随想集 (八田) of 機友会福岡支部


在任中の思出


 大阪からスバル360を家族3人で交代運転し、鹿児島大学へ赴任したのは昭和40年の春でした。それから6年間在任しましたが、この間には、いわゆる大学紛争があり、これは工学部50年の歴史に残ることの一つであったろうと思います。また、私にとっても、通算40年余りの教員在職中で最も多事の時期でした。
 在任中の記憶に残ることは、大学院工学研究科修士課程が開設された事です。当初はいろいろと難しいこともありましたが、無事発足しました。機械工学専攻の修了者はそれぞれの道に進んで活躍しており、その中、二・三の方はその後も大学に残って研鑽を重ね、現在教授として母校の発展に努めています。このことは、私が鹿児島大学に在任したよい思い出として心に残っています。
 大学紛争とそれに関連したことも忘れません。大学が自らの責任でその自由を確保すべき教育と研究の問題以外の一般の秩序が保たれず、これに対して学内の意見もまたいろいろと多く、学内は大変混乱しました。当時私は評議員をしていましたが、幸い工学部の穏健な考え方に支持されて対応する事が出来ました。評議員の任期満了の後にもなお、引き続き紛争関係の事に係わる事も多々あり、深夜まで学内に留まることも一再ならずでした。
 しかし、一方で大学の教育、研究、管理運営について、現状を検討して改革を試みる企てが行われ、其の為の委員会が設けられました。そしてその中に教育と研究について討議する小委員会がありました。この会に工学部からは、教授会の指名により私が加わることになりました。ここでは先ず、各学部の現状が説明され、それを踏まえて、大学における教育と研究並びにその相互関係などについて、各委員から活発な意見が続出し、その過程において互いに他学部のことについて一層認識を深め、議論が進められました。そして、将来における大学の教育と研究に対する理念とその実現のための具体的な案をまとめて報告書を作りました。この結果を直ちに実行に移す事は、当時としては困難でしたが、何年か先に進むべき目標と考えていました。博士課程の設置された今日では最早、過去のものになったと思いますが、工学部ではこの小委員会に出ていたのは私だけでしたから、記しておきます。
 この小委員会に出席できた事は、私にとっても幸いでした。第一は討議の対象が大学の本質に関わることで、教官として最も関心の深い事柄であった事です。第二は、討議を通じて、工学以外の他の分野の実情や考え方が理解できると同時に、他の分野からは工学という分野がどのように見られているかということが分かったことでした。
 夕方会合が終わり帰途につくと、途中、道の傍らの木立に、多くの鳥が集まって囀り、大変賑やかで、並んで歩いている人の話し声が分からない程で、自然の環境が残っていました。
 心に残っていることを思い出すままに記しましたが、20年余りも前の事ですから、誤りもあるかも知れません。ご宥怒下さい。