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アンモニア合成法の成功と
第一次世界大戦の勃発(1/2)
(要約+注釈)

 
原文著者=廣 田 鋼 藏
原文=現代化学1975年2月号に掲載
  人類にとり重要な文化資産というべきアンモニア合成法(ハーバー・ボッシュ法)はハーバーとボッシュにより完成された。通説はこの成功を第一次大戦の勃発の一因としているが、これが誤りである理由を紹介し、あわせてなぜこうなったかを説明する。
 多くの日本の教科書・専門書などでは、1913年にドイツのBASE社が完成した元素からのアンモニア合成法の誕生と第一次大戦の勃発とを関連づけて紹介されている。たとえば大戦を予想してドイツ政府がその研究を援助推進したとか、研究の成功を知ってドイツ皇帝が開戦を決意したとかいう表現が珍しくない。さらに大戦開始後に、ドイツ軍指導部がF.ハーバーに研究着手を依頼し.その成果をC.ボッシュかたちまち工業化したという記載もある。したがってアンモニア合成法は、科学的研究が軍軍的要望によって支援され完成された好例としてたびたび引用されている。
 しかしこの説が誤りなことは、アンモニア合成の歴史を少し調べれぱ、直ちにわかる。それにしてもあまりにも多くの人の脳裡に通説がしみこんでいる。私はこの偉大なな文化的遺産の出生に対する誤伝を解き、正当な理解を与えるために、通説に反対する三つの理由を説明し、さらに何故このような事態が生じたか考察し、これが半ば意図的に作られた可能性さえ考えられる点を指摘したい。

 
1.アンモニア合成法の開発の背景(年代的反対理由)

 まず空中窒素固定法の発展を年代的に順々に述べてそれを通説に対する消極的反対理由とする。
 窒素化合物供給不足の懸念は19世紀末の欧州にとって今日のエネルギー資源問題同等に重要なテーマとなっていた。(なお原文が掲載された時期は1975年なのでちょうど石油ショックのころです。だからこのような表現になったのでしょう。) 
 その原因は18世紀にイギリスに始まった産業革命が、19世紀には欧州大陸にまでも拡がったためである。その結果、農産物の生産が対応できぬ程の人口の激増と高いGNPに伴う土木業・鉱山業の発展とが生じた。
 そのため人造肥料や火薬・爆薬の需要が増加した。それらの製造には窒素化合物が必要である。そういうことで19世紀末の欧州にとって窒素化合物供給不足の懸念は重要な社会問題となっていた。
 その要望に応えて、まず人造肥料対策には、産業発展と共に生産されたコークス製造の副産物として生ずる副生硫安(硫酸アンモニウムのこと)が利用された。ついでチリ硝石(硝酸アンモニウム)が1820年以来、欧州へ輸入されて不足を補い、さらに火薬類の原料としての要望に応じた。やがてチリ硝石の輸入量はは副生硫安の生産量を抜いた。
 19世紀末になると需要の激増するチリ硝石が限りある天然資源であることから、その枯渇が心配され出した。そのような背景から1898年ににドイツではなくイギリスのBristolで行われた大英学術協会の集会で、W.Crookes卿は食料不足の要因になる窒素化合物不足の懸念の解決策として、無尽満というべき大気中の窒素から窒素化合物を取り出すこと、すなわち空中窒素固定法の研究の緊急性を強調した。(よって戦争の危機が迫ったため空中窒素固定法の研究が始まったいうわけではないのでは・・・・)
 

表1 1903〜1912年の窒素肥料の生産高(単位ton)
年度
チリ硝石 ノルウェイ硝石 副生硫安 石灰窒素
1903
1,485,312           25    526,000           -
1904
1,559,087         550    575,000           -
1905
1,754,605       1,600    653,500           -
1906
1,822,144       1,600    751,000           -
1907
1,846,037     15,000    837,500           -
1908
1,970,974(1.23)     15,000(1.51)    893,000(1.19)      15,000(1.11)
1909
2,110,961(1.18)     25,000(1.23)    976,000(1.15)      25,000(1.08)
1910
2,465,415(1.13)     25,000(1.22) 1,100,000(1.23)      50,000(1.05)
1911
2,521,023(1.21)     25,000(1.25) 1,157,000(1.36)      80,000(1.06)
1912
2,584,470(1.37)        不明(1.28) 1,300,000(1.45)    109,200(1.18)
( )内はハンブルグにおける窒素1kgに対する平均市価(マルク)。ただしノルウェイ硝石は窒素含有13%の場合または硫安または全部副生硫安である
(下のグラフは上記表1をグラフ化したもの)
( この表のデータは、肥料に含まれる窒素の重量を表すのか、それとも、肥料そのものの重さを表すのか私にはわかりましぇん〜 (^_^;)  )
 Crookes演説に刺戟されてか、1902年に空中電弧法がK.BirkelandとS.Eydeによりノルウェイで工業化され、1905年には石灰窒素法がA.FrankとN.Caroにより工業化された。しかし両者は共に多量の電力を消賞するので、生産原価が高く、増産にも限度があった。
 したがって空中窒素固定の新方法の登場が要望された。これに応えたのが、アンモニアを元素から直接に合成する可能性を示したハーバーの研究であった。この合成法は1909年7月には実験室プラントにより初めて液状アンモニアが製造できるようになった。
 なお、この段階にいたるまでの過程でハーバーはドイツ政府から財政的援助を受けてはいなかった。しかし実験室プラントの成功以後、彼の学術的名声は一段と高まり、 1911年に ベルリン のDahlemに新設されたカイザーウイルヘルム研究所の電気化学関係等の所長に任命され、それ以後、彼は政府から多額の研究費を受け、自由に研究を推進できる身分となった。この恵まれた待遇はアンモニア合成を政府が支援完成させた証拠と誤解されるかもしれない。しかしここでの研究は、平行定数の正確な決定という自然科学的な地味なものにとどまり、もっと実用的な工学的研究とは程遠いものだったようだ。だからこの厚遇をもってその証拠とするのは少し無理があると思われる。
 さて、1909年に生まれたハーバーの実験室プラントの技術は、BASF社のボッシュが引継ぎ工業化にかかった。そして1913年9月にOppauで日産10tonの本工場の運転が開始された。そしてBASF社は廉価な硫安を市場に売出した。しかし年産にして3000ton位なので、大戦の開始時に全硫安に対するその割合は少なかった。それでも表題の両事項を結びつける説がある。これを政治的立場から批判しよう。

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フリッツ・ハーバー
カール・ボッシュ