1860〜70年代のヨーロッパ

ドイツ帝国の成立(ベルナー筆) 
ドイツ皇帝の即位式。中央の白衣がビスマルク。
§1.自由主義・民主主義の発展

イギリスの議会制民主主義
 イギリスではビクトリア女王(在位1837〜1901)のもとで、保守党と自由党が交互に政権を担当し、議会制民主主義が順調に発展した。1867年には第2回選挙法改正が行われて、都市の労働者に選挙権が与えられ、さらにのち、1884年には第3回選挙法改正が行われて農業労働者にも選挙権が広げられた。この間、グラッドストン(1809〜1898)の自由党内閣は、公立学校の設立(1870年の「教育法」)、労働組合の承認(1871年の「労働組合法」)、秘密投票制の実施などもっぱら内閣重点をおく政治を行い、またアイルランド問題の解決につとめた。
アイルランド問題
 アイルランド人はイギリスの征服を受けて、みじめな生活をしいられていたが、1829年のカトリック教徒解放法によって、一応宗教的差別だけは解放された。しかしこのころからイギリス人地主の「囲い込み」が行われ、さらに1840年代の凶作でアイルランド人の生活が極端に悪化したのでアイルランド人は政治的・社会的改革を求めて運動を起こすようになった。この時多数の餓死者を出したことは問題をいっそう深刻なものにしたので、1870年、グラッドストン内閣は、アイルランド土地法を制定して小作権の安定をはかった。しかしアイルランド人の不満は解消せず、1880年には「土地戦争」とよばれる大規模な農民の反抗さえもおこった。こうしてアイルランド問題はその後も重要な問題として残されることとなった。
イギリスとアイルランド
1649 クロムウェルの侵略
1652 アイルランド植民法
1798 ユナイテッド―アイリッシュメン(1791設立)の蜂起、鎮圧される
1801 イギリス、アイルランドを併合
1829 カトリック教徒解放法
1845
〜47
 アイルランドの大飢饉
1870 アイルランド土地法制定
1880 土地を要求する「土地戦争」おこる。ボイコット事件
1907 シン―フェイン党成立
1916 イースター蜂起
1922 アイルランド自由国成立
1949 アイルランド共和国成立
ナポレオン3世時代のフランス
 フランスではルイ=ナポレオンが1851年、大統領の任期が切れる直前にクーデターをおこして共和派を議会から追放し、さらに翌年、国民投票によって皇帝となり、ナポレオン3世と称した(第2帝政)。第2帝政は、男子普通選挙を実施したとはいえ、議会の権限はほとんどなく、事実上ナポレオン3世の独裁が行われた。ナポレオン3世は、産業を保護して資本主義の発展に力をつくすとともに積極的に対外進出を試み、クリミア戦争(1853〜1856)でロシアをおさえ、イタリア統一戦争(1859年)(§2参照)に干渉し、アジアではアロー号事件(1856年)に乗じて中国に進出し、ベトナムにも領土を獲得した(1862)。しかし、メキシコ遠征(1861〜1867)の失敗によって、かれの政策はゆきづまり、共和派や社会主義派の勢力が強まるようになった。そこでかれは情勢の打開をはかってプロイセンに干渉し、1870年、プロイセン―フランス戦争(普仏戦争)(§2参照)をおこしたが敗れ、かれ自身捕虜となった。

第3共和制
 この報道がパリに伝わると、無気力な敗戦に憤ったパリ民衆は、議会に帝政の廃止を宣言させ(9月)、共和制の樹立を要求した。その結果、共和制を中心に国防仮政府が成立し、民衆も武器をとってパリを囲んだドイツママ軍と戦った。(ママというのはそのまま書いたという意味です。)(オイオイ!このときはまだ、ドイツ軍と表現するよりもプロイセン軍といったほうがいいのでは (^_^;))
しかし、1871年1月、仮政府がドイツと休戦し、その後チェール(1797〜1877)の組織した新政府がドイツと不利な講和を結ぶと、これを不満としたパリ民衆は同年3月、政府に反抗してパリ-コンミューン(自治政府)を成立させた。(パリ−コミューンともいう。っていうかこっちの方が一般的だよね。教科書がコミューンって書いてあったんでそのまま書いたわけで、いつもの間違いじゃないですよ。(^_^;))しかしコンミューンは、まもなくドイツの援助によって強化された政府軍の攻撃を受け、激しい抵抗を最後に崩壊した(5月)。パリ−コンミューンは、社会主義の政権ではなかったが、急進的な市民や労働者が組織したものであったから、その後の社会主義の運動に大きな影響を与えた。
パリ−コンミューンの結成
その後、フランスでは王党派と共和派の対立が続いたが、1875年、憲法が制定され、第3共和制の基礎が確立した。しかし、議会は当時の国情を反映して小党分立の傾向が強く、政局は安定を欠くことが多かった。

諸国の改革
 その他の諸国でも19世紀以後、しだいに自由主義的な改革が実施された。オランダでは、二月革命の影響を受けて責任内閣制が確立した。ベルギーは独立後、責任内閣制を定めていたが、19世紀末には普通選挙制を実施した。スイスは、1848年、アメリカ合衆国の憲法を模倣した民主的な連邦憲法を制定し、さらに19世紀後半には、男子普通選挙制を実施した。フィンランドは、ウィーン会議後、ロシア領となったが、その後も自治権をもち続け、20世紀初めには男女平等の普通選挙制を実施した(ロシア革命を機に独立)。スウェーデンは19世紀校の後半、責任内閣制を確立し、選挙権をひろげ、また、早くから婦人解放運動もさかんであった。ノルウェーは、ウィーン会議後、スウェーデン領となったが、19世紀後半に、スウェーデンと争って主権を事実上議会の手にとりもどし(1905年、独立)、20世紀初めには男女平等の普通選挙制を確立した。デンマーク二月革命に影響を受けて翌年憲法を制定し、立憲君主国となり、20世紀はじめには責任内閣制を確立し、やがて男女平等の普通選挙制を実施した。これらの諸国は国際紛争に加わることをさけ、経済を発展させながら社会政策の推進に力をそそいだ。(ふ〜ん。そういうわけで、今日北欧では福祉先進国が多いのか(@。@))(ただ、第二次世界大戦中はノルウェー、デンマークはドイツ軍にアッという間に占領され、フィンランドはロシアと仲が悪かったためドイツ側に立って参戦したようですが。・・・・・・)

用語解説
囲い込み
 たぶん囲い込み政策のことを言っているのでしょう。
広辞苑CD−ROM版によるとエンクロージュアとも言うらしく、
エンクロージュア【enclosure】
 中世末以降のヨーロッパ、特にイギリスで、領主・地主などが牧羊業や集約農業を営むため、共同放牧場などを囲い込み、土地に対する共同権を排除し、私有地であることを明示したこと。囲い込み。
だそうです。

責任内閣
私も含めて政治に疎い日本人は、責任内閣といわれても何の事やらわからないので、ちょっと調べてみた。またまた広辞苑CD−ROM版によると
 議会の信任の如何によって進退を決する内閣で、議院内閣制における内閣の条件のひとつ。
だそうです。

ウィーン会議
 ナポレオン戦争後、ナポレオンが没落した後、ロシア・プロイセン・オーストリア・イギリス・フランスなどがフランス革命戦争およびナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序の再建を図るために一八一四年九月から翌年六月までウィーンで開かれた国際会議。会議は旧王朝の復帰を目ざす正統主義と勢力均衡の原則とに支配されたが、領土配分問題でしばしば難航したようです。そのウィーン会議後の国際秩序をウィーン体制といいます。(広辞苑CD−ROM版を参照しました。便利便利!広辞苑。(^_^;))

二月革命
 一八四八年二月二二〜二四日、パリに起った革命。七月革命(ウィーン体制下のフランスで生じた王政に不満をいだくパリ民衆が蜂起した革命)以来王位についていたルイ=フィリップを追放し、第二共和制を成立させた。これを契機としてヨーロッパ諸国に自由主義革命運動が勃発、ウィーンやベルリンで三月革命が起り、ウィーン体制は崩壊。(注釈以外 広辞苑CD−ROM版ほとんど丸写し。)

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