随想集 (末永) of 機友会福岡支部


機械科草創の頃の先生方

 終戦直後の昭和20年9月に大学を卒業し、同じ年の11月30日付けの辞令を頂いて、創設間も無くの鹿児島県立工業専門学校機械科の助手として奉職しました時、機械科では山下菊二(神戸工専から来任)教授がお一人で全ての専門教科を担当しておいででした。尤も生徒も一学年生だけではありましたが。先生は大変喜ばれて、良い処に来て頂いた、何でも良いから一つ二つ教科を担当して欲しいとの事で、何とはなしに金属材料を担当させて頂きました。これが生涯材料を専攻する機縁になった次第です。尚、私が就任しました時には既に中学、高校の先輩で航空出の栫井民男(現栫井グループ社長)先生が主として数学や力学を担当しておいででしたが、間もなく退職なさいました。
 年が明けて程無く新門繁(後迫水久常代議士秘書を経て鹿児島酒造社長、先生の在任期間も極く短かったようです)先生が、次いで中嶋繁(後工学部長、昭和63年退官、名誉教授)先生が着任されました。中学、高校一緒でした中嶋先生とその後定年まで40年余りも同じ機械でお世話になろうとは。小原貞敏(元満鉄、初代校長、工学部長梶島二郎先生の後を受けて工学部長に就任、在任中の昭和38年鹿児島工業専門学校創設に伴い校長として転出、故人)先生や後藤隆三(元ハルピン工大教授、昭和24年鹿児島工業専門学校の校長に転出、後鹿大教育学部に復帰、昭和36年退官、故人)先生が取り敢えず非常勤として、お越しになったのはその後間もなくだったかと思います。
 文部省は引き揚げて見える外地大学高専勤務の教官の受け入れに苦慮して、県立工専にも大分働きかけがあったようです。当時山下先生からこう云う話があったけど断っておきましたよとよく伺いましたが、何故断られたのかその辺りの事情はよく判りませんでした。その中に、旅順工大の上滝具貞(九州工大名誉教授)先生とか、台北帝大の長岡順吉(東京水産大学、故人)先生などの名があったのを思い起こします。
 松下兼次(昭和60年退官)先生、野添光夫(昭和43年鹿児島工業高等専門学校に転出、現第一工大教授)先生が着任なさったのは昭和22年にはいって間も無くだったと思います。松下先生は私より中学、高校で一年下、野添先生は中学の二年上で中嶋先生共々最も身近な存在でした。米倉豊彦(昭和49年退官)先生も同じ頃で製図や実験を担当して頂いておりました。
 山下菊治先生は機械科の科長であり、亦最初の先生でしたが、昭和22年7月、第一回の卒業生を送り出す事もなくして急逝されましたのは何とも残念な事でしたし、私どもも亦全く途方に暮れる思いでした。山下先生急逝後間もなく、七高の恩師黒木長太郎先生のご紹介で着任されたのが中学、高校の先輩石神重男(後工学部長、昭和55年退官、名誉教授)先生で、ぐいぐいと引っ張って行って頂きました。同じく、中学、高校の先輩黒木剛司郎(昭和27年茨城大学に転出、同工学部長、学長を歴任、同大学名誉教授)先生が着任されたのは工専第一回生皆さんが巣立つと同時だったと思います。先生には、研究を一緒にさせて頂き、私の研究生活のスタートを切って頂いたというご縁があります。八浜康和(県立大学発足と同時に文部省西川孝次郎科学官の紹介で来任、昭和32年9月急逝)先生には直属の上司としてお仕えもしましたし、亦、実験や研究その他様々な面で随分鍛えても頂きました。それだけに先生の急逝は大きなショックでした。これらの諸先生方は私のその後の大学生活、研究生活に大きな示唆を与えて下さった事を今尚感謝申し上げています。
 田中義弘(平成4年退官、第一工大教授)先生は県立工専第一回(昭和23年)卒業生の中から唯お一人だけ特に名指しで残って頂いたのでした。若原稔(平成4年退官、第一工大教授)先生は昭和25年私の友人の紹介で、副手として来任頂いたのが縁の始まりでした。
 昭和24年には鹿児島県立大学工学部が発足して、昭和26年の3月で県立工業専門学校は終息する訳ですが、それまでの間に機械科に在職された先生方に就いて思い出すままに記して見ました。今日の機械工学科の基礎を築くに付いて、大なり小なり、夫々に貴重な足跡を残された方々であります。