカチャ」という「お茶の井ヶ田」の歌は、「丸光」の越部信義が作っていたのですね。作られたのは「おもちゃ〜」とほぼ同時期、この二曲の間に同じテイストを感じるのも当然のことでしょう。
もちろん、いずみたくというようなまさにCMソング界の王者の作品も目白押し、その中で、「♪あの街、この街、仙都が走る」という「仙都タクシー」の歌を歌っているのが、デューク・エイセスです。常々街でこの歌を聴く度に、これを歌っている男声コーラスのことが気になっていたのですが、まさかデュークだったとは。というのも、録音年代からしてこれを歌っていた頃はオリジナルメンバーの和田昭治が在籍していたために、後の「にほんのうた」で聴ける谷口安正を中心としたタイトなサウンドとは全く別物のユルいハーモニーだったからです。しっかりしたデータのお陰で、そんな細かいことまで分かってしまいます。
CM創生期のパイオニア、三木鶏郎が作った「♪朝の一服永楽園の、お茶に茶柱立ちました」を歌っていたのは、「パイナップルプリンセス」の田代みどりだったんですね。そう言えば最後の「た」を「たぁ↑」とグリッサンドするのを聴けば、確かに彼女だと分かります。
最後のトラックは、再び丸光のミュージックサイレンで「この道」です。ここではなんとバックにSLの汽笛が。曲が終わる頃には「シュッシュポッポ」というピストンの音も聞こえてきます。これを聴かされて感傷にむせび泣かない人など、いるでしょうか。
流通はCDではなく書籍の扱い、仙台市内の大きな本屋さんで買うことが出来ます。宝文堂に電話をすれば通販も出来るみたいですよ。ただ、これは1000枚しかプレスしていないそうですから、お早めに。

4月23日

The Art of the Flute
Wolfgang Schulz(Fl)
Matthias Schulz(Fl)
Peter Schmidle(Cl)
乾まどか(Pf)
NAXOS/8.570309


「フィルハーモニック・ソロイスツ」という、このレーベルとオーストリア放送協会の共同制作によるシリーズは、ウィーン・フィルの各パートの首席奏者にスポットを当てて室内楽のアルバムを作るという企画です。今までにクラリネット、ホルン、ヴィオラ、チェロがリリースされていましたが、第5弾としてフルートの登場です。
アーティストは、今や押しも押されぬウィーン・フィルの首席奏者として大活躍のヴォルフガング・シュルツ、そして2005年からウィーン国立歌劇場のオーケストラのメンバーとなった、彼の息子マティアスです。1曲だけこのシリーズにも登場したウィーン・フィルの首席クラリネット奏者のペーター・シュミードルが参加、ピアノ伴奏はシリーズに共通している日本人、乾まどかです。
プログラムは、最初に2本のフルートの持ち味を堪能できるものが並びます。1曲目は、なんと、あの「のだめ」ですっかり有名になったモーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」を、フルート2本とピアノのために編曲したものです。のだめと千秋の息詰まるようなバトルを、シュルツ親子が再現しようという趣向です(いや、彼らにはそんな意識はないはず・・・)。エリーザベト・ヴァインツィールとエドムント・ヴェヒターという2人のフルーティストによって編曲されたこのバージョンは、原曲の煌びやかなテイストをそのままこの編成に置き換えたものですから、フルートにとってはまさに超絶技巧を要求されるものですが、シュルツ親子は見事にその華やかさを再現してくれました。そして、第2楽章ではたっぷり歌い込んだ味わい深いものも聴かせてくれます。リードをとっているのは左から聞こえてくるお父さん、右側の息子の方はテクニックにはなんの遜色もありませんが、ちょっと音が素直すぎるでしょうか。
2曲目は、同じ編成のクーラウの「グランド・トリオ」です。フルート愛好家にとってはかけがえのないこの作曲家も、「クラシック」界ではいまだにマイナーな存在に甘んじていますが、この曲あたりを聴けばおそらく今までこの作曲家を聴いてこなかったことを後悔するかもしれません。それほどに心の琴線に触れる旋律と溌剌とした生命力にあふれた魅力的な曲、この親子のようなしっかりしたテクニックでかっちり演奏されると、それはかけがえのないものにすら聞こえてくるはずです。
3曲目はフルートとアルトフルートの二重奏で、ジャン・フランセの「オウムの対話」という、小粋な作品です。とてつもない技巧をさりげなく聴かせることによってエスプリを浮かび上がらせるという、フランセならではの難しい面を持つ曲ですが、もちろんこの親子にとっては難なく料理できるものです。ここではマティアスくんがフルート、お父さんはアルトフルートでサポートに徹するというシフトですが、そうなってくるといかに父親の存在感が大きいかが如実に分かってしまうという、ちょっと辛い面も露呈されてしまいます。
4曲目は、ゲストのシュミードルとお父さんでサン・サーンスの「タランテラ」、これはまさに円熟の極みです。
そして、最後にプーランクのソナタがお父さんによって演奏されます。これはなんという隙のない演奏なのでしょう。とても60歳とは思えない技巧の冴え、表現も年寄り臭いところの全くないストレートなものです。「若さ」さえ感じられるこの怪演、このお父さんを超えることは、マティアスくんにとっては殆ど不可能なことではないでしょうか(頭だけは越えてますが。彼に必要なのは音楽性と増毛手術)。
室内楽を中心にウィーンで活躍されている乾さんのピアノも、フルートと対等に渡り合っているにもかかわらず、決して出しゃばることのない素晴らしいものです。それは、もしかしたらベーゼンドルファーの音色がもたらしたものなのかもしれません。

4月20日

MOZART
Requiem
福島章恭/
東京ジングフェライン
ヴェリタス室内オーケストラ
BLUE LIGHTS/AFCD 0002

2006年の10月録音という、まさに「最新」のモーツァルトのレクイエムです。この年、おそらく世界中でこの曲が繰り返し演奏されたことでしょうが、もちろんそれは日本でも例外ではありません。正確は数字など知りようもありませんが、生誕250年というこの機会にこの名曲を演奏しようとした団体はプロ・アマを含めて数限りなくあったことでしょう。そんな中の一つが、商業用のCDとなって「商品」としてリリースされました。この曲の録音についてはかなりのものを網羅したと思えるこちらのリストを見てみても、日本人の演奏によるものは1965年の若杉弘以外には見当たりませんから、これはある意味「快挙」と言ってもいいのかもしれません。
ここで指揮をされている福島章恭さんという方は、あるいは音楽評論家としてすでに名声を博しているのではないでしょうか。今までに何冊かの著書が出版されていますが、その情熱的な筆致は読むものをとらえて離さない魅力を持っています。それは、あの宇野功芳氏に私淑しているというところから生まれる、とことん自らの感覚に正直な語り口によるものでしょう。
その福島さんは、実は桐朋学園大学で声楽を専攻されたプロの音楽家でもあるのです。現在では合唱を中心に幅広く指揮活動も行っているという、まさに師匠譲りの二足のわらじで大活躍をなさっています。なんでも2005年にはプラハのスメタナホールでドヴォルジャークのミサ曲、2006年にはウィーンのムジークフェラインザールでモーツァルトのレクイエムを指揮したということです。まさにその曲がかつて演奏された「本場」で、耳の肥えた聴衆を前にしても一歩もひけをとらない演奏を披露した、ということになるのでしょうね。
ここで歌っているのは、そんな福島さんを慕い、彼のもとでの練習と本番の演奏会を通じてクラシック音楽の心髄に触れたいという人たちが集まって、2005年に結成された「東京ジングフェライン」というアマチュアの合唱団です。90人ほどの大人数、確かに一つの目的を持って集まったというエネルギーには、言いようのない力を感じるはずです。
その力を信じた福島さんは、この曲に真っ正面から立ち向かい、とてもパワフルな魅力を引き出しています。それは、小細工を弄して表面的な効果を追うのとは全く異なる、言ってみれば直球勝負の魅力でしょうか。結成から日が浅いということもあって、必ずしも細部でのまとまりには十分とは言えない面のあるこの合唱団は、その弱点を骨太な音楽でカバーして圧倒的な感動を伝えてくれています。
ただ、おそらくそれは実際に会場で生の演奏に接した時ほどには、このCDでは伝わってはいないのかもしれません。かなりデッドなホールでの録音ですから、マイクを通した時にはよっぽどエンジニアの耳が良くない限り暖かみのある音で収録するのは難しいはずです。特にオーケストラの音が、妙にざらついているのは気になります。そして、おそらく会場ではそれほど気にはならなかったことなのでしょうが、こうして客観的に聴いてしまうと、悠然と流れている合唱の前で、このプロのオーケストラが何とも余裕のない走り気味の醜態をさらしているのが分かってしまいます。
カップリングとして、2003年に録音された弦楽合奏版の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」と、2005年に録音された「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が収録されています。これを並べて聴くと、2003年には持て余し気味だった主観のたぎりが、2005年には見事に整った形になっているのが良く分かります。「円熟」とは、きっとこういうことを言うのでしょう。都庁だってありますし(それは「新宿」)。

4月18日

MOZART
Apollo et Hyacinthus
Die Schuldigkeit des Ersten Gebots
Singers
John Dew(Dir)
Josef Wallnig/
Sinfonieorchester der Universität Mozarteum
DG/00440 073 4253(DVD)


2006年のザルツブルク音楽祭では、モーツァルトが11歳の時に作った最初のオペラ「アポロとヒアキントゥス」と、その2ヶ月前に作られた宗教劇「第一戒律の責務」がカップリングされて上演されました。会場は以前ご紹介した「牧場の王」で使われたザルツブルク大学の講堂です。この二つの作品はいずれも「学校劇」として当時の学生たちによって上演されたものですから、まさに初演ゆかりの地ということになります。オーケストラがモーツァルテウムの学生オケというのも、初演の精神にちなんだものなのでしょう。それにしてもこのオーケストラ、ホルンとファゴット以外はほぼ全員女性というのは、すごいものがあります。
最初に演奏されたのは「3幕のラテン語による学校喜劇」というサブタイトルの、ラテン語の歌詞で歌われる「アポロ〜」です。男役もスカート姿というギンギンのロココ調の衣装に身を包んで、徹底的に様式化された演技が繰り広げられるのを見ていると、演出のジョン・デューは、まさに「学校劇」というよりは殆ど「学芸会」のノリの陳腐さを装うことを目指したのではないかと思えてきます。エバルス王(Maximilian Kiener)の娘である王女メリア(Christiane Karg)が、客人のアポロ(Anja Schlosser)と愛し合ってしまったことを妬んだモトカレのゼフィルス(Astrid Monika Hofer)は、腹いせに王子のヒアキントゥス(Jekaterina Tretjakova)を殺し、その罪をアポロになすりつけるのですが、アポロによって王子はヒアシンスの花に生まれ変わる、という崇高な話をラテン語で歌わせるためには、このぐらいの設定が必要だったのでしょう。
音楽の方も多少型通りのものが続く中で、最後近くで歌われる8番の王と王女の嘆きのデュエット「Natus cadit, atque Deus」は、ファースト・ヴァイオリンのピチカートに乗って歌われる「モーツァルトらしさ」が現れた美しいものです。ここで歌っているメリア役のカルクは、第2幕で歌われるとてつもなく技巧的な4番のアリア「Laetari, iocari」ともども、キャストの中で抜きんでた存在感を示していました。
後半の「責務」では、そのカルクだけが続投、他のキャストは全員入れ替えです。こちらは「宗教的ジンクシュピール」というだけあって、言葉はドイツ語、音楽も見違えるように溌剌としたものとなっています。それに合わせるかのように、デューの演出も一転して田舎芝居のようなテイストに変わります。
「第一戒律〜」などという重苦しいタイトル(出典はマルコ福音書)ですが、内容は擬人化された「正義」(渡辺美智子)や「慈愛」(Cordula Schuster)の命を受けた「キリストの霊」(Bernhard Berchtold)が、「世俗」(カルク)の影響で何かと楽な方へ流れようとする「キリスト教徒」(Peter Sonn)を正しく導こうとする、というものです。ここでのカルクは前半のお姫様ファッションとはうってかわって、全身を真っ赤にペインティングした「赤鬼」スタイルで登場、こんな極端に違う役を軽く演じ分けているのには驚いてしまいます。もちろん、歌の方も申し分ありません。いや、その他の人たちも、とことんこのドタバタ劇を楽しんでいるようで、見ている方も心が和みます。
5番のキリスト教徒のアリア「Jener Donnnerworte Kraft」には、トロンボーンのオブリガートが付きます。モーツァルトの最後の作品でもソリスティックに用いられたこの楽器、こんな早い時期から使われていたのですね。素晴らしい演奏を聴かせてくれるソリストが、天使の衣装とメークで客席の中からステージまで演奏しながら歩いてくるという演出は見物です。そう言えば、指揮者のヴァルニッヒも最後には「世俗」に連れ去られてしまうのですね。
おそらく「M22」での唯一の日本人、というよりは東洋人のキャストである渡辺さんは、歌はともかくドイツ語のディクションは到底西洋人には及ばないものでした。なにしろ最初に登場した途端、その違和感だらけの発音には戸惑いを感じないではいられませんでしたから。ついでに苦言を呈せば、このシリーズ、ブックレットが間違いだらけなのは困ります。19ページの写真のキャプションはともかく、この曲のサブタイトルが「Singspiels」ではなく「Festspiels」になっているなんて、信じられないほどお粗末。

おとといのおやぢに会える、か。


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