( このセクションはちょっと私のチャチが多いです。(解説コメントも多いけど)とくにこのセクションの終わりのほうは、いかに教科書があてにならないかわかるような見本みたいにひどいので大批判チャチいれてます。っていうか資料として使う私も私だが。受験生は私のチャチを読まないで。混乱するから。受験生は入試の模範回答が絶対に正しいと、とりあえず思って下さい。 自由な発想は受験を終えてから行ってください。っていうかインターネットなんかしないで勉強しなさい。(^_^;)) §2 後進諸国の変化 イタリアの統一 |
イタリアでは1830年代に一部で産業革命の影響があらわれていたが、二月革命後、サルジニア国王ビクトル=エマヌエル2世(在位 1849〜1878)のもとで首相カブール(1810〜1861)を中心に、統一運動が再びさかんになった。カブールは資本主義の発達に力をつくし、軍隊の改革や教会勢力の排除など多くの改革を進めたが、イタリア統一にはフランスの援助が必要であると考え、イギリス・フランスの歓心をかうため、クリミア戦争に参加した。こうして、カブールはナポレオン3世と密約を結び、1859年、オーストリアに宣戦し、フランスの援助を受けてオーストリア軍を破った(イタリア統一戦争)オーストリア−イタリア戦争ともいう。しかし、ナポレオン3世はイタリアが強大になるのをおそれてまもなく戦争から手を引いたので、サルジニアはわずかにロンバルジア(図参照) |
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をえたにとどまり、そのうえナポレオン3世に、代償としてサポイとニース(図参照)を奪われたので、統一は一時挫折した。 その後、青年イタリア党のガリバルジ(1807〜1882)は、シチリア島におこった反乱に乗じてナポリ王国を占領し、これをサルジニア国王に献じた。 |
| これをみたカブールもローマ周辺を除く教皇領を占領したので、イタリアの大部分はサルジニアの支配下に入った。そこで、1861年、エマヌエル2世はイタリア王国の成立を宣言した。その後イタリアは、1866年にプロイセン−オーストリア戦争(普墺戦争ともいう)(次の「ドイツの統一」参考)の際、プロイセンと同盟してベネチアを獲得し、また1870年にはフランスがプロイセンに |
敗れたのに乗じて教皇領も占領し、翌年ローマを首都とした。こうして伝統をもつ教皇領は姿を消し、イタリアの統一はようやく達成されたが、イタリアはなおトリエステ地方(図参照)など「回復されないイタリア」と称して、その獲得を要求し続けた。(この問題の発生はウィーン体制(windows95体制じゃないよ(^_^;))のころに発生したみたいだよね。で、この問題、結局、第1次世界大戦の時まで尾を引くんだよね。(^_^;)) ドイツの統一 ドイツでは三月革命後、産業革命が進み、プロイセンを中心に資本主義が発達すると、資本家は先進国に対抗するためにも統一を強く要望するようになった。しかし、かれらの間には労働者の進出をおそれ、自由主義的な統一をさけてプロイセンの武力にたよろうとする傾向があらわれた。 |
| 1862年、プロイセン国王ウィルヘルム一世(在位1861〜1888)が、ユンカー出身のビスマルク(1815〜1898)を首相に任命すると、ビスマルクは議会の反対をおさえて軍備を拡張し、まもなくおこったシュレスウィヒ−ホルスタイン問題1)を原因として、1866年、プロイセン−オストリア戦争(普墺戦争)をおこした。プロイセンはたちまちオーストリアを破り、翌年、オーストリアと南ドイツ諸邦を除いて北ドイツ連邦を組織し、プロイセン国王が連邦の政治権を握ったので、統一はほぼ達成され、南ドイツ諸邦の併合を |
残すだけとなった。2)そのころ、フランスのナポレオン3世は、国内の危機を打開し、かつドイツの統一を妨げようとしてプロイセンに干渉し、スペイン王位継承問題を機会に1870年、プロイセンに宣戦した。このプロイセン−フランス戦争(普仏戦争1870〜1871年)でプロイセンはナポレオン3世をやぶったが、さらに鉄・石炭の豊富なアルザス・ロレーヌの併合をねらって戦争を続け、1871年1月末、パリを占領した。 (これら普墺・普仏戦争であの大モルトケ閣下が大活躍したんですよ(^_^;)(参謀本部メインページ(MIDI付き)の画像の人物のことです。(指先おじいさんのほうじゃなくて。(彼はヒンデンブルク閣下。)))) |
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左=ナポレオン三世 右=ビスマルク |
これに先だち、同年1月、プロイセン国王ウィルヘルム一世はベルサイユ宮殿で戴冠式を行い、ドイツ帝国の成立を宣言し、初代皇帝の位についた。(ばんざい!ばんざい! ドイツ帝国ばんさい!!\(^o^)/)すでに南ドイツ諸国も新帝国に加入しており、ここにドイツの統一は完成した。まもなくドイツは、50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌの併合を条件に(ビスマルクはこんなにきつい条件を望んでいなかったようです。軍部の意見に負けてしまったようです。)フランスと講和し、戦争を終わらせたが、 |
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これはフランス人の反感をかい、両国の関係を冷たくする一因となった。(う〜ん。たしかにベルサイユ宮殿で戴冠式あげたり、パリに入城したりして、プロイセン軍はちょとやりすぎでフランス人が恨むのもむりないよな〜。この遺恨も第1次世界大戦勃発の要因の一つに数えられると私は思うし。でも、最初にちょっかいだしたのはフランスの方だよ。1806年、ナポレオン一世がプロイセンの国土を踏みにじってきたのだから。 |
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それ以来いつもプロイセン軍部はフランスを叩きのめすことばかり考えていたみたいだし。ようするに、ナポレオン一世がプロイセンの国土を踏みにじったのだって、両国の関係を冷たくする一因と私は思う。(だけど、彼のおかげで封建的束縛をうけたヨーロッパ諸国民に民主主義的精神が目覚めはじめたようですが、)結局この復讐の繰り返しは第2次世界大戦が終わるまで続いたんだよね〜) |
ドイツ帝国は連邦制国家で、連邦を構成する各邦がそれぞれ政府と議会をもつきわめて複雑な制度をとっていた。(でも後に述べるように実体はほとんどプロイセンが牛耳っていたんだよね。) 軍事・外交権を握る皇帝はプロイセン国王の世襲制で、帝国宰相もまたプロイセン首相が兼ねたので、プロイセンの地位はきわめて高かった。立法機関としては、各邦の代表からなる連邦参議院と、男子普通選挙によって議員を選出する帝国議会とがあったが、連邦参議院では、もっとも多くの票数を握るプロイセンの支配権が強かった。そのうえ帝国議会は、重要問題に対する決定権がなく、政府を拘束することができなかった。帝国が外見的立憲主義の国家といわれるのは、このためである。(ちなみに知っているとは思いますが大日本帝国憲法はプロイセンの憲法を参考にしたようです。)しかし統一によって金融制度や鉄道の整備が進み、とくにアルザス・ロレーヌの獲得は、大工業の発達にいちじるしく役だった。こうしてドイツはまもなくヨーロッパの強国として登場することになった。 オーストリア―ハンガリー帝国 一方,(オーストリアもドイツ人国家ではあるが)統一から除外されたオーストリアは,プロシアに敗れたのち,支配下にあった諸民族の抵抗に苦しみ,その対策として,1867 年,ハンガリーに自治を与えて事実上の独立を許した。以後オーストリアはオーストリア―ハンガリー帝国と称したが,領内ではなお汎スラブ主義の影響を受けた諸民族の運動が続き,政情は必ずしも安定してはいなかった。 (なんか、ずいぶんあっさりした説明だな。マジャール人貴族との妥協のことも触れていないし・・・・・・後日用語集にて解説。) 口シアの農奴解放 ロシアはニコライ1世(在位 1825〜1855)のもとに,きびしい専制政治が行われ,国際的にもメッテルニヒ(ウィーン体制(参考)(参考)のボス?? ビル・ゲイツじゃなくて。うわっつまんね〜)の失脚後,反動勢力の支柱となっていた。しかし,クリミア戦争の敗北によってロシアの近代工業の立ち遅れがはっきりと示されると,さすがに支配階級も改革の必要を痛感するようになった。 |
| そこでアレクサンドル2世(在位1855〜1881)は,1861年に農奴解放令を発して改革に着手した。この改革は地主の利害関係にもとづいて行われたため,きわめて不徹底3)であったが,農奴制は大きな影響を受け,資本主義の発達に道を開くことになった。(いままで農地などに縛りつかされていた農奴が解放されて工業などの産業に従事する可能性ができたので、それが資本主義の発達に結びつくというようなことでしょうか(^_^;))アレクサンドル2世は,このほかいくつかの改革を行ったが,ポーランドの反乱(1863〜64年)や国内の農民一揆に |
直面すると,かえって専制政治を強めるようになった。これに対して1870 年代以後,知識人や学生などを中心とするナロードニキ4)(人民主義者)の活動がめだつようになった。かれらは農村にはいって,農民の説得に情熱を傾けたが,その理論と行動が農民の支持をえられなかったので,かれらの中には,ニヒリズム5)(虚無主義)の影響を受けて,皇帝や高官を暗殺しようとする一派があらわれた。アレクサンドル2世もその手にかかって殺されたが,このような社会不安をおさえるためにも,ロシアは南進策を強化しなければならなかった。(←これってなんかちょっとわかりづらいし、わかったとしても言っていることめちゃくちゃ間違ってると思うよ!なんで社会不安をおさえるために南進策を強化しなければならないの?国民世論を外に向けるため?そりゃおかしいぜ、だってアレクサンドル2世を暗殺したやつらってほとんど国民たちに支持されていなかったんだから国民世論を外交政策に向ける必要なんてぜんぜんないよ?それにアレクサンドル2世の後の皇帝は大した南進なんてたしかやっていなかったと思ったんだが。さらに皇帝を殺したテロリストたちはその後徹底的に弾圧されて滅亡の一途をたどったんだから南進策なんて強める必要全くないんじゃないの?そのことは別の文献で、つぎのようなことをかかれているよ。1881年3月1日、「人民の意志」派はペロフスカヤ指揮のもとでアレクサンドル二世暗殺に成功した。廷臣たちは暗殺を蜂起の合図と考え、冬宮は近衛兵で守られ、首都警備隊も戦闘配置についた。だが、労働者も農民もだれも動かなかった。農民のなかでは、土地を農民にあたえようとしたので皇帝は地主によって殺されたとのうわさがひろまっていた。さて、話を教科書に戻すと、ようするになんとか南進策が重要だということを無理矢理いうことで、後に第1次世界大戦の要因をバルカン半島の問題だけに絞りたいためにこんなこといっているのかもねえ。まあそのように単純にしたほうが高校生にはわかりやすいんでしょうかねえ。でも現実はそんなに単純ではないよ。っていうかうそ書いちゃいかんと思うんだがね。まあ、どうせここまで授業は教わらないで卒業してしまう人がいっぱいいるから教科書でどう書かれようと関係ないけど(^_^;)) |
注釈 1) シュレスウィヒ・ホルスタインはデンマーク王のもとに自治権を与えられていた公国であったが、1863年、デンマークが自治を奪おうとしたため、ドイツ連邦に援助を求めた。プロイセンはオーストリアをさそってデンマークを破ったが、両公国の処理をめぐってプロイセン・オーストリアの対立が激しくなった。 2) この問題をめぐってビスマルクとナポレオン3世の意見が対立すると、ビスマルクは故意にナポレオン3世がプロイセン王へ当てた要求を書きかえ、国民の戦意をあおって、ナポレオン3世を挑発した。(エムス電報事件)。 (↑これ、なんかちょっとおかしいなあ。ナポレオン3世がプロイセン王へ当てた要求をビスマルクが書き換えたのでなく、フランス大使とプロイセン王との会合の結果について、王がビスマルクへ電報を送って連絡したが、ビスマルクがその電報を大幅に削除などをして公表したのが本当のようで、ぜんぜん教科書はとりちがえているもよう。詳細はつぎのとおり。 プロイセン王の遠い親戚のレオポルトがスペイン王の候補にあがったが、フランスの圧力により彼は、身を引いた(プロイセン王があきらめさせたようです。)。しかし、さらにフランスは今後二度とプロイセン王の一族(ホーエンツォレルン家)からスペイン王候補にしないと約束をせまりにフランス大使が、エムスに休養中のプロイセン王のもとに訪れたのである。 そのときの会合の結果についてのプロイセン王の電報は 「余はフランス大使にたいし、さらに言うことはなしと、通告した。レオポルトはすでにひいており、さらに言うことなし」というようなものらしい。 それをビスマルクが 「汝らに言うべきことなし」と意図的に縮めて公表した。 そのため、フランス国民はそれを「フランス大使がプロイセン王に足蹴にされた。フランスを侮辱した」と感じたようで、 フランス国民は興奮して「いざベルリンへ!」と血気にはやり、戦争をしかけてきたが、返り討ちにあった。 しかし、昔はこんなささいなことで戦争が起きたとは.... 参考文献 A.J,P テイラー 著 「戦争はなぜ起こるか」 叶V評論 発行 日本と世界の歴史 18 学研 より) 3) 農民は人格的自由と土地所有を認められたが,土地を獲得するにはきわめて多額の金額を必要としたうえ,種々の束縛を受け,かえって没落する農民が多かった。 4) 「人民の中へ」をスローガンとして活動し,ロシアの農村に残存する共同体を基礎として社会主義を建設しうると確信していた。 5) 当時一般に認められていた社会秩序や価値を否定する考え方をさし,当時の革命家の思想に大きな影響を与えた。 |
用語解説 ユンカー ドイツ東エルベ地方の大農場を経営する地主貴族のことで、プロイセンの軍人や官僚が多くこの階層から出た。きわめて保守的で反動的でむかしのドイツ的というのでしょうか。ドイツ軍国主義の温床となったようです。 ユンカーとは”若い貴族”の意だったようで、また”いなか貴族”の蔑称として用いられたようです。ユンカーは古いドイツ語の発音ではユンケルと発音します。あのユンケル皇帝液はじつはユンカーだったのか(^_^;)。 わたしは、直感的にドイツ特有の軍人貴族というイメージで理解してます。 三月革命 フランスの二月革命後の影響を受けてドイツやオーストリアなどでおきた革命。この革命によりメッテルニヒは失脚し、ウィーン体制は崩壊。ドイツ統一運動やオーストリア支配下のマジャール人(ハンガリー人のこと)などが民族運動をおこす。どちらの国でも民主主義的要求がおきる。この革命は一時は成功したかにみられたが、結局失敗。 |