インターネットエクスプローラー3.0だと、表が一部乱れてしまうようです。原因は不明です。どうしても、気になる人はネットスケープ3.01以上でご覧下さい。 §3 東方問題の展開 ロシアの南進策 自由主義・国民主義の運動がさかんになると,その影響を受けて,トルコ(オスマン帝国)の支配下におかれていたギリシア・エジプト・ルーマニア・セルビア・ブルガリアなどの諸民族が,独立運動をおこすようになった。 |
しかし,これらの諸民族はまだ自力で目的を達することができなかったので,かれらの運動はしばしば列強に利用された。そのころ列強は,トルコの衰退に乗じてトルコ領への進出をねらっていたが,とくにロシアは,穀物輸出の通路として,黒海からボスポラス・ダーダネルス両海峡の確保をはかって,しきりに南進策をとった。(バルカン半島の地名等はベルリン条約後のバルカン半島の図、参考 (新しいウィンドウを開きますので、適当に利用しやすい大きさと位置にしてご利用下さい。))イギリスはこれに対抗して,インドとの交通路の安全をはかろうとし,フランスはエジプトに勢力を扶植しようとしていた。ここに諸民族の運動と列強の利害関係が結びついて,国際間の鋭い対立がおこるようになった。これがいわゆる東方問題で,先のギリシアの独立も,そのあらわれであったが,その後エジプトとトルコが開戦すると,問題はさらに複雑になった。 |
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その際ロシアは、ただちにトルコと同盟し、ボスポラス・ダーダネルス両海峡に関する特権を獲得した(1833年)。一方、イギリスは、エジプトに対するフランスの影響をおそれ、ロシア・オーストリア・プロイセンとともにエジプトに干渉し(1840年)、また両海峡を中立化した。このためロシアの南進策は阻止された(1841年)。 クリミア戦争 その後ロシアは、なお南進の機会をうかがっていたが、聖地管理権問題1)がおこると、1853年、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を口実として、モルダビア・ワラキア地方(のちのルーマニア)を占領し、トルコと開戦した。ロシアの南進を警戒したイギリスとフランスは、ただちにトルコと同盟し、まもなくロシアに宣戦した。これがクリミア戦争(1853〜1856年)である。戦争はクリミア半島のセバストポリ要塞の攻防をめぐって激しく行われたが、結局ロシアの敗北に終わり、1856 年のパリ条約でロシアは黒海に艦隊をおく権利を失い、南進策はまたも失敗した。 その後モルダビア・ワラキアは、フランスの支持を受けて独立してルーマニアとなり(1861年)、またモンテネグロとセルビアがロシアの後援によって独立した(正式には1878年のベルリン会議で認められた)。 (この戦争であの有名なイギリスの女性、ナイティンゲールが献身的な看護活動をしました。そのため彼女は「クリミアの天使」とよばれたようです。このナイティンゲールの看護活動がきっかけとなり、赤十字運動がおこされたようです。どうして教科書はこういう重要なことを記載しないのでしょうか?また、ちなみにあのロシアのトルストイも将校としてこの戦争に参加したそうです。) ロシア‐トルコ戦争(露土戦争) |
ロシアはクリミア戦争後、汎スラブ主義運動2)を利用してバルカン諸民族への影響を強めていたが、ナポレオン3世が没落すると、先のパリ条約の中で定められていた黒海に関する条項を破棄し、再び南進策をとるようになった。 (?(゚_。)?(。_゚)なんかこの部分おかしいなあ〜) まもなくボスニア‐ヘルツェゴビナで、キリスト教徒がトルコに対し反乱をおこし(1875年),それがブルガリアにも波及すると,ロシアは種々の口実を設けて,1877 年,トルコに宣戦した。 |
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このロシア‐トルコ戦争(露土戦争,1877〜1878年)でトルコは敗れ,サンステファノ条約が成立し(1878年),トルコはルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立を承認し,またドナウ川以南に建てられたブルガリアをロシアの影響下におくことなどを認めたので,ロシアの南進策は有利になった。 (”ナポレオン3世が没落したからロシアがふたたび南進策をとった”という見方はちょっと短絡的な解釈のような感じがするのだが。そもそも”ある個人が没落した結果、ある世界史的事項が起こる”というような解釈は歴史的な視野が狭い解釈のように思えるのですが。”ナポレオン3世の没落”という表現よりも、”普仏戦争での敗北によるフランスの弱体”という表現の方がなんとなくすっきり受け入れやすい表現のように思えますが。ただ、南進の理由はフランスの弱体化のためということが正しいかどうかはわかりませんが、ロシアの農奴解放により南ロシアの経済が発展し、黒海貿易の重要が増したため南進策をふたたびとったという見解もあるようです。) (ロシアとトルコの戦争は、上記の戦争以前にも何回か行われていて、それら一連の戦いを露土戦争と称する場合もあるようです。(詳細は後日解説)) |
ベルリン会議 一方,スエズ運河株の買収に成功したイギリスや,汎スラブ主義運動の発展をおそれるオーストリアは,ロシアの南進策を警戒してきわめて強い態度をとった。そこでビスマルクは,1878 年,ベルリン会議を開いて調停にのりだし,3)サンステファノ条約にかわって新たにベルリン条約を成立させ,ブルガリアをトルコ治下の自治国にとどめて,その領域を縮小させ,またオーストリアは,ボスニア‐ヘルツェゴビナを管理下においた。 |
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そこでロシアは,やむなくバルカンへの南進策を一時あきらめ、その目標を中央アジアや東アジアにむけるようになった。 (しかし、東アジアには新興国の日本がいたんだよね〜。んで、ご存知のとおりロシアは日露戦争で負けちゃって結局この地方での進出も挫折してしまうんだよね。(^_^;)) |
注釈 1) 聖地エルサレムの管理権は、古くからローマ−カトリック教会とギリシア正教会の間で争われていたが、フランス革命の時、ギリシア正教徒がフランスからその権利を獲得した。やがてルイ=ナポレオンがトルコに管理権を要求し、これを手にいれたため、ロシアはギリシア正教徒の保護権をトルコ全土にひろげるようトルコに要求した。 2) スラブ民族の統一と団結をはかろうとするもので、本来は国民主義的な要求から生まれたものであった。 (詳細(新しいウインドウを開きます。)) 3) ビスマルクは「忠実な仲買人」と称したが,ひそかにイギリスのディズレーリと結び,イギリスにキプロス島の領有を認め,ロシナの南進策を阻止した。 |