18世紀末になり、欧米の通商要求が高まってきたことは、中国や朝鮮と事情は同じでした。
数学マニアの民間人だった伊能忠敬が、幕府に進言して初めて日本の海岸線の測量を実施して地図を作っています。何か、今の日本に通ずるものがあります。
幕府は、とりあえず「人道的観点」から、薪と水ぐらいはあげなさい、という対応でした。
19世紀になり、来航する外国船には砲撃せよ、とうことになりましたが、それもすぐに軌道修正されます。1842年ですから、中国のアヘン戦争の結末が影響しているのでしょう。
見るに見かねた唯一の通用相手国だったオランダの国王が、「開国するしかない。」と忠告してくれていますが、幕府はこれを拒絶しています。ペリー来航まで、あと9年です。
1850年代に入り、欧米の通商要求がいっそう強まり、幕府は開国に政策を転換します。
1858年に締結された通商条約には、その後の日本がその開始に大きなエネルギーを注ぐことになる、「治外法権の承認」と「関税自主権の放棄」が含まれていました。
実は、ペリーが来航し、強く開港を求めた後、幕府は朝廷にそのことを報告し、諸大名や幕臣からも意見を求めて、国を挙げてこの問題に取り組む姿勢を見せました。
しかし、このことで朝廷や諸大名の発言力が強まり、勅許得ないで幕府が通商条約を締結したことに対する怒りが高まることになったのでした。
こうして、開港の是非より、独断専行の幕府特に井伊大老に対する怒りが一人歩きする形で「尊皇攘夷」の声が燃え上がっていきました。公武合体という調停案もありましたが、幕府に対する感情的な怒りが事態を深刻にしていき、多くの血が流されることになりました。
「尊皇攘夷」の思想に時代に対する不満も加わり、特にそれが強かった下級武士らの過激な行動が各地で見られました。
一旦は朝廷に約束させられた「攘夷」をなかなか実行しない幕府に対するいらだちがつのり、薩摩や長州は独自に攘夷の行動に走ります。そのため、薩摩はイギリスと戦争をして破れ、長州は四国艦隊(英・仏・米・蘭)の砲撃を受けることになりました。
敗北した両藩は欧米列強の実力の前に「攘夷」の非現実性を思い知らされます。時代は「尊皇攘夷」から「倒幕」へと動いていきました。
坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟らの働きもあり、内乱を避けることができた日本は、欧米の干渉を廃して、江戸幕府から明治政府へと権力を移すことができました。
新しく成立した明治政府は、薩長中心の官僚主導により「富国強兵」と「殖産興業」をめざし、「国民国家」と「市場経済」という近代社会の理念には多くの関心を示しませんでした。