この時代のアラブ人の動きとして注目されるのは、アラビア半島で起こったムワッヒード王国の動きです。この地域での主導権を狙ったサウード家はイスラームの原点に返ることを説いたアブド・アルワッハーブ派(18世紀)の活動と合流して、一時アラビア半島に建国しますが、エジプトのムハンマド・アリーによって滅ぼされます。
しかし、20世紀になりリヤドを奪回し、サウジアラビア王国を建国することになります。
イランは19世紀、カジャール朝の時代にロシア(1828年)、イギリス(1857年)との戦いで敗北し、領土の一部を失い、不平等条約を次々に締結し、外国からの借款を続けるようになっていきます。
これに反発した新興のバーブ教徒は危機感をつのらせ、1857年各地で武装蜂起して政府と戦いますが、厳しい弾圧を受けて多くの犠牲者を出した末、運動は衰退しました。19世紀後半には、イギリスのタバコ強制栽培に反対するタバコ・ボイコット運動が起き、20世紀のイラン立憲革命につながっていきました。
最盛期を過ぎたムガール帝国は18世紀に入ると、各地方は分立するようになりました。オランダ・フランスを抑えてインドでの主導権を確立したイギリスの東インド会社はこれらの地方を着々と支配下に入れていきました。イギリスの徴税システムによって、インド特有の地域社会の伝統も破壊され、伝統産業の綿織物すらイギリス製品を輸入するようになりました。
1857年、インド人傭兵シパーヒーの反乱から始まったインドの大反乱は、イギリス軍に鎮圧され、ムガール帝国は滅亡します。それまで、インド経営の最先端にたってきた東インド会社もこれを機に廃止され、1877年には、イギリス女王ヴィクトリアを国王として、インド帝国が成立しました。
イギリスはインド人エリートを英国に留学させ、親英派の育成に努めましたが、彼らの多くはやがて、インド国民会議を結成し、反英闘争の先頭に立つようになりました。
インド人としてのまとまりを体験したことのないインドでは、ムスリムとヒンドウー教徒の対立や、伝統的な社会差別の仕組みを巧みに利用したイギリスの支配は第二次世界大戦終了まで続いていくことになりました。