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ついに陥落 けっきょくミューズ軍は8月9日、リエージュ要塞群の攻撃を一時中断する。そして、新兵器の到着を待つ。いわいる大ベルタ砲といわれたクルップ社の420mm重砲である。この重砲は、当時としては世界最大のものだったらしい。そのほか、ドイツ軍は当時、オーストリアからのスコダ社の305mm砲を数門借りていて、これらもリエージュ要塞群の攻撃に向った。 それとは別に、8月12日、ドイツ政府はまたもやベルギーに黙ってドイツ軍を通すように、オランダ政府を通じで次のようにベルギーに懇請する。 「ベルギー軍は、味方よりはるかに有勢な勢力にたいし、果敢な抵抗をおこない、その名替を高揚したいま、ドイツ政府はベルギー国王およびベルギー政府にたいし、ベルギーを今後戦争の惨禍から救うよう 懇請 するものである。そしてドイツは、独軍の自由通行を立て前としたものであれば、どのような契約をも結ぶ用意がある。ドイツはベルギー領土を占取する意志もなく、戦況の許すかぎり、できるだけ早い時期において、ベルギー国内から撤退する用意のあることを 厳粛に保証 するものである」 当然のことながら、ベルギーは懇請を拒絶する。 一方、ドイツ軍の重砲は途中、トンネルが爆破されたりして、輸送が困難になったが8月12日、待ちに待った重砲大ベルタ砲が要塞群を射程にとらえた。ポンティス要塞が最初の餌食となった。
こうして、つぎつぎと要塞は重砲に破壊され、ついに8月16日最後に残ったロンサン要塞が破壊され、瓦礫の中から気を失ったベルギー軍のルマン将軍が発見され、ドイツ軍の捕虜となった。 このリエージュ攻略の戦功により、のちにエンミッヒとルーデンドルフは二人とも、ドイツ軍人に与えられる最高の勲章である、青、 白、金色の十字章〃プール・ル・メリート〃(功労章)を授与され、首にかけることになった。 ロンサン要塞の陥落につづいて、独軍はミューズ軍を解散して元の部隊に再編成しなおしたと思われる。そして8月17日頃、独軍右翼全軍が、ベルギー横断の行軍を開始した。 ドイツ軍の進撃は、動員後約2週間後に軍勢を整えてから行う予定だったので、ベルギー軍のリエージュでの抵抗はシュリーフェンプランの予定より約2日遅れさせたようだ。 このリエージュ要塞があっさりと重砲により陥落したことにより、フランス軍に要塞不要論という考えがうまれ、のちにヴェルダンの悲劇がうまれたと、リデルハートは、その著「第一次世界大戦」で評しているようだ。 また、ドイツ軍のリエージュ近郊での残虐な虐殺行為が、協商国側にに人道を踏みにじつた敵を撃たずばやまずと奮い立たせた原因と例証をあたえたとバーバラ・W・タックマンは、その著「八月の砲声」で評している。 その後、約数ヶ月のち、各国は塹壕という一種の要塞をそこら一帯に築き、その塹壕の間で兵士たちはリエージュの初戦で死んでいった兵士たちのように、まるでいなごのように大量に殺されていく。 ますます強まる火力。そして無謀な肉薄攻撃。....... リエージュでおこなわれた大量殺戮はその後いたるところで、さらに大規模に行われていく。そして制御不可能とおもわれるように、果てしなく長く....... ご感想、ご要望等はこちらへ (新しいウィンドウで開きます) 参考文献 「八月の砲声」 バーバラ・W・タックマン著 筑摩書房 がほとんど。 参考サイト みんな外国のページなので、英語の苦手な私はしかたなく無断リンクしてます。 SORRY!! (T_T) なお、知っていると思いますが、海外のページは、ネットスケープなどのブラウザの文字コードセットを”欧米”などにしないと文字化けがおこる時があることを一応ご連絡しときます。 Belgian Fronts 当時のミューズ軍の部隊構成やベルギー軍の部隊構成などが詳しく載っている。ベルギーのサイトのようだが、英語。 Fort van Liezele ロンサン?要塞についてのページ。要塞のイメージがちょこっとわかる感じ。メインはオランダ語みたいだが、左上のlanguage swichという所をクリックすれば英語で表示されるみたい。 Fort de Loncin ラタン?要塞についてのページ フランス語で書かれていて全然わからないが、6ページ目あたりに要塞の縄張り図みたいな物がある。がんばって図書館でフランス語の辞書を調べればどうにか縄張りが理解できるようである。 (リエージュ環状要塞の地名についてはちょっと自信が無いなあ。)注3 BELGIAN RESISTANCE リエージュ要塞攻撃の解説している外国のサイト。要塞の断面図とオーストリアの305mm重砲などが載っている。ここのページはなんか子供たちが協力して作っているみたい。向こうの少年少女はすごいな。 なお、ここのページのメインはこちら。 |
作曲者=「加古 隆」さん データー作成者 参謀足軽 |