1.高度消費社会の出現 ★
●オイル=ショックの影響:それまで安い石油に依存してきた先進工業国は、原油価格の高騰により深刻な影響をうけました。これまでの「重厚長大」を特徴とする重化学工業から「軽薄短小」を特色とする知識集約的な産業への転換が図られるようになりました。
●主導権を握る第三次産業:消費者が求めるものを求めるだけ生産して売れば、経費がそれだけ減らせます。これまで製造業が主導権を握ってきた産業構造が、流通業が主導権をとるかたちに変化しはじめました。先進国では第一次産業と第二次産業の総就業人口よりもサービス業を中心とする第三次産業の就業人口の方が多くなる現象が現れました。
●「イメージが売れる」:生活に直接必要なものの購入にあてられる「不可処分支出」が縮小し、それが欠けても生活に支障がでないものに当てられる「可処分支出」が増大する現象が先進国で現れ、人びとは「イメージ」を消費するようになります。そういった生活が「豊かさ」を象徴していました。
●「あふれる教育」:農・漁・林業など第一次産業が後退し、自営者の数が減少するにつれて、社会における一定の学校教育を終えなければ、社会人としての生活が難しくなる状況が生まれました。そのため、学費の負担が増たり、校内暴力やいじめや不登校といった問題が続出するようになりました。
●広がる国際的格差:産業構造を脱石油依存化する試みに成功する国とそれに遅れをとった国との間に経済的な競争力の格差が生まれて生きました。先進国工業国ばかりでなく、韓国や台湾といった途上国のなかにも経済的な発展をとげる国も出てきました。
●環境破壊の輸出:産業構造の転換に成功した国では、労働力が安い途上国に工場を移す例が増え、環境破壊も途上国で目立つようになりました。
●飢えるアフリカ:前の時代より続けられてきた開発の失敗により、世界の各地で深刻な環境破壊がおきはじめました。アフリカでは砂漠化により深刻な飢餓が発生するなど、途上国でも経済的な格差が大きくなりました。
2.変化のはじまり★
●イスラム・パワー:戦後、米国の支援のもとに上からの近代化を推し進めてきたパフレヴィー王朝下で経済がいきづまり、国民の不満が高まっていました。1979年、ついに各地で国民が立ちあがり、パフレヴィー政権は崩壊しました。亡命していたホメイニが帰国し、イスラムの理念にもとづく政権が成立しました。
●ソ連の苦悩:1979年アフガニスタンでも革命がおこり、政治的な混乱が生じます。ソ連はこれに介入しますが、米国の支援を受けた反政府ゲリラの活動が盛んになり、アフガニスタンは内戦状態になりました。また、ポーランドでは自主管理労組「連帯」の反運動が高まりをみせ、ソ連の威信が大きくゆらぎました。そんな中、ソ連のチェルノブイリ原子発電所で大事故がおき、その影響は全ヨーロッパに及びました。
●米国:政府による景気刺激策で経済成長を維持してきた「西側」の経済政策は、莫大な財政赤字を生み、同時に進行した物価高が人びとの暮らしを追いつめていました。レーガン米大統領やサッチャー英首相等は、政府による経済干渉政策をとりやめ、自由な競争による経済の発展をめざす新自由主義の政策を採用するようになりました。
●貿易摩擦:オイルショック以後、産業構造の改造を進めてきた日本は、1980年代には自動車や電気製品の輸出が急激に拡大し、欧米各国から批判の声が高まりました。特に、貿易赤字に苦しむ米国はこの時代に強く反発し、「貿易摩擦」は日米間の深刻な政治問題に発展しました。
●EU:ヨーロッパ諸国の地位の低下に対し、統合によって国際的な影響力を高めよとするヨーロッパ統合の試みは、1986年〈国境なきヨーロッパ〉を実現する段階に発展していました。
●プラザ合意:1985年、71年ぶりにの純債務国に転落した米国は、経済力の強化を図るため、主要5ヵ国(G5)の会議でのプラザ合意により、ドルの引き下げを図りました。1988年1月にはドル安は、1ドル=120円45銭にまですすみました。
●改革開放の道:毛沢東の死後、文化大革命の混乱を収拾した中国は「改革開放」政策を導入しました。中国政府は韓国やシンガポールでの成功から学んで、「経済特区」を設けて市場を開放し、外資を導入して国際的競争力のある経済を育てる政策に踏みきりました。
●フィリピン革命:フィリピンでは、米国の支援により、強力に経済発展を図る「開発独裁」体制が続いてきました。大統領選挙での不正問題が発端となり、マルコス政権に不満を持つフィリピンの民衆は立ち上がり、マルコス大統領はハワイへ亡命しました。
●中南米の民主化:70年代よりチリ、アルゼンチン、ニカラグアなどの国々で軍事政権がたおれ、民主化が進みました。独裁政権が崩壊する傾向は中南米に限らず、世界各地で起きました。
●天安門事件:改革・開放政策の浸透とともに、政治についても民主化が求められるようになりました。1989年6月、北京の天安門広場に結集した学生たちを政府は軍隊によって弾圧しました。
3.冷戦の終結★
●ペレストロイカ・グラスノスチ:1985年、ソ連の書記長になったゴルバチョフは情報公開(グラスノチス)による言論の自由をうち出し、86年にはペレストロイカ(改革)をかかげてソ連の政治や社会の全面的な見直しを始めました。ソ連の現実はこれを避けては立ちゆかないほど疲弊していたのです。
●ビロード革命:1989年10月、東ドイツから西側へ脱出する人が続き、11月にはベルリンの壁が崩壊します。東西対立を象徴してきた「壁」の崩壊で、東ヨーロッパの国々では相次いで社会主義政権が崩壊しました。この転換は民衆運動により血を流すことなく進められたので「ビロード革命」と呼ばれています。
●ソ連の崩壊:急激な改革により、ソ連国内で民族運動を呼び起こし、バルト3国、ウクライナなどの共和国が独立し、1991年ソ連共産党も解体し、ロシア連邦が成立しました。
●湾岸戦争:アラブの統一と社会主義をめざすイラクのサダム=フセイン大統領は、80年代国境紛争をめぐりイランと戦争を始めます。さらに、90年にはクウェートに侵略し、アメリカを中心とする多国籍軍の攻撃で撤退しました。
●地域紛争:さまざまな民族や宗教が混在した旧ユーギスラヴィアでは民族紛争が続き、深刻な対立を生みだしました。このように、「冷戦」の終結以後、世界各地で地域紛争が続発しました。この傾向は全世界で現在も続いています。
●アパルトヘイト:長い間続いてきた南アフリカ共和国の人種隔離政策(アパルトヘイト)は、1991年廃止され、黒人の支持を受けたマンデラが大統領に当選しました。
●核拡散:米ソの核兵器の削減が進められてきましたが、インド、パキスタンが核実験に成功し、イランや北朝鮮の核兵器の開発が懸念されています。
4.IT革命とグローバリゼーションの嵐★
●マーストリヒ条約:ソ連が崩壊した翌年の1992年、ヨーロッパ連合(EU)が誕生し、ヨーロッパでは市場が統一され、人々は国境を意識することなく日常生活を送ることができるようになりました。
●インターネット:冷戦下で、米国はソ連の核攻撃にも耐えられるネットワークづくりを研究し、コンピューターによる蜘蛛の巣状の自動通信網を開発しました。やがてこのネットワークは、軍や大学関係者の枠組みを超えて、全米、全世界に広がり、ワールド・ワイド・ウェブ(www)と呼ばれるネットワークに成長していきました。
●WINDOWS95:1995年、米国のマイクロソフト社はWINDOWS95と呼ばれる基本ソフトを発表します。これにより、特別な知識がなくてもコンピューターを操作することができるようになり、パソコンが爆発的に普及し、それに合わせて、インターネットが日常的に利用されるようになりました。
●世界貿易機構:関税障壁を撤廃し自由貿易の維持を目指してきたGATTにかわり、物だけでなく情報・サービスの取引をも対象とする自由化をめざすWTOが発足しました(1995)。
●サイバーテロ:ネットワークを通して契約が交わされたり、貴重な情報が集積されたりするようになると、これを狙う犯罪が現れました。また、企業や国家の情報の破壊をねらってテロもおきるようになり、情報社会における安全のあり方が重要な社会的テーマとなりました。
●9.11:社会の情報化は個人の能力を増大さ、国境を越えた人びとの結びつきを強めます。このような環境を最大限利用しておこされたのが、2000年9月11日の米国同時多発テロでした。西アジアでの米国の影響力の拡大に反発したイスラム過激派のテロは世界を震撼させるとともに、21世紀の新しい戦争のかたちを世界に示しました。
●BRICS:IT(インフォメーション・テクノロジー)革命の進展により、お金の動きも流動的になります。冷戦の終結により縮小した軍事産業の資金やオイルマネーなどの余剰資金はビジネスチャンスを求めて世界中を駆けめぐるようになります。その結果、ブラジル(B)、ロシア(R)、インド(I)、中国(C)、南アフリカ(S)などBRICSと呼ばれる大国で急激な経済成長が始まりました。
●WEB2.0:パソコンの普及により、誰でも画像や音声を加工したり、インターネットで情報を発信したりするようになり、企業と個人、専門家と素人の境界が低くなりました。その結果、無数の一般大衆がネットワークを通して、質の高い情報サービスをつくり出すという現状があらわれ、これまでの著作権のあり方や企業活動に大きな影響を与えるようになりました。
●米国の苦悩:第二次世界大戦後、米国はドルが国際通貨として流通させましたが、そのために絶えずドルの流出に苦しまなければならなかったように、「冷戦」後の米国は「世界の警察」として、世界の各地で地域紛争に関与し、場合によってはその地域の人々から反発を受け、テロの恐怖に脅かされる事態に陥っています。皮肉にもテロ対策として、国内では人権の侵害が余儀なくされる現実が生まれています。
5.この頃の日本列島★
●「ジャパン アズ ナンバーワン」:オイルショックにより大きな打撃を受けた日本は、「重厚長大」の経済から「軽薄短小」の経済へと国をあげて産業構造の転換をはかりました。日本経済独特の「護送船団方式」と呼ばれる官民一体の仕組みがそれを可能にしました。この日本の成功は「ジャパン アズ ナンバーワン」と称賛されました。
●55年体制と冷戦:1955年以来、日本は「冷戦」下の世界で米国と政治・経済にわたり一体となってきました。しかし、「冷戦」が終結した20世紀末、日本は政治・経済にわたって新しい仕組みを作り出す必要に迫られていました。
●バブル経済:1980年代後半、日本経済は円高、金融市場の自由化、低金利政策により株や土地に対する投資が活発になっていました。東京のオフィスビル不足から始まった地価の上昇は地方都市にまでおよび、空前の土地投機が始まり、経済の実態を超えて地価や株価が騰貴しました。
●「失われた10年」:90年代に入り、バブル経済は崩壊します。高騰を目論んで購入した土地の価格が暴落し、投資した企業は莫大な借金を残し、それに融資した銀行は不良債権を抱えて経済は破綻しました。日銀は利子の軽減を図るために金利を下げ、政府は金融機関に莫大な支援を繰り返しました。
●試される政治の力:「冷戦」後の世界の変化に対応できない政治、莫大な利益を有効に活用できなかった経済。日本は身動きできない状態で21世紀をむかえました。自信と信用を失った日本の社会が生き延びる道は、責任から逃げず、自分の言葉で語る<自立>の姿勢しかありません。
6.文明論の視点★
●社会主義の挫折:政治の力で、社会をコントロールする社会主義の考え方は、低い生活レヴェルしか実現することができませんでした。西側の「豊かな生活」を知った人びとは、社会主義の「正義」を支持しなくなりました。
●財政赤字の病:政府が経済に刺激を与え、間接的に社会をコントロールする「西側」の政策は、財政赤字という慢性病に苦しみ、政治は徐々に経済から手を引きはじめました。経済は自由な競争にゆだねるべきだという考え方が支持されるようになりました。
●市場原理か共同体か:「自由な競争により経済は成長する。」と信じる市場原理主義者と、「政治の力で助け合いの社会を実現することこそ社会の究極の目標だ。」とする共同体主義者。グローバリゼーションの厳しい現実の中で、今、人々の心はこの二つの原理の間を揺れ動いています。この二つの原理は「市民社会」と「国民国家」という近代社会の二大原理です。
●賃金の格差と競争:輸送費を考慮しても十分安い製品は、低い賃金によってはじめて成り立ちます。世界中の人々が市場をとおして生活に必要な物を買うようになったら、賃金の格差はなくなり、より多くの利益を求める競争の余地はそれだけ少なくなります。賃金の地域格差によって利潤が生まれることはなくなります。
●遊びと仕事:技術革新によって生産力が向上したら、その分の労働時間を世界中で短縮したら、人々の余暇の時間が増えます。人々は余った時間を職業以外の活動で生きる喜びを見つけようとします。仕事と遊び、ビジネスとボランテイアの境界が薄れ、文明社会が生み出していたストレスも減少します。そのためには最低限の生活が保障されることが必要です。
●都市と農村:遊び(私的活動)と仕事(社会的活動)の境界が低くなること。地元の生産物に依存する生活(地産地消)をすること。この二つが進めば、都市(商工業)と農村(農林漁業)の対立は縮小するように考えられます。それは、今から5500年前に人類がはじめた文明化の歴史を閉じ、世界史が新しい段階に入ることを意味していると思います。
7.チェックポイント
point1:変化のはじまりは原油価格の苦闘
先進国の経済成長を牽引してきた重化学工業が、原油価格の高騰により行き詰まったことが、変化のきっかけとなりました。
point2:冷戦は米ソにとって負担だった
冷戦は米ソにとって、経済的にも政治的にも大きな負担となっていました。それがこの時代、限界に近づきつつありました。
point3:冷戦の終結は、東側の敗北のはじまり
米ソの対立の下でそれまで押さえ込まれていた諸問題が、世界の諸地域で噴出しました。
point4:IT革命は経済や政治のあり方を大きく変えた
インターネットの普及に代表されるIT(インフォメーション・テクノロジー)革命は、物・人・金の動きを促し、グローバル化に拍車をかけることになりました。