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1800〜1870:12

(48) フロンティアの消滅と
南北戦争

南北戦争は米国史の大きな節目となった。
  1. 未開拓地が消滅して、農業立国論の勢いがなくなった。
  2. 工業立国論はパックス・アメリカーナへの道。
  3. 南北戦争は路線転換の戦いだった。

再燃する対立

1849年、カリフォルニアでおきたゴールドラッシュは、フロンティアの消滅を意味していました。未開拓地を先住民から奪うことで成り立ってきた「大陸国家論」=「農業立国論」はその根拠を失い、改めて「海洋国家論」=「工業立国論」が再浮上します。

奴隷制問題

この対立に絡んで出てきたのが奴隷制問題でした。18世紀末よりヨーロッパでは奴隷制が批判の対象となり、1848年革命では奴隷制が法的も廃止されていました。

しかし、米国では綿繰り機(綿花から種を取り除く機械)が発明されて以来、奴隷労働による綿花栽培が南部を中心に米国の主要産業となっていたのです。

人種差別問題と絡んで、国のあり方をめぐる対立が再燃し、議論は深刻さを増していきました。

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東部と南部と西部

西部で新しい州が誕生するたびに、奴隷制をめぐる対立が高まっていました。州ごとに奴隷制の是非を決めることになっていたのです。1820年にミズーリー協定、1854年にカンザス・ネブラスカ協定と対立を調停するルールが作られましたが、それが収まることはありませんでした。

工業立国を目指す東部は自由な市場を求めて奴隷制に反対し、西部との経済的な結びつきを強めようとしていましたが、それは農業立国を目指す南部の孤立を意味していました。

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連邦派と反連邦派

米国では独立後、合衆国憲法の制定をめぐって対立がありました。合衆国憲法を制定し中央集権国家の下に連邦国家としてのまとまりを追求しようとした連邦派と、各州の独立性を重視した反連邦派です。

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ジャクソンと民主党

反連邦派のジャファーソンは「農業立国論」に立脚し、民主党へとつながっていきました。それは、ジャクソン大統領時代に、普通選挙制度を背景とするアメリカ民主主義の潮流となって、西部や南部に勢力を拡大しました。ですから、民主党が自由貿易論・奴隷制度を支持する南部の大農場種の意見を代弁するのは自然な流れでした。

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リンカンと共和党

これに対抗し、共和党は奴隷制廃止論を軸に結集した人々によって組織されました。中心人物はリンカンでした。共和党は工業立国をめざす東部(北部)での支持を基盤に保護貿易政策を主張し、綿花やタバコの輸出で優位な立場にあった南部を背景とする民主党は自由貿易を主張して対立しました。

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南北戦争

1860年、リンカンが大統領になると、南部は1861年に連邦からの離脱を宣言して、アメリカ連合国を結成しました。ここに対立は決定的になり南北戦争が始まりました。

リンカンは1862年、農民に農地を保障するホームステッド法を制定し、西部の農民の支持を取り付け、国際的な支持と奴隷の放棄を期待して奴隷解放宣言を発表しました。

こうして、北部は政治的にも軍事的にも追いつめられ、1865年に降伏しました。

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大陸横断鉄道

建国以来の対立は、「工業立国論」派が勝利し、米国の近代化が本格的に始まりました。1869年には大陸横断鉄道が開通し、経済成長する米国にはヨーロッパやアジアから多くの移民が流入し、米国は多民族国家としてその性格を急速に変えていくことになりました。

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