イギリスで綿織物工場が建つと、インドの農民が餓死し、アフリカ人がアメリカに奴隷として売られるという関係が19世紀に入りいよいよ本格化していました。機械織りの安い英国製の綿布がインドに輸出され、伝統産業だったインドの綿織物産業は衰退します。イギリスはアフリカ人を米国南部の農場で奴隷として働かせ、安い綿花を作らせていたのです。
アフリカの海岸部は古くから西アジアや地中海の歴史の舞台となってきました。東海岸にはインド商人やムスリム商人が商いをしていました。南端はポルトガル・オランダ・イギリスのアジア進出の中継拠点となっていました。サハラ砂漠を越えてムスリムがやってきていた西アフリカの海岸は近代に入ると奴隷貿易で栄えていました。
しかし、赤道直下の中央アフリカだけは猛獣やマラリアなどの風土病によって外部からの侵入を長く拒んできました。しかし、19世紀後半になり、事態は変わり始めました。
イギリスから医療伝道師として南アフリカに派遣されたリビングストンは探検に熱中するようになり、イギリス社交界の著名人となります。ナイル川の源流探検中に行方不明になり、派遣されたニューヨーク・ヘラルド社の記者スタンリーによってタンガニーカ湖で1871年に発見されました。
今度はスタンリーがコンゴ川の源流探検にとりつかれます。インド洋から入り、大西洋側へコンゴ川をたどったスタンリーにベルギー国王レオポツド2世が注目しました。国王はスタンレーにコンゴ奥地の探検をさせ、その所有権を現地の首長から獲得しました。これに対抗してポルトガルやイギリスはコンゴ川河口を占領し、国際紛争に発展しました。
ビスマルクはコンゴ問題の調停のために、1884年、主要14カ国を集めベルリンで会議を開きました。結果としてコンゴはベルギー国王個人の所有地として認められました。さらに、アフリカにおける植民地化のルールも取り決められ、アフリカの領有は「早い者が勝ち」の状態になっていきました。