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再び、南の島へ

No.3 2日目午前/3日目午後:戦跡巡り

前回沖縄に行った時、全くといっていいほど抜け落ちていたのが「南部戦跡」。沖縄戦は日本で唯一地上戦が行われた場所で、総数で20万人の他、民間人で10万人近い人が犠牲になったとされる(いずれの数字も確定したものではない)、極めて激しい戦争であった。当時の戦争の悲惨さは、住民の集団自決に関する歴史認識の問題等、終戦から63年経った今なお、傷が疼き続けている事からもおおよその想像することができる。

日帰りの戦跡巡り程度で当時の戦争に関する知見が広まるとは思っていないが、百聞は一見に如かず、今回の旅行のコースに組み入れる事にした。

 

〜2日目午前・海軍壕〜

旧海軍司令部壕は、那覇市の南に位置する豊見城市に位置する、沖縄戦終結から10日前の6月13日に指令・将兵が集団自決を図るまで機能していた、第二次世界大戦当時の日本海軍の地下指令設備である。

海軍壕に行くには、那覇から33番・46番のバスで行けばいいのだが、自分は那覇バスターミナル→国場川→漫湖→小禄と歩いて来たため、全く不案内な場所に着いてしまった。近くにいた老人に道を尋ね、105番の豊見城市循環バスに一緒に乗ってもらった。

海軍壕公園の停留所から丘を登ること10分、海は見えるがどちらがどちらの方角か判然としない。

入場券を買って、海軍壕に入る。中では、海上自衛隊と思われる一団がいた。背が高くスマートな自衛隊員が首や体をよじらせ(昔の日本人は小さかった)洞窟の奥に入る。

洞窟の中は通信室・作戦室・電力室など様々な部屋に分かれている。部屋の中には医務室もあったが、最後の頃は治療を必要とする患者が増え過ぎて立って収容するほど悲惨な状況だったようだ。

慢。

陽が射さないため薄暗く冷えた洞窟の中にはいくつもの「部屋」があり、その多には菊の花が1輪備えられていた。

暗い洞窟の中を20分ほど巡って外に出ると、再び明るい沖縄の太陽が照りつけてきた。汗を流しながら坂道を降り、モノレールの駅まで歩いた。

 

〜3日目午後・平和祈念公園〜

沖縄の東海岸を廻った後、一旦那覇市内に戻り、50番のバスで沖縄本島を横断し、具志頭(ぐしちゃん)に向かう。山は無く、さとうきび畑が続く丘の上をバスは南に向けて走る。沖縄本島西海岸に上陸した米軍から逃げるコースを辿っているかのようだ。

具志頭で82番の小さいバスに乗り換える。このバスは糸満と琉泉堂を結ぶ路線だが、ひめゆりの丘・平和祈年公園を経由するため本数は1〜2時間に1本と割と多い。レンタカーや定期観光バスを使わない観光客もちらほら乗っている。

昼頃、真夏の陽が射す平和祈年公園に着いた。公園入口付近の売店で昼食。沖縄そばを作ってくれるので、栄養を取ろうと思いソーキそばを注文。しかし注文した後、骨付き肉であることを思い出して、かなり微妙な気持ちになった。

昼食を食べた後、平和の丘(名称確認)に向かう。ここは縄戦に徴収され、ここで命を落とした兵士を弔う追悼碑が各県や団体毎に並んでいる。ひととおり見た後、摩文仁の丘に出る。ここは陸地の最南端で、向かう先は太平洋が広がっている。海は蒼く、この風景をいま見る分には心が洗われて長生きできそうな気分になるが、米兵の追撃を逃れ、南に南に逃げて来た日本兵・住民の立場だともうここで行き止まりになってしまっている。

その後、平和の礎を尋ねる。沖縄戦で命を落とした兵士・住民の名前が、並べられた墓石にくまなく書き綴られており、その数は国籍・出身を問わず25万筆近くに及ぶ。

最後に、平和祈念資料館を尋ねる。ここは沖縄戦の背景・戦場・米軍支配・戦後処理が一連の展示となっている。敢えて「沖縄と内地の相違」に囚われた言い方をすると、沖縄県が沖縄の視点に立った内容の展示であるように思われ、人によっては展示内容や演出に違和感を感じるかもしれない。

しかし、この展示館が国ではなく沖縄県によって作られたものであり、そのような印象を与える余地のある展示になる点は自然であるように思われる(さらに書き加えると、結果として戦争に勝てなかった立場に立った主張が、世の中でなかなか共有されにくい点はやむを得ないと考えている)。

 

〜糸満市〜

ジャージ姿でうろつく修学旅行生の間を縫ってバス停に向かい、糸満行きのバスに乗る。糸満の市街地は、ロータリーから少し入ったところに旧市街がある。町の中に屋根がかかった大きな市場があり、大手チェーンのスーパーでは決して味わえないちょっとくたびれた雰囲気の中でおばさん達が野菜や肉や魚や弁当を売っている。ここまで暑い中ずっと動きどおしだったので市中の食堂(有名な平和食堂)に寄り、大きい豆が入っている氷ぜんざいを頂いた。

その後那覇に戻るが、バスに乗ってから「ご苦労様です」と言われ、顔を見てビックリした。偶然にも昨日いろいろお世話になったY運転士だった。

 

〜桜坂劇場〜

那覇に着いたら、東京で予約していたビジネスホテルに入り、風呂/洗濯を済ませてから再び夜の街へ。K氏が楽しみにしていた比屋定篤子のコンサートに同行することになっている。

比屋定敦子は、沖縄をベースに活躍する歌手で、背の高い容姿に似合うポップス〜ボサノバ系の歌を得意とする歌手である。実はこの手のコンサート自体行くのが初めてであり、その割には「予習」とかは全くしていない状態であったが、コンサートを見て歌のジャンルと本人の人となり(容姿とか)がかなりぴったりあっているように思えた。

コンサートは桜坂劇場と呼ばれる沖縄では有名な劇場で行われた。ホール自体は100人規模のコンサートホールが3つある小さなものだが、沖縄の文化発信の最前衛と呼ぶのにふさわしい、いろんなジャンルの映画やコンサートが行われている。桜坂劇場のミニコミ誌やイベントのチラシも多数配られたが、その中で目を引いたのが、映画「靖国」のパンフレットであった。

中国人の監督が作った、戦没者の魂が祀られている靖国神社の模様を淡々と記録した映画であったが、2008年の春頃はじめて上映する頃に議論を呼びなかなか上映がうまく行かなかった映画である。春頃のゴタゴタがニュースで騒がれて以降、だれも触れなくなって映画自体どうなったのかなと思ったが、このチラシを見て、こうして各所で上映されるようになって良かったと思う。アメリカでダーウィンの進化論を受け入れない人々に似たような「必死」さは、対外的に恥ずかしいし、自分たち自身の道を見誤るように思えて成らない。

コンサートが終わった後、いろんなことを考えながら、K氏と市中の居酒屋で飲んだ。

 

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更新日 2008.10.19
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