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【 F3 : 1930 〜 1975 】
19.独裁者と戦争の時代

●一部の先進工業国では、大衆が選挙権を得て、豊かな生活を享受するようになりました。この時代はまさに大衆の時代でした。しかし、それは軍需生産によって肥大化した産業によって支えられており、つねに政治によってコントロールされなければ、崩壊の危機に瀕しているという危うい文明によって実現されていました。

●そのため、強力な指導者が政治の力によって社会に干渉して、国家を維持する政治形態が試されました。米国、ドイツ、ソ連、中国で行われた試みは、多くの犠牲を出しながら結局失敗に終わっていきました。

  1. 国家のあり方を変えた世界恐慌
  2. ヒトラーと第二次世界大戦
  3. スターリンと戦争
  4. 消費は美徳
  5. 毛沢東と革命
  6. 冷戦の下で
  7. この頃の日本列島
  8. 文明論の視点
  9. チェックポイント

1.国家のかたちを変えた世界恐慌

●世界恐慌:1920年代、米国では株の投機ブームが加熱し、生産も拡大し続けました。巨大化し影響力が大きくなった企業の経済行動が社会に大きな影響を与えるようになり、誤れば、経済の深刻な崩壊をもたらすようになりました。1929年10月24日、それが現実のものになりました。

●世界経済の状況:アメリカの経済は戦中・戦後と成長し続けていました。より多くの利益を求めて莫大な資金が投資され、経済は拡大し続けていました。その頃、ヨーロッパ経済が復興し、投資が過剰気味になり始めていました。そこへヨーロッパの農業生産も回復し、生産過剰は農業部門にも現れました。農産物価格が急落し、需要は急速に減少しました。アメリカはドイツをはじめとするヨーロッパ諸国に投資していた復興資金を引き揚げました。それが恐慌の規模を拡大しました。

●保護貿易の台頭:各国政府は次々と金本位制を停止し、各国の通貨は金と交換できない不安定な信用のもとにおかれました。イギリスやフランスは自国の経済利益のみを優先する経済ブロックを形成し、世界の貿易は排他的で閉鎖的な状態になっていきました。

●ニュー=デイール政策:アメリカのフランクリン=ローズヴェルトはイギリスの経済学者のケインズの学説にもとづき、政府が公共事業を発注することで需要を作り出し、停止した経済活動を再開させようとしました。また、競争力の弱い農業などの部門や労働者の権利を保護し、社会の購買力を増やすことで経済活動を活発にする政策もとりました。

●フランクリン=ローズヴェルト:フランクリン=ローズヴェルトの政策は社会主義的だと批判されたりしましたが、国家が社会のさまざまな領域に影響を与えて、経済の安定を図ろうとする政策は、その後の先進国工業国の基本となりました。

●第二次世界大戦と大恐慌:しかし、実際には、フランクリン=ローズヴェルトの政策により米国の経済が復興できたわけではありませんでした。米国の経済を大恐慌から復活させたのは再び起きた戦争のための軍需生産でした。

●「四つの自由」:フランクリン=ローズヴェルトは侵略を開始したドイツのファシズムに脅威を感じ、米国民にこれと戦うことを呼びかけました。フランクリン=ローズヴェルト「四つの自由」の理念をかかげ、世界にファシズムとの戦いを呼びかけました。「言論と表現の自由」・「信仰の自由」に加え「恐怖からの自由」・「欠乏からの自由」を内容とする「四つの自由」は第二次世界大戦後の国際社会の動向に大きな影響を与えました。

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2.ヒトラーと第二次世界大戦

●ミュンヘンの画家志望青年:画家の志をたたれた25歳の貧乏青年アドルフ=ヒトラーの人生は第一次世界大戦に志願してから一変します。

●ナチス党:戦後、30歳のヒトラーはドイツ労働者党(ナチスの前身)に入り、社会主義的な団体の調査などにたずさわります。その過程で、演説の才能が認められ、ヒトラーは32歳で党首に選ばれます。

●中間階層の不安:ベルサイユ条約により領土を削られ、多額の賠償金に苦しんでいた当時のドイツ市民の心をつかんだヒトラーのナチス党は、大恐慌が深刻化するなか1930年に107の議席を獲得し、第二党に躍進します。

●第一党へ:右派勢力と組んだナチス党は32年3月、選挙で647議席のうち288議席を獲得し、第一党になりました。ヒトラーは43歳でした。

●独裁のはじまり:33年ヒンデンブルク大統領の任命により首相になったヒトラーは、国会議事堂放火事件を利用し、共産党を解散させ、全権委任法を成立させます。ヒトラーの独裁政治が始まりました。

●軍拡による不況の克服:ヒトラーは自動車専用道路の建設や軍備拡充により経済を刺激し、失業者を減らす政策をとりました。当時のドイツ人が抱いていたベルサイユ条約による屈辱感を排外的な民族主義に変え、ユダヤ人の迫害と侵略戦争へとドイツ国民を駆り立ててiきました。

●ミュンヘン会談:イギリスやフランスは反社会主義的なヒトラーの政権はソ連への防波堤となると考え、ナチス党の躍進躍進を警戒しませんでした。38年、オーストリアを併合したドイツはチェコのズデーデン地方の割譲を要求し、英仏はミュンヘン会談でこの要求を承諾してしましました。

●ヒトラーとスターリン:イギリスやフランスに不信感をもったスターリンはドイツと独ソ不可侵条約を結びました。39年、9月1日、独軍はポーランドへの進攻を開始しました。英仏がドイツに宣戦布告したのは二日後のことでした。9月半ば、ソ連軍もポーランドに侵攻し、さらにバルト三国やフィンランドにも侵攻しました。

●独ソ戦:先制攻撃を仕掛けた独軍とイタリア軍は40年の5月にはヨーロッパのほぼ全域を制圧していました。自信を深めたヒトラーはスターリンとの約束に反して、41年6月ソ連に侵攻を開始しました。しかし、ドイツ軍はスターリングラードの戦いに敗れ、敗退の道を進み始めることになりました。

●ヒトラーの最期:米国から武器の援助を受けたソ連は、膨大な犠牲者を出しながら独軍を苦しめ、ヒトラーは45年4月、ベルリンでピストル自殺をして、56歳の生涯を終えました。45年5月、ドイツが無条件降伏をし、ナチスによるユダヤ人大量虐殺の事実が世界に知らされることになります。

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3.スターリンと戦争

●第一次5カ年計画:ソ連ではスターリンの指導の下に1928年より第一次五カ年計画が進められ、大恐慌の影響を受けることはありませんでした。しかし、生産物を強制供出させるなど農民の犠牲の下で重工業化が推進され、強制的に農場の集団化や農業の機械化がすすめられ、多くの餓死者を出すことになりました。

●粛正とラーゲル:スターリンの政策に反対したものは、根拠のない罪で投獄、処刑されたり、強制収容所(ラーゲル)で働かされたりし、スターリンの個人崇拝が進められました。そのため、ソ連は多くの人材を失い、国力を弱めることになりました。

●祖国防衛戦争:スターリンの独裁体制は強化されましたが、潜在する反対者を消し去ることはできません。そこに独ソ戦がはじまりました。この戦いをスターリンは祖国防衛戦争と位置づけ、国を一つにまとめようとします。

●失われた「大義名分」:2000万人という犠牲者を出して、ソ連は第二次世界大戦の勝者になりました。ファシズムと戦う「正義の戦争」が終わり、スターリンの独裁体制の大義名分が失われます。

●「冷戦」はじまり:戦後、アメリカはソ連への武器援助を一方的に打ち切りました。これがきっかけになり、米ソの対立関係は表面化していきました。ソ連軍が占領した東ヨーロッパの各地では社会主義政権が次々に誕生し、ヨーロッパは二分されていきました。

●トルーマン=ドクトリン:米国やイギリスはソ連の影響力の拡大をおそれ、戦災にあった国々への経済援助を打ち出し、ソ連の封じ込め政策を始めました。こうして、世界は米国を中心とする「西側」とソ連を中心とする「東側」に分断されることになりました。

●ベルリン封鎖:米・英・仏とソ連はドイツの占領政策をめぐって対立し、1948年6月、ソ連は四国で共同管理されることになったドイツの首都を封鎖しました。そのため米・英・仏の管理下にあったベルリン市民と兵士が孤立してしまいました。軍事対立に発展することをおそれた米国は、ソ連が封鎖を解除させた翌年の5月まで、飛行機で孤立したベルリンに生活物資で輸送し続けました。

●朝鮮戦争:日本の支配から独立した朝鮮では、ソ連が占領した北に建国された朝鮮民主主義共和国と、米国が占領した南で建国された大韓民国が北緯38度を境に対立する状態にありました。やがて、これは軍事対立に発展しますが、北を支援するソ連や中国と南を支援する米国が直接、軍事対立することにはなりませんでした。

●「冷戦」という仕掛け:このような東西の対立が世界中でおきますが、米国もソ連も、直接戦火を交えることはしませんでした。この「冷たい戦争」は肥大化した権力を維持する大義名分をスターリンに提供しました。米国も強大化してしまった軍事生産体制を維持する理由をこれによって得ていました。

●スターリン批判:しかし、1953年、スターリンは死去します。新たな権力を得たフルシチョフは1956年、スターリン体制下の個人崇拝や不法な処刑・抑圧を批判しました。これより東西の緊張は少しずつ緩和され、「雪解け」時代を迎えることになりました。

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4.消費は美徳

●産軍複合体:皮肉にも、米国の経済は軍需生産によって立ち直り、第二次世界大戦中は米国が再び「世界の工場」となりました。戦争中に形成された産業界と軍隊の協力体制は巨大な組織体となって戦後をむかえました。

●軍需から民需へ:戦争が終われば、軍需生産は不要になります。これまで軍需物資を生産してきた工場は、日常生活品を作り始めました。戦災国への援助、新しい生活スタイルの開発、使い捨ての新しい文化、さまざまな局面で消費が作り出されました。

●ブレトン=ウッズ体制:二度の大戦で莫大な金が集積した米国は、第二次大戦後、金1オンス=35ドルという交換比率で、ドルを国際通貨にしました。世界貿易はドルの信用を前提に行われました。アメリカ的生活スタイルはこの強いドルとともに世界に広まっていきました。

●「冷戦」も戦争と同じ:「冷戦」は実際には戦火は交えませんが、軍事は拡充され、軍隊は増強されます。これはソ連のスターリンにとってもアメリカ経済にとっても、戦争をしているのと同じ効果がありました。それどころか、実際の戦争はやがて終わりますが、「冷戦」による対立はエンドレスも同然でした。

●ケンデイー:「スターリン批判」のあとも「冷戦」は続きました。ケネデイー大統領の時代、ソ連は社会主義政権が成立したキューバに核ミサイルを配備しようとし、一時は米ソ間の戦争に発展しそうになりました。しかし、ソ連のフルシチョフ首相の妥協により世界戦争は回避されました。

●宇宙開発計画:宇宙開発において遅れをとった米国は、「有人月面着陸」を目標に宇宙開発計画を進めました。これは核兵器の開発と同様に「冷戦」の新しい分野となりました。

●ベトナム戦争:フランスとの独立戦争に勝利したベトナムでは、北の親ソ政権と南の親米政権の対立が続いていました。ソ連の影響力が東南アジアに拡大することをおそれ、ベトナムを支援していた米国は、1965年直接、北ベトナムを攻撃し、ベトナム戦争が拡大していきました。

●「豊かさ」の輸出:1960年代、アメリカは発展途上国に経済援助をして、経済開発を進めました。これにより、途上国に親米政権をつくり、途上国の産業をアメリカ経済の影響下に置こうとしました。親米政権に敵対するような勢力がある途上国には、米国の軍事顧問などが秘密裏に派遣されたりしました。

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5.毛沢東と革命

●長征:1920年代に国内を統一した中国国民党の勢いは、中国共産党を脅かすようになっていました。毛沢東は国民党の勢力が強い南部から、延安に共産党の根拠地を移動させます。「長征」(1934年〜36年)と呼ばれる12500キロにおよぶこの大移動を成功させた毛沢東は中国共産党の中心的な存在になりました。

●満州事変:大恐慌以来、不況に苦しむ日本は、朝鮮や中国への支配を強めて、これを打開しようと図りました。1932年日本軍は満州を占領し、満州国を建国しましたが、諸外国はこれを侵略として日本を非難しました。

●民族統一戦線:1935年、毛沢東は「八・一宣言」を発表して、中国への侵略を拡大しつづける日本から中国を守るには、中国人が協力して戦わなければならないと、訴えました。西安事件による張学良のはたらきもあり、中国共産党と中国国民党は協力して日本軍と戦うことになりました。

●太平洋戦争:日本は、泥沼化する中国との戦争を打開するため、東南アジアへと戦線をひろげ、米国とも交戦状態に入りました。しかし、1945年8月、日本は中国・米国・ソ連などの連合軍に無条件降伏をし、すべての植民地から撤退しました。

●中華人民共和国:日本軍の侵略から解放された中国では、中国共産党と中国国民党が再び対立し、内戦状態になりました。戦争中に農民に影響力を拡大した共産党は1949年、革命を成功させ、中華人民共和国が成立しました。内戦に敗れた蒋介石らは台湾に逃れ、中華民国政府を維持しました。

●中ソ論争:朝鮮戦争ではソ連とともに北朝鮮を支援した中国でしたが、「スターリン批判」以後、中ソの関係は悪化し、毛沢東ら中国共産党は独自の社会主義路線をとるようになりました。

●「大躍進」:農民の支持により革命を成功させた毛沢東は、「人民公社」により農村の改革を図りました。農業・工業・教育など生活のすべてを、地域ごとに組織された「人民公社」を単位に農民自身により改革する運動がはじまりました。「大躍進」と呼ばれたこの運動は失敗し、何万という餓死者を出してしまいました。

●文化大革命:自らの政策の失敗で、影響力を弱めた毛沢東は、10代から20代の若者を組織し、再び権力を握ろうと「文化大革命」を起こしました。毛沢東を個人崇拝する「紅衛兵」と呼ばれた少年・少女らは社会的な影響力のある人々を「反革命」としてつるし上げ、「自己批判」させて、その地位から引きづりおろしたりし、中国社会は長期にわたって混乱しました。

●農民の革命:1976年、毛沢東が死去し、「文化大革命」によって社会的地位を失った人々の名誉が回復され、中国社会は再び安定をとりもどしました。農民を中心とした革命による国づくりを目指した毛沢東の思想は、独立したばかりで国づくりに苦しむ途上国の指導者たちに大きな影響を与えました。

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6.冷戦の下で

●「冷戦」体制を崩す動きは、戦後の国際社会において少しずつ芽生えていきました。一つは、1930年以後、続々と独立を達成したアジアやアフリカの国々の動向です。二つ目は、ソ連の支配に反発した東ヨーロッパの国々での自由を求める戦いです。三つ目は戦災から復興し経済成長をとげた西側の先進諸国の動きです。

●AA諸国の独立:戦後、アジアやアフリカでは独立を達成する国々が続出しました。しかし、これらの国々は長い植民地支配により社会的にはさまざまな課題を抱えていました。米国やソ連はこれらの国々への影響力を強めるため、経済援助や軍事援助を行いました。そのため、国内に深刻な対立が生まれることも少なくありませんでした。

●バンドン会議:1955年、インドのネルーや中国の周恩来、ユーゴスラヴィアのチトーらが呼びかけ、アジア・アフリカ諸国会議がインドネシアのバンドンで開かれ、米ソのいずれの陣営にも属さない「第三の道」を歩むことが宣言されました。

●中東問題:イギリスとの約束に従ってパレスチナにイスラエルを建国したユダヤ人はパレスチナに住んでいたアラブ人を追い出してしまいました。戦後、パルスチナ難民とユダヤ人の対立は深刻になり、たびたび中東で紛争が勃発しました。

●「プラハの春」:「東側」諸国においてもハンガリー動乱などソ連の支配に反発する動きはありましたが、それらは厳しく抑圧されてきました。しかし、ポーランドやチェコなど西欧の影響を受けた国々では、ソ連の支配を受けた共産党独裁の政治に対する反発が強まりはじめました。1968年自由化路線を取り始めたチェコスロバキアに対してワルシャワ条約機構は軍事力で弾圧しました。

●「奇跡の経済成長」:日米安全保障同盟を結んだ日本は、経済成長を最優先させる政策を推し進め、驚異的な経済成長を実現しました。

●ドル=ショック:経済が復興し、貿易が盛んになると国際通貨となったドルは不足しがちになります。アメリカがドルを増発すれば、ドルの価値が下がり、金1オンス=35ドルの交換比率と矛盾する事態となります。経済援助や貿易赤字でドル安が決定的となった1970年、ニクソン米大統領はドルと金との交換を停止し、世界中に衝撃を与えました。

●ベトナム反戦運動:泥沼化するベトナム戦争に対して国内外で批判が高まり、反戦運動が世界中で高まりました。米国は経済的にも政治的にも苦しい状況に追い込まれていきました。

●中国代表問題:1972年、孤立する米国の国際的立場を打開しようと、米国のニクソン米大統領は、中国を自ら訪問し、中華人民共和国を正式の中国として承認し、国交を回復しました。時代は少しずつ変わりはじめていました。

●オイル=ショック:1973年、中東戦争でイスラエルに対し優位な立場に立とうとするアラブ側の石油産油国(opec)は結束して原油価格を21%引き上げ、世界経済に深刻な影響を与えました。

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7.この頃の日本列島

●新官僚と昭和:日本を占領したGHQは日本の官僚制を解体しませんでした。これは日本の占領を効率的に進めるための選択でした。大恐慌の打撃を少なからず受けた日本では、昭和になって「新官僚」と呼ばれる人びとが影響力をもち、官僚が社会の全般にわたって強力な影響力を及ぼし、社会政策を展開するようになっていきました。彼らは戦前は戦争の遂行を最優先し、戦後は経済の復興と成長を追求しました。官民一体の「日本的経営」は一貫して昭和の日本のテーマでした。

●新憲法:戦後日本の民主化によって、天皇は「文化的な象徴」としての地位に戻りました。これは、天皇は政治の現実的な過程には直接関与しないという日本の伝統的な制度にもどったことを意味します。明治憲法下の天皇制は日本の歴史のなかでむしろ異例な扱いをうけていたのに過ぎません。しかし、それを日本国憲法というかたちで明文化したのは画期的なことでした。

●昭和の日米関係:昭和の前半(1930・40年代)の日本は反米、昭和の後半(1950・60年代)の日本は親米。日本の外交政策は180°変化しています。戦前の日本は軍事と政治で海外に影響力を及ぼすとことを考えていました。しかし、戦後の日本は米国にとっての反共の防波堤になることと引き替えに、経済による「敗者復活戦」を試みたのでした。これは吉田茂首相の戦略的な選択は高度経済成長というかたちでみごとに花開きました。ここに戦後という時代の新しさがありました。

●高度経済成長と戦争:朝鮮戦争の特需により日本は戦後復興を助けられ、ベトナム戦争によって空前絶後の経済成長を達成しました。朝鮮もベトナムも分裂国家として苦しい戦後の歴史を歩んできた国でした。

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8.文明論の視点

●20世紀は独裁者の時代:ヒトラーもスターリンも毛沢東も20世紀だからこそ生まれた独裁者です。彼らは民衆を守るために権力の座に就き、民衆の犠牲によりその地位を守ったといっていいでしょう。20世紀という大衆の時代の難しさがこのことに端的に現れています。

●軍需と民需:戦争が終われば、それまで大砲や爆薬を生産していた工場では他のものを生産しなければなりません。毒ガス工場では農薬が、軍服や落下傘用の丈夫な化学繊維はストッキングになりました。新しい消費のかたちがさまざまな分野でつくり出されていきました。

●「豊かな生活」の強制:大恐慌の経済危機は世界大戦をもたらしました。しかし、世界大戦は軍需生産によって経済危機を終わらせました。残されたのは消費し続けなければ維持できない文明でした。日曜日に自家用車でスーパーマーケットに買い物に行き、一週間分の食料を冷蔵庫に詰め込む新しい生活スタイルが米国から世界に広がりはじめました。

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9.チェックポイント

step1:ニュー・デイール政策にはこれまでの政策と比べて新しい考え方がとり入れられていますが、それはどんな点ですか。
hint1:これまでの政治の考え方は、政府は経済には口を出さず、経済は市場の競争原理にゆだねておくべきだという「夜警国家論」にもとづいていました。。
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step2:現代の世界で、ヒトラーの独裁政治がなぜ可能になったのでしょう。
hint2:イギリスやフランスはヒトラーに何を期待していましたか。ドイツの国民はヒトラーの政権に何を期待しましたか。
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step3:ドイツと共に戦った米国とソ連はなぜ戦後対立するようになりましたか。
hint3:米国はなぜ、ソ連への武器輸出を禁止する必要があったのでしょう。また、米国のとってもソ連にとっても冷戦が都合がよい側面もありました。それは何だったでしょう。
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step4:冷戦が続くおかげで米国にはどのような政治的・経済的な利益がありましたか。
hint4::米国はなぜ世界で主導権を維持する必要があったのですか。
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step5:毛沢東はなぜ、中国で偉大な指導者としての地位を長年にわたり維持できたのでしょうか。
hint5:中国の大多数をしめた農民が毛沢東によって得たものは何ですか。ふたつあげなさい。
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step6:ソ連や米国のような超大国がその影響力を弱めることになった原因は何ですか。
hint6::政治の力で陣営内を抑えつけてきたソ連は政治の力に、経済の力を誇ってきた米国は経済の力に、それぞれ衰退の色をみせはじめました。ソ連や米国の影響力の衰退を象徴する事件をあげなさい。
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point1:恐怖と欠乏とは何をさしているか

フランクリン=ローズヴェルトの4つの自由のうち、恐怖からの自由とはファシズムに象徴される暴力による支配を指しています。欠乏からの自由の意味は、世界恐慌などがもたらした貧困がそれをもっとも象徴しています。貧困こそ戦争の原因となるという認識がそこにはあったはずです。この思想は国際連合の精神や運営によく反映されています。

point2:ミュンヘン会談の失敗

イギリスやフランスの首脳はヒトラーよりスターリンの力を恐れていましたから、相対的にはヒトラーを過小評価していたのかも知れません。また、ファシズムの恐ろしさをまだ認識していなかったのかもしれません。そうでなければ、ミュンヘン会談でヒトラーの要望をのむわけありません。ヒトラーの暴走は初期消火に失敗した火事のようにヨーロッパに燃え広がっていきました。

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