随想集 (石神) of 機友会福岡支部


思い出・・・始まりの頃・・・鹿児島工専始めの頃・・・国立大学移管の頃


工学部の前身鹿児島県立工業専門学校が創立されたのは昭和20年4月で、4ヶ月後には敗戦となり、その後改めて学生を募集し約2000人の中から約240人を合格とし改めて発足したという。私がその教官として任用されたのは昭和22年9月で、一回生があと半年後に卒業予定の頃であった。その時既に着任されていた末永先生から旧七高の黒木先生を経てお話があり直ちに学校を拝見した。戦災を受けた旧兵舎跡で窓ガラスもなく生徒の机椅子も不十分で機械や研究設備もない姿だった。その時私は「この学校は鹿児島に有史以来欠けていた科学技術の高等教育機関だ。絶対つぶしてはならぬ。私がこの学校に巡り合ったのは天の命かもしれない」と電撃に打たれた想いだった。以来、今日まで鹿児島大学のために微力を尽くしてきたが、現在博士課程のある大学に迄発展した姿を拝すると感慨無量である。さて、一回生に卒業までに、も少し自信を付けてやりたいと考えた末、「只でできること」をやりましょうとクラス担任の末永先生と相談し実施した。その一つは工場見学で、戦災を受けたといっても探せばどこかが稼動している。選んだのは、国鉄の工機部、新聞社の輪転機、専売工場、川内の火力発電所、鋳物工場、織絹工場等で、厚かましくも見学中の説明役は工場長さんか部長さんにして下さい、そのお姿やお人柄も見学対象ですからとお願いした。熱心な説明が聞けたし、聞く学生の目もひときわ輝いていた。
 今一つは、卒業設計として自分の好きな機械を設計製図して出させ、その審査は全教官の面接諮問によった。この事により学生諸君は技術屋としての自信と喜びを深めたようであった。
 鹿児島県立工業専門学校が学制改革により県立大学となり、さらに昭和30年7月国立移管が決まり、以降学年進行し昭和33年4月移管完了、工学部の組織、校地、校舎が一段落した。この昭和30年の前後数年間、私はあらためて「大学とは何か、大学教育とは何か、工専と大学は何処が違うか、何処が違うべきか、大学生とはなにか、大学教官とは何か、工学部に入った学生をどんな姿に教育するのか」等々、深刻に考えた。おぼろげな事がいっぱいであるが私はこれらを単純明快に「大学は自力で走れる人間」を養成する所と割り切った。つまり事にあたり、問題を自分で見出しそれを自分で解決または解決しようとする人の養成である。さらに学生に解りやすく「機関車になれ」と話した。ここに云う機関車は昭和30年ごろ迄国鉄で広く使用されていた蒸気エンジン付き機関車で、自力で走る。私が具体例として機関車を選んだのは正に「自力で走る」この点であり、しかもその姿がエネルギッシュで、ダイナミックで学生の心に共鳴するところも多く、大学生の奮起発展に大きく寄与した。しかしあれから10年新幹線が走り出す頃になると各車両に強力モーターが付けられる型に変わり蒸気式は見る見る消え去り私の機関車論は表現が不適切になってしまった。すごいスピードで世の中が変わりつつあるとしみじみ思った。此処に工学部創立50周年に当たり、往時を偲びつつ、工学部のお栄えを切に祈る。