19世紀のオスマン帝国の衰退の歴史の中で、世界史的事件として注目すべきは、クリミア戦争(1853−56年)です。イギリス・フランス・サルディニア・オスマン帝国の四カ国とロシアの間で戦われたこの戦争は、次の四つの点で重要です。
戦争はおおよそ次の経緯をたどりました。19世紀前半、ロシアがバルカン半島・地中海へと勢力を伸ばしてきたことに危機感を抱いたフランスのナポレオン三世は国内のカトリック勢力の歓心を買うため、聖地エルサレムにおけるカトリック教徒の特権をトルコに認めさせようとしました。
帝国内のギリシア正教徒の保護者を自任していたロシア皇帝ニコライ1世は、対抗してギリシア正教徒の権利の回復を要求しますが、オスマン帝国はこれを拒否し、これに憤慨したロシアはバルカン半島に軍隊を送りました。オスマン帝国もイギリスとフランスの支援をうけて同年10月にロシアに宣戦布告しました。この戦争でロシアの南下政策は挫折しました。
工業化の遅れがクリミア戦争での敗北と考えたアレクサンドル2世は自由主義的な改革に取り組み、1861年には農奴解放令を出しました。
しかし、それで自分の土地を持つことができた農民はわずかで、自由化政策も大きく進展せず、農民の生活はますます困窮しました。農民達も独立した自営農民になるより、伝統的な農村共同体(ミール)と一体となった生活を選びました。
ロシアの近代史は、後進性が強く残る社会での近代化の難しさが如実に表れています。やがてそれは社会主義革命へと進んでいきました。
ロシアの後進性を克服するために、農村共同体を基盤にしながら農民を啓蒙しようと考えた知識人もいました。「ヴィ・ナロード(人民のなかへ)」を合い言葉に活動した彼らはナロードニキと呼ばれました。
しかし、農民は政治には無関心で、彼らの運動も進展せず、彼らは政府によって弾圧されました。挫折したナロードニキの中には、テロリズムに走る者もおり、要人の暗殺が続き、1881年にアレクサンドル2世も暗殺されました。
行き詰まり感が強まる時代の中で、ロシアではユダヤ人への迫害が強まっていきました。
1881年、激しいユダヤ人迫害(ポグロム)が起きます。多くのユダヤ人が西ヨーロッパやアメリカへ移住しました。そのような中、「シオンへの愛」の運動が生まれました。シオンとはエルサレムを指します。彼らは小集団でパレスティナへ移住し、そこにユダヤ人入植地を建設しようと考えていました。
この運動はやがてシオニズムとして大きなうねりとなって展開し、イギリスの支持も得て第一次世界世界大戦以後に現実の動きとなっていきました。
ロシア南部での経済発展を背景に、再びロシアはバルカン半島への進出を図りました。バルカン半島各地で民族蜂起がおき、1877年、ロシアはスラブ民族の保護を口実にトルコに宣戦しました。
この露土戦争に勝ったロシアは、サン・ステファノ条約(1878)により、バルカン半島での影響力を高めました。これに脅威を感じた列強は、1878年にベルリン会議を開き、ロシアの影響力を制限しようとしました。
その結果、ブルガリアは半独立の自治国に、モンテネグロ・セルビア・ルーマニアは独立国に、ボスニア・ヘルツェゴビナ地方はオスマン帝国の名目上の主権を残したままオーストリア・ハンガリーの占領・行政下に置かれることになりました。
領土を大きく失ったオスマン帝国はその後も、フランスにチュニジア(1881)、イギリスにエジプト(1882)を奪われ、解体寸前に追い込まれていきました。