欧米の列強にとって東南アジアは、香料貿易が衰退した後も、中国への通り道や進出の拠点として、重要な地域であり続けていました。
特にインドがアジア進出の重要な拠点になりつつあったイギリスにとって、中国への通り道である東南アジアは、生命線でもありました。オランダからシンガポールを獲得すると、1826年には海峡植民地を形成して、この地域の支配体制を固めました。
19世紀後半になると、欧米列強は積極的に東南アジアへの進出を始めました。
国民の支持を得るために積極的な外交政策を展開していたナポレオン3世はベトナム南部を直轄地にし、さらに残る阮朝を保護国にしました。
次いで、カンボジア・ラオスも統合して仏領インドシナを形成していくことになります。オランダもインドネシア全域をオランダ領東インドに統合していきました。
欧米の列強にとって東南アジアは一次産品の重要な供給地でしたが、遠方のため、東アジア・南アジアを巻き込んだ形でアジア経済圏を形成し、シンガポールをその拠点にしました。
東・南アジアからは日用雑貨を、東南アジアの大陸部からは米などの食料を供給し、東南アジア島嶼部からはコーヒー・さとうきび・藍・ゴムなどの一次産品を供給させました。そのため、この地域では輸出に依存したモノカルチャー化が進みました。
欧米の東南アジア経営には、不足する労働力の補充として、中国やインド・日本などの移民や出稼ぎ労働者が利用され、印僑や華僑の影響力が強まり、人口構成も大きく変化しました。また、フランスはラオス・カンボジアの統治に必要な下級官吏としてヴェトナム人を用いたため、後にこの地域での対立の原因になりました。
開発の困難な内陸地域は放置されましたので、地域間格差も多く残すことになりました。