欧米の列強が東アジアに通商の拡大を求めてやって来るようになったのは、18世紀末からでした。東アジアがもっとも遅く世界市場に組み込まれることになったのは、欧米から最も遠い距離に位置していたためだけでなく、東アジアの世界が自を外に閉ざしてからでした。
しかし、その東アジアの国々が20世紀になって、もっとも早く工業化を進めました。それは、秩序や儀礼を重んじ、独特の文字文化を共有する東アジア文化圏の特質に関連があるのでしょうか。イスラーム・ヒンドウーのような強力な宗教がない東アジアだからこそ、外来文化の受容が容易だったのでしょうか。それとも、世界市場に組み込まれるのが遅れたからこそ、それによる文化的・社会的な破壊が深部にまで至らなかったからなのでしょうか。
この問いは、ヨーロッパ以外の地域で「近代」は可能だったのかという、根源的な問いにつながっています。
産業革命・フランス革命の頃のイギリスと清王朝とのやりとりがよく分かります。イギリスは通商の拡大を求めて、使節を繰り返し送っています。
「三跪九叩頭の礼」とは三回膝をついて三回ずつ合計九回頭を床に受けて、皇帝に礼をつくす中国式の作法です。つまり、中国は東アジアの伝統にのっとり朝貢貿易をイギリスに求めているのです。
しかし、アマーストはあくまでも対等のビジネスを要求しました。交渉は決裂します。イギリスはアヘンの密貿易に活路を求めました。
東インド会社は、イギリス側の輸入超過になっているイギリスと中国との貿易赤字を埋めるため、インドでアヘンを栽培・製造し、それを中国に運び、絹や陶磁器や茶の代金として支払った銀を回収したのです。
インドにはイギリス製の綿織物を輸出し、イギリス・インド・中国の間の貿易の収支を均衡させようしたのでした。悪名高き「三角貿易」の構図です。
禁止令を繰り返し出しても事態が改善されない以上、実力行使に出るしかなかった中国側の立場がよく年表から伝わって来ます。
この事態にイギリス側も実力行使に出ます。この時、さすがにイギリス議会では議論があったようで、アヘン戦争は僅差で反対票を押し切り、戦争になりました。
その結果の南京条約で、敗れた中国側は海禁を解き、開港したのでした。
同じ頃、李氏朝鮮にも通商を求めてイギリスの軍艦がやってきていました。
朝鮮ではこの問題はキリスト教の信仰に絡んで問題となりました。しかも、それが国内の政争の道具とされたために、問題の扱いが極端になってしまい、布教反対派はキリスト教徒の処刑を断行してしまいます。
この後も、開港の要求とキリスト教徒の迫害は続き、1860年代にはフランスがカトリック教徒の弾圧に抗議しています。
そんな中、朝鮮の港をこじ開けたのは、開港したばかりの日本でした。