255.中島ダグラスDC-2型旅客機

Nakajima Douglas DC-2 Passenger-plane

全幅:25.78m 、全長:18.88m、 総重量:8,160kg、 最大速度:320km/h
発動機:ライト サイクロン SGR-1820-F52 750馬力×2、乗員/乗客:4/14名
初飛行: 国産KD機 1936年2月
 
Illustrated by Shigeo KOIKE

 1930年代の輸送機近代化の波は、1933年にボーイング247Dがトップを切り、これにダグラスDC-1が追い、結果的にはDC-1の発展型のDC-2が1936年TWAに引き渡され、同社は最終的に32機のDC-2を運行した。他の航空会社もこれに続き、アメリカにおける旅客機の王座についた。 さらに世界中の航空会社でも使用されたが、そのなかでもいち早くKLM(オランダ)が採用し、1934年の英国マックロバートソンからオーストラリアまでの航空機レースに普通仕様のDC-2で参加した。旅客に加え3万通の郵便を搭載していたが、このレースのために設計された高速レーサーのD.H.88コメット機に破れただけで2位に入賞している。

 この低翼単葉、引込脚、可変ピッチプロペラの全金属製双発輸送機、さらに1935年以降の半世紀後までも世界で使われ続けたDC-3という傑作機を生み出した基盤となった機体である。

 昭和9年(1934年)日本航空は次期主力機をDC-2とすることとし、中島飛行機に生産依頼を決定した。中島では早速ライセンスを買い受け、明川清、西村節郎、中村勝治技師らの手で国産化を進め、エンジン、プロペラ、、機体の主要材料等を輸入し、昭和11年2月試作1号機を完成し、それを陸軍に納入、続く1〜6号機を日本航空に納入し、富士、新高、霧島、榛名などの山の名前をつけ親しまれ、福岡-台北間の定期航路で活躍した。

 しかし昭和13年ころから軍に徴用され迷彩色を施して中国大陸との連絡用に使われた。このDC-2は日本の航空関係の近代化におおいに貢献したが、すぐにDC-3が登場したため国内での生産は6機にとどまった。 しかし中島ではこのDC-2に刺激され、独自の設計による一回り小型の双発旅客機AT-2を明川清技師を中心に開発することとなった。

 イラストは雪の中での離陸という小池氏の作品では珍しいシチュエーションとなっているが、信頼感が滲みでた力強ささえ感じる。

 

 ここでダグラス社の創始者について説明したい。創始者の名はドナルド・ダグラス(1892〜1981)。1892年ニューヨーク州ブルックリンで生まれ、高等学校を卒業後2年間海軍兵学校で過ごし、その後MIT(マサチューセッツ工科大学)で航空工学を学び、4年間の研究コースを2年で終了した。1915年、23歳のときにマーチン社に技師長として雇われ、米国で最初の双発爆撃機MB-1の設計を補佐した。1920年にダグラスは自分の航空機製造会社を設立するためにカリフォルニヤに移った。 そしてアメリカ大陸をノンストップで横断できる飛行機の製造を目指していたが、裕福なスポーツマンで知られたD.デイビスが4万ドルを出資してくれるまでは、床屋の中にあった事務所で細々と仕事をしていた。

 最初にダグラスが作った飛行機クラウドスターは大陸横断にはほど遠く、デイビスは手を引いてしまった。しかし、ダグラス社はしっかりとその技術の根をおろしており、海軍のための雷撃用の飛行機の製造をはじめ、このうち4機が1924年に初めて世界一周の飛行のためのダグラス・ワールド・クルーザーとして採用されて、ダグラス社の名声が高まった。1928年までにダグラス社の資産は2,800万ドルとなり、ダグラスは自分で見出した一流の技術者を雇っていた。彼らによって、先行したボーイング247(本格双発旅客機)を、DC-1や続くDC-2によって完全に打ち負かし、そして続いて不朽の傑作機DC-3を生み出したのである。

 戦後も4発機のDC-4からDC-6そしてDC-7とレシプロエンジンの名作を開発してきたが、ジェット時代になってボーイング707の出現により遅れをとることになった。 その後1967年ダグラス社はマクダネル社に身売りされるまで、ドナルドは超長年にわたって会社を支配し続けていた。その後マクダネル・ダグラス社は、さらにはボーイング社と合併して、ダグラスの名声は徐々に忘れられつつある。

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