![]() ドイツ軍の作戦計画、シュリーフェンプランは、右翼(北海側)に強大な軍勢を配備して回り込んで敵軍を南側で包囲する作戦となっていた。そして、その最右翼進路は、図のようにドイツとベルギーの間にオランダが少しはみだしているため、リエージュ付近がまず最初の独軍最右翼の進路となる。リエージュはミューズ川とウールト川の合流点に位置し、アントワープから続くアルベール運河の起点としての内陸港の要所であり、ドイツのライン地方とベルギーのブリュッセル、アントワープ、モンスおよび北フランスとを結ぶ交通の要所でもあるため、大軍がスムーズに北フランスへ移動させるためには、どうしてもこのリエージュを確保しなければならなかった。 リエージュ要塞群の構造とベルギー軍の防御態勢 リエージュが交通の要所であったのと、ベルギーはその中立国の中立性を保つためにか、ベルギーはリエージュの周辺に12の要塞(注1)を構築した。リエージュの各要塞はミューズ川の両岸に、それぞれリエージュ市街から平均六・五キロか八キロの距離にあり、各要塞の間隔は、三キロから五キロで、うち六つの要塞はドイツに面した東の堤防の上にあり、西方の六つは、市の背後を囲んでいた。各要塞には鋼鉄製の回転砲塔が多数配備されてあり、回転砲塔は地下に引き入れることもできた。砲のもっとも大きいものは210mm曲射砲だった。多数配備されている小回転砲塔には、速射砲(たぶん57mm砲が主力)と機関銃が装備されていると思われる。砲の数ははリエージュ要塞群内の合計で400門だったらしい。砲の他に鋼鉄製の監視塔も配備され、回転砲塔と同様地下に引き入れることができて、サーチライトもついていた。 ベルギーのアルベール国王は、独軍がベルギーに進入しそうなので、ベルギー軍の6個師団全部をミューズ川沿岸の天然の防壁に配備しようとしたが、ベルギー軍の参謀たちは反対したため、中立を守るという建前から、ベルギー軍の各師団は地域的に偏らないように配備されてしまった。リエージュの防衛にあたっては、個々の要塞の性能を過信しすぎたためか、リエージュ要塞の警備隊の多くは老年兵だったらしい。また、「中立性に反している」とドイツにいわれる口実を、ほんの少しも与えまいとしたためなのか、八月二日まで各要塞間の地域を守るために有刺鉄線を張りめぐらすことなどということはしなかった。とにかくきわめて準備不足な防御態勢だった。 ミューズ軍
悪役「ドイツ軍」のはじまり? ドイツ軍のリエージュ攻略について、A.J.Pテイラー著 「第一次世界大戦」によれば、 「リエージュは何週間も持ちこたえるものと期待された。だが、まだ総司令官ではなかったルーデンドルフが自動車で正門を通り抜け、降伏を迫るという簡単なやり方でリエージュを占領した。それから要塞は、オーストリア軍の曲射重砲で破壊された。」 とあっさりと語られている。間違いではないようだが、あまりにもあっさりすぎて、これではベルギーから大した抵抗もなくドイツ軍が簡単にリエージュを陥落したと読みとられてしまう恐れがある。実際はベルギー軍は頑強に抵抗をしたようだ。 1914年8月3日にベルギーがドイツの最後通牒の拒否をされ、翌8月4日、ドイツ軍は特に宣戦布告などをせずにベルギーに進入した。始めにドイツ軍騎兵隊がベルギーの村々に次のような布告書を配布した。 「必要に迫られてベルギーに侵入しなければならないことをドイツ人として遺憾に思う。われわれは戦闘を避けたいと望んでいる。それには障害のない、自由に通れる道路を得る必要がある。ベルギー国民が橋梁やトンネルや鉄道を破壊するようなことをすれば、われわれはこれをドイツに対する敵対行為と見なすであろう」 その日のうちにドイツのミューズ軍はリエージュ近辺に到着したようだ。しかし、リエージュ市の上手と下手にかかっている橋梁はすでに破壊されてしまっていた。鉄舟で川を渡ろうとした独軍に、ベルギー歩兵部隊が砲火を集中した。意外にも交戦という事態に立ちいたつて独軍は驚いた。しかもそれは本物の砲火で、兵はぞくぞく傷を負って倒れ.、死んでいった。だが独軍の兵力は、ベルギーの二万五〇〇〇にたいし六万だった。宵闇せまるころ独軍はついにリエージュ市の北方のヴィゼでミューズ川渡河に成功した。南方から攻めた部隊は追い払われたが、川が内側に曲がっている市の中央部に攻撃をかけていた部隊は、川に到達する前に要塞の線まで進出した。 たいした抵抗もないとおもわれたベルギー軍に、頑強に抵抗されたことにより、その報復としてか、見せしめとしてか、ドイツ軍はベルギーの村々を虐殺し始めた。(詳細はこちら)戦争ではよくみられる行為である。(おそらく古代より)。このことは、協商国側にとって格好の宣伝材料となる。悪役ドイツ軍の始まりである。 初戦の苦戦と奇跡的なリエージュ市の占領 リエージュ攻撃にあたって、ドイツ軍はまず、リエージュをほかのベルギー軍から連絡を断つため、騎兵師団をリエージュ周辺に展開させたようだ。その後8月5日、エンミッヒ将軍麾下のミューズ軍は、リエージュの東の端にある四つの要塞に野砲で砲撃を開始し、それにつづいて歩兵が突撃をはじめた。しかし軽量の砲弾はなんの効果もなく、ベルギー軍が撃ち出す砲弾の雨は、独軍の前列に多大の損害を与えた。だがそれでも、未完成の塹壕のある要塞間の間隙目がけて、ドイツ歩兵中隊はとぎれることなく押し寄せた。突撃に成功した地点で、また砲弾に俯角を与えることのできない斜面を、ドイツ兵は疾風のように襲撃したが、要塞から火をはく機関銃につぎつぎなぎ倒された。死人の垣は一メートル近い高さにもなった。バルション要塞で、ベルギー軍は独軍の戦列が乱れてきたと見るや、銃剣で襲いかかり、敵を追い払ってしまった。それでもなおドイツ兵は再三再四攻撃をくり返し、損害の補充は心配なしとばかり、まるで弾丸のように生命を消費した。「敵はぜんぜん展開しようとはしなかった」。あるベルギーの将校はその攻防戦の光景を回顧して書いている。 「それどころか肩が触れあうような密度で、横隊はぞくぞく突進して来た。わが軍の猛射にあって、敵兵は折り重なって倒れ、ついに戦死者と負傷者で凄惨なバリケードができた。機関銃の前面が塞がれるおそれが出てきて、やっかいな状況になった。人垣があまり高くなったので.われわれは垣の間から射撃をつづけたものか、出て行って死体を片づけて隙をあげたらいいものか迷った。ところが驚くなかれ、その死人と死にかけている兵士の人垣を利用して、独軍は地を這って近づいてきた。そして斜堤を登って突撃してきた。だがこちらの小銃の猛射を浴びて進めなくなり、中途から追い返されてしまった。もちろんわが方にも損害は出たが、こちらがやってのけた大虐殺に比べればものの数ではなかった」 かつて、日露戦争時の203高地の攻略でロシアの機関銃にむかって歩兵を突撃させた乃木将軍は愚将と我が国でののしられているようだが、それは、おそらく第1次世界大戦を理解していない多くの日本人たちが抱く評価であろうと私は思う。このリエージュ攻略のように、第1次世界大戦初期においては、たいした事前砲撃もなく多くの兵士達が機関銃の前に突撃させられたのだ。このような時代背景を考慮すれば、ただ機関銃の前に兵士達を突撃させたということだけをもって乃木将軍を愚将とののしるのはいささか短絡的発想だと思う。 ![]() ここで、またルーデンドルフが冒険にでて、リエージュ内の古い砦に向けて自動車で副官をむかい扉をノックする。砦の守備隊は抵抗をあきらめ砦をドイツ軍に明け渡す。そして、リエージュ市長を逮捕し、リエージュはこのように奇跡的に占領された。 しかし、このとき要塞環状群はほとんど陥落していなかった。 |
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BGM ファイナルファンタジーIIIのとの小ボスとの戦闘の時に流れた音楽 作曲者 「植松 伸夫」さん データー作成者 SAKUYA NAGAOさん データー転載はDOCも含め全曲まとめたアーカイブでという作成者のご要望なので、ここに載せときます。 ffssap22.zip(38KB) |