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1800〜1870:11

(47) ヨーロッパとアメリカ大陸

いろいろな思惑がラテンアメリカ諸国の独立を助けた。
  1. フランス革命とフランス領ハイチの独立。
  2. 先住民の怒りとその反乱への恐怖
  3. イギリスのアメリカ大陸への経済進出。
  4. 米国のフロンティアへの期待。

植民地時代のラテン・アメリカ

先住民とは別に白人のみの社会を作って、先住民を排除していったアングロ・サクソン系の北米とは異なり、スペイン・ポルトトガルを主体とするラテン・アメリカでは、白人と先住民とアフリカ系の人々とが混じり合って、独特の社会が形成されました。

アメリカ大陸で生まれ育った白人(クリオーリョ)による先住民支配を基本としながら、さらにクリオーリョと先住民との混血(メスティーソ)とアフリカ系移住民の子孫が最下層を形成していました。こうしたアメリカ大陸の社会に覆い被さるようにスペイン系白人(ペニンスーラ)が支配していましたから、クリオーリョの間にも先住民の間にもそれぞれ不満が募っていきました。

中南米諸国の独立

1804年、ハイチでアフリカ系奴隷が中心となってフランスからの独立が達成されました。フランス革命の影響もあり、これは他の地域での独立の機運を高めていきました。

ナポレオン軍の侵略により混乱する本国の隙をついて、1810年から1820年代にかけて、スペインの植民地では続々と独立が続きます。本国も革命が急進化することをおそれて、クリオーリョたちの独立を最終的には容認することになりました。

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寡頭支配体制

大西洋の制海権を握るイギリスは、ヨーロッパ諸国の影響力がアメリカ大陸で強まることには警戒していましたから、独立を容認し、独立後はラテン・アメリカ諸国での市場拡大に努めました。

その結果、独立後のラテン・アメリカは本国の影響を廃した共和制の下、先住民を隷属的に使って輸出用の作物を栽培する大農場制が発展し、クリオーリョたちの寡頭支配体制が続きました。

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モンロー宣言

ヨーロッパ諸国は、ラテン・アメリカの国々に君主制を押しつけて、ウィーン体制の秩序のなかに置こうと干渉しました。それに対して、米国のモンロー大統領は1823年に「モンロー宣言」を発表して対抗しました。

しかし、大西洋を隔てた西半球のことに、ヨーロッパの干渉を拒絶したこの宣言を、実力で守り抜くほどの力は、19世紀始めの米国にはありませんでした。ヨーロッパ諸国がラテン・アメリカへ進出することを実力で阻止できたのは大西洋の制海権を握るイギリスでした。イギリスの意図を知り抜いていた米国はそれを利用して、ヨーロッパの国際社会へ自国の立場を表明したに過ぎませんでした。

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米国の孤立主義

しかし、この「モンロー宣言」は、米国が国際社会で孤立主義の立場をとりながら、アメリカ・太平洋へと進出していく根拠となっていきました。

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