403. 川西ニ式飛行艇(哨戒・攻撃)11型 H8K1 [日本-海軍]
 
KAWANISHl Type2 Flyingboat (H8K1)"EMlLY" [JAPAN-NAVY]
 

全幅: 37.98m、全長: 28.13m、翼面積: 160u、
発動機: 三菱「火星」 1,530馬力 (離昇) 1,380馬力/4,000m、
総重量: 24.5〜31.0t、最大速度: 433km/h/5,000m、 航続距離: 7,200km(偵察)、
武装: 20mm機関砲×2 7.7mm機銃×4、 爆弾等: 2トン、 乗員: 16名  
( 輸送機型「晴空」 乗客: 64名 乗員: 9名 )
初飛行 1941年1月
 
                                                 Illustrated by KOIKE, Shigeo  , イラスト:小池繁夫氏 2006年カレンダー掲載

 川西の九七式大型飛行艇が初飛行し、部隊配属が始まった後の2年後の1938年(昭13)には、海軍は川西に対し、それに代わる哨戒・爆撃を目的とした4発の高性能飛行艇の十三試大型飛行艇の開発の指示があった。 その目標性能は最大速度440km/h以上、巡航速度330km/h以上で且つ航続距離が8,300km以上という大型飛行艇としては破格の数字であった。

 当時、ワシントン軍縮条約、口ンドン軍縮条約によって、主力艦、そして巡洋艦以下の艦艇の保有率が、英米が5:5に対し日本は3に制約され、さらに統治を委任されていた内南洋諸島に航空基地の建設を禁止された日本海軍にとって、南海の環礁を利用して行動できる飛行艇は重要な戦力に思えた。

 川西では九七式飛行艇を担当した菊原静男技師を主務者として、まず発動機を当時もっとも高出力で信頼できた三菱の「火星」を選択し、同年8月に詳細設計に着手した。 それ以前からの種々の研究成果を織り込み、入念な風洞試験、水槽試験、強度試験を経て、この十三試飛行艇は細身の艇体に全幅38mの主翼、総重量24トンの機体となった。 また離水性能を向上するためにファウラーフラップとスプリットフラップを組み合わせた親子フラップを採用した。 この1号機は1940年12月大晦日に完成し、3ヶ月の社内試験飛行と改修を繰り返して翌年3月に海軍に領収された。

 海軍での試験結果では、離着水性能は97式より劣るものの、一般飛行性能、とくに速度や上昇力は格段の向上が評価され、直ちに4機の増加試作が行われ、垂直尾翼の改善や機首の延長改造などが行われ、1942年2月二式哨戒飛行艇11型(通称:二式大艇)として制式採用され17機が生産された。 その後エンジンを出力1,850馬力に向上した火星二二型に換装した二式飛行艇12型が1943年6月制式化され、これが最も多く生産された。 

 その後、防弾性能の強化や動力強化の改修型(22型、23型)が、ごく少数試作された。 一方、1943年初めには海軍からこの二式飛行艇をベースに輸送機型に改修する試作指示があり、艇内を上下2層の部屋に分け、艇体の両側に窓をあけ、非常口の増設、防音、換気、暖房やスピーカーを装備して、向い合った長椅子タイプで最大64名、個人シート仕様で29名が搭乗出来るなど実用性の高いものになった。これが32型「晴空」で1943年から45年に36機生産され、初号機から合わせて167機もの二式大艇が作られた。

 大正から昭和にかけて、日本海軍は次々と大型飛行艇を開発していった。 二式大艇はその頂点に立つ機体だった。 試作1号機の飛行に立会った先輩は「すげぇ−波だった! プロベラに波がかかるのでなく、滝壷の中でプロベラが回っているんだ!!」 と興奮して話していたという。  この体験が、戦後川西の流れを引き継ぐ新明和工業で生産されているUS-1、US-2の波消し装置という独特のメカニズム発明のもとになった。 (鳥養鶴雄氏筆)

 二式大艇の速度、航続距離は、当時の外国の飛行艇と比較すると群を抜いていた。 その航続距離を活用して、マーシャル群島からフレンチフリゲート環礁を中継した第2次真珠湾攻撃や、九州南端から南洋群島ウルシー泊地へ殴りこむ梓特攻隊の誘導など、多くの活躍が戦史に残っている。 またラバウル撤退では夜間に敵の包囲網をかいくぐって、15機によるピストン輸送で600名にも及ぶ兵士を救出するという快挙を成し遂げた。

 しかし敵戦闘機に遭遇すると、いかんせん旋回銃では対抗できず、高度を下げ海面すれすれで逃げ惑うしかなく、無念に撃墜される悲劇がしばしば繰り返された。

 航空技術という面では、戦後米国に輸送された1機が米軍によって試験が行われ、水上での走行安定性には疑問はあるものの、一般飛行性能では同時期に開発された米英の飛行艇に比べ格段の差が認められ高く評価された。 しかしやはり同じ時期に開発が開始された米国の陸上機コンソリデーテッドB-24リベレーター(PB4Y)と比較すれば、速度、防弾タンク、動力銃塔、レーダーなどの装備は大きな遅れをとっており、米国の総合的な航空技術の先進性は否定できない。 大平洋戦争を飛行艇隊長として戦い抜き、多くの部下をソロモン群島や沖縄の索敵作戦で失い、戦後PS-1の開発にも参加された日辻常雄(元海軍少佐・海将補)は、その著書の中で「もっと軽快で高速な(大きな航続距離のある) 陸上偵察機を開発すべきだった」と述べている。(鳥養鶴雄氏筆)

 しかし、同じ性能目標で中島飛行機に試作発令の出された十三試陸上攻撃機「深山」は、ダグラスDC−4を参考に開発したが、やはり当時の日本の航空工業力では油圧制御システムや着陸装置など、前述のB-24に見られる艤装装備技術が十分ではなく、期待した成果を出しえなかったことも現実であろう。

 小池さんのイラストは南方の海で潮に曝され、塗装が剥げ落ち、なおも任務を遂行し苦闘する二式飛行艇11型で灰色の塗装である。 艇体の底部の波制御板(俗称:かつおぶし)が特徴的に描かれている。

 なお主力型の12型は海軍の正式な深緑色の塗装がされていた。また戦後米軍でテストされた1機が日本に返還され、レストアされ長く東京の船の科学館に屋外展示(右写真)とされていたが、2004年以降は鹿児島県の海上自衛隊鹿屋基地資料館に保存されていることは喜ばしい。

 ・川西航空機については、九七式飛行艇のページをご覧ください。

 


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