ギリシアは15世紀頃に大部分がトルコの支配下に入ったが、農民などは、特にイスラム教に改宗を迫られたわけではなく、ギリシア正教を信仰する自由などの融和策がとられていた。しかし、ギリシア人の一部は、商人として活躍するなかでヨーロッパの啓蒙思想などに刺激されることなどにより民族意識が覚醒したものがいた。それらがギリシア文学復興などの運動を起こし、その運動は他のヨーロッパにも支持されていた。やがて民族意識が農民にも広まるなか、ついにギリシアは、1821年に反乱を起こし、1822年、トルコからの独立宣言を起こす。(なお、18世紀頃の露土戦争時にギリシアは反乱を起こしたが失敗したことがある。)しかし、トルコの軍事的弾圧により独立は挫折しそうになった。そのころ、ヨーロッパ諸国で、ギリシア人への同情や支援をおくるギリシア愛護運動が高まった。また、ロシアはギリシアの反乱の始まったころから、この機にバルカン進出のためにギリシア独立を支持して介入しようとしたが、メッテルニヒからウイーン体制維持のために、反対され介入を見合わせていた。しかし、ウィーン会議に出席したこともあるロシア皇帝アレクサンドル1世が死去したことを契機に、ロシアは、東方問題についてはウィーン体制を黙殺する方針に転換し、ギリシア独立問題に干渉する。そうなるとこの地域へのロシアの進出に懸念するイギリスは、フランスを巻き込んで、ロシア単独のギリシア独立干渉しないように訴え、イギリス、フランス、ロシア3国共同でトルコにギリシアの自治を認めるよう働きかけた。トルコはそれについて拒否し、その結果、イギリス、フランス、ロシアの軍事介入がおこし、トルコを破って1930年、ロンドン会議によりギリシアの独立を承認させた。ウィーン体制で決めた領土境界は早くも崩れ始めた。 |