アンモニア合成法の成功と
第一次世界大戦の勃発 (3/3)
(ほぼ原文+注釈)
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3.火薬類原料としてのアンモニア(化学的反対理由)
原子兵器のなかった当時、戦争遂行に必須の化学資材は何といっても火薬類であるが、綿火薬・TNT・ピクリン酸・ダイナマイトのいずれもが、その製造原料に硝酸を不可欠とする。現在では硝酸は全て式(3)のオストワルド法により製造されているが、開戦時のドイツでは大部分がチリ硝石から作られていた。
オストワルド法とは、その名のごとくオストワルドが1900年頃に白金板を用いて、初めて工業化した方法である。アンモニアを空気酸化して式(4)のα過程により、まずNO、ついでN2O4を作る工程と、このN2O4を水に吸収させて硝酸を付る工程より成る。ところが副反応のβ過程で窒素と水にまで分解し易いという難点があった。これを避けるために触媒を含めて適当な反応条件を選択することが困難とされている。
β
α
N2十3H2O十2O2←2NH3+7/2O2→N2O4+3H2O(4)
オストワルド法による工場は、1908年に日産130ton規模でGertheで操業が開始され、開戦時に至った。しかしその概要しか知られていなかった。1838年にKublmannが白金粉末を用い、微量のN2O4を得たと報告しているので、オ法(オストワルド法のことでしょう)の特許権はドイツでは許可されなかった。これが方法の詳細はオストワルドによって学術雑誌に報告されなかった理由であろう。
一方、肥料として硫安は硝石に劣るとの説もあるので、BASF社はアンモニア酸化の研究を、1918年末にMittaschに命じた。しかしオ法特許に反対した経緯もあって、同社は触媒には白金を用いないとの制約を付した。それにもかかわらず彼は翌3月には優れたFe/Mn/Bi系触媒を発見した。もちろん、アンモニア合成触媒探究の経験がものをいったのである。それから半年後に大戦が勃発し、長期戦の様相にあわてたドイツ軍部は、ボッシュに問題の解決を依頼した。すでに準備ができていたBASF社はオ法によらないで10月から新工場の建設に着手し、1915年5月から操業開始するに至った。こうして同じ目的で設立されたベルリンの工場と相俟って、ひとまず軍の緊急の要望は達せられた。
化学的反対理由としては以上で定性的に充分であるが、( おいおい、そんなんじゃ普通の人は簡単に理解できないよ。ようするに「開戦前から軍が火薬製造のために空中窒素固定化技術開発に関与したのなら、硝酸の酸化も含めて総合的に開発させていたはずだ。オストワルド法以外の触媒の開発だって必要ないではないか」、ということが定性的な証明なのかな?)さらに定量的にこれを裏付けよう。oppau工業の硝酸製造能力を調べると、当初は日産150
tonである。他方、その計画着手の10月の合成アンモニアが、日産20tonに増産されていたとしても、これを転化率100%として硝酸に換算すると75tomに足りない、
┌たぶん、 ┐
|アンモニア1分子で硝酸1分子できる。 |
|N(窒素)=14 H(水素)=1 O(酸素)=16 |
|HNO3(硝酸)=1+14+16×3=63
|
|NH3(アンモニア)=14+1×3=17
|
|本来必要なアンモニアは |
|150/63×17≒40.48
│
|不足分は40.48-20=20.48 │
|これを硝酸に換算すると │
|20.48×63/17=75.89≒75ってことかな?|
| いや?40.48≒40 |
|∴20/40×150=75ってことかな? |
└アバウトだな〜(^_^;) ┘
oppau工場の原料アンモニアの残り半分と他の全工場の全アンモニアは、副生硫安などから供給されたとみられる。ということは、ドイツ軍部はチリ硝石の入手が不可能になった場合をたとえ想定したとしても、アンモニア合成法の成功を重要視しなかったかも知れない。
しかし実際には予想外の長期にわたる資材戦となって、本法は図1で示したごとくアンモニアの主要源となり、また窒素肥料源となった。英仏連合国側から、ドイツは空気からパンのみか火薬まで作っていると恐れられた原因はここにある。
この章を終えるに当たり、死の年の4月22日にMittaschが友人に苑てた悲痛な回想的の手続の一部を掲げて参考に供しよう。
It actually was an accident that in 1914 we,in the BASF
,had a new catalyst ready for nitric acid from ammonia ,which then made
it possible to start a new manufactyure in a hurry (October 1914 to Spring
of 1915).Bosch later often remarked,it would have been better
if we had not had the Fe-Mn-Bi catalyst;then the war would have ended in
1915 and world history would have been different - better on the whole!
Small cause,big effect-a release of a chain reaction!
(太字は筆者(すなわち原文著者))
(この”太字は筆者”というのは何を意味するのであろうか?。太字部分は筆者が想像して注釈したという意味なのか、それとも太字で強調したのは筆者という意味なのであろうか?。前者であれば、太字部分を取り除いてしまうと私の英語力ではまったく理解できなくなってしまうんですが。太字の部分がないとどこが”悲痛”なのか私にはわかりません。だから、後者の意味だと思うんですが・・・・(-_-) 太字で強調したくらいでこんな注釈付けないでほしいんですが。混乱するんで・・・・・う〜ん!、それとも本当は"October
1914 to Spring of 1915"という箇所を太字にせよ、と筆者は指示していたのだが、出版社が例のごとくミスプリして別の場所を太くしてしまったのかな? ?(゚_。)?(。_゚) )
4 .誤った通説を産んだ一原因と結語
以上のごとく、アンモニア合成法は軍国主戦的要望達成のためドイツで着手され、その教府により支援され、完成され、あるいは開戦の一因となったとの通説がある。しかしこれらは全て妥当でないことを異なる三つの方回から示した。どうしてこんな通説が広まったかは大いに検討する必要がある。
まず本法の完成が開戦少し前であったため、一般人はもちろん、化学者にまで、その全貌が知られなかったこと、しかも戦争により国際間の情報収集が困難となり、機密保持を意図するBASF社にいよいよ好都合となった事情があげられる。
BASF社は、戦後数年間も連合国占領地区にあったが、第二次大戦後と違って特許こそ敵国資産として没収されたが、ノウハウまでは公開させられなかった。
しかも戦後まもなく現われた連合国側の見当違いの文献が、上述の疑惑を増幅し、通説を信頼させるに役立ったと思われる。二つの例によって説明しよう。第一は、”世界攻撃戦争の協力者としてのドイツ学者連”と題するフランスの一雑誌に載った評論である。これによると多数のドイツ学者は以前から戦争準備に参加していた。その結果、開戦時にはチリ硝石を初め各種の資源不足を解決し、長期戦を可能としたとしている。第二は、アメリカの一技術将校が、イギリスの有力雑誌に寄稿した空中窒素固定法の総説である。彼は序文に”この重要な方法を急速に進歩させたのは、戦争であって平和ではない”と断定し、”ドイツは冷血な打算的立場から、この研究に奨励金を出して支援した”。そしてハーバー、オストワルドらの研究により、”チリ硝石への依存の心配なくなるまで、宣戦布告をおさえていた”と書いて、それから本文にはいっている。(ま、勝てば官軍ですな・・・言いたい放題だ、俺みてぇー(^_^;) )
戦争の余波とみられる、こんな事実を意図的にゆがめた記述を読んだ人々、それを間接的にきいた人々が、何らかその影響を受けるのは不思議でない。しかし年月の経過は戦争の悪夢を薄らげ、正しい事実を浮び上らせると期持される。ところが依然として消えさらぬ原因の存在を、ここに注意しておきたい。
第一は、本法の成功が科学の進歩と戦争との関連する好例として示され、化学者を含めて全科学者の研究目的の反省や検討の資料とされる場合である。序文にも触れたごとく、この傾向は第二次大戦後に特に認められる。第二は、科学技術の振興が国防上に重要なことを強調するため、これを引用する場合である。その例は両次の世界大戦間に出版された我国の各種の書中にみられる。著者は恐らく政府と民間人に、純正と応用化学の重視を認めさせようと意図したのであろう。
しかし論理的にきわめて辻褄が合っていても、いずれの主張をも誤りとわかった以上、正しい化学史の立場から、これらを無視するに止まらず、積極的に消し去ることが望ましい。
対象とする事項がアンモニア合成法という、人類にとって貴重な文化の資産の誕生に関係しているからである。(完)
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