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1800〜1870:5

(41) オスマン帝国と東方問題

大英帝国とロシア帝国。海軍と陸軍。先進国と遅れた国。対照的な両国がアジア各地で対立していた。
  1. 地中海の制海権は両国の存亡を懸けるテーマ。
  2. オスマン帝国の動向がその鍵を握っていた。

ヨーロッパとオスマン帝国

「地震・雷・火事・親父」日本人の怖いもの。ヨーロッパ人にとっては「狼・ペスト・トルコ人」です。トルコとはオスマン帝国のことです。バルカン半島から一時はウィーンまで占領した異教徒のトルコ人です。

皇帝を出し続けてきたオーストリアはこのオスマン帝国に数世紀にわたって東から脅かされていました。そして、17世紀、第二回目のウィーン包囲を跳ね返し、1699年のカルロビツ条約でハンガリーの大半をオスマン帝国から奪うと、立場は逆転し、劣勢に回ったオスマン帝国はバルカン半島から後退を始め、東方問題が始まりました。

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東方問題とロシア

同じスラブ人が多く住むバルカン半島の情勢にはロシアも無関心ではいられませんでした。ギリシア正教の盟主としての立場もさることながら、ロシアには黒海からボスポラス・ダーダネスの両海峡を通って地中海に通じる通行権が最大の関心事でした。

不凍港を求めるロシアの南下政策はピョートル1世・エカチェリーナ2世と18世紀以来続き、19世紀のこの地域の歴史はロシアのこの宿願が縦糸となって展開しました。

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東方問題とフランス

このロシアの野心を何かにつけて妨害するのがイギリスとフランスです。

フランスとオスマン帝国は宗教改革の時代は同じオーストリアの敵国として親密な関係にありました。フランスの宮廷にコーヒーを飲む習慣を伝えたのもオスマン帝国です。

そのオスマン帝国の支配地エジプトに軍隊を派遣したのがフランスです。この時から両国は微妙な関係になっていきました。フランスのレセップス親子がスエズ運河の建設を始めたのもそれがきっかけでした。

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東方問題とイギリス

インドへの通路をフランスやロシアが邪魔することは避けたいイギリスはこの地域のことに無関心ではいられません。ナポレオンを破ったのもイギリスの海軍でしたし、ロシアの南下策をつねに邪魔するのもイギリスでした。

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バルカン半島の諸民族

長い間、オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島の諸民族は、ヨーロッパの政治状況に敏感でした。フランス革命の影響もあり、民族意識が強まったギリシアでは1821年に独立への機運が高まり、それは独立戦争を経て、翌年ギリシアの独立は達成されました。この時もイギリス・フランス・ロシアはギリシアの独立を支持しました。

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東方問題とエジプト

1830年代には、オスマン帝国からエジプトに派遣されていたムハマド・アリーが実権を握り、オスマン帝国との戦争を経て、独立が認められました。エジプトの強大化を恐れたイギリスは積極的に介入し、エジプトとの関係を強めていきました。

まず、オスマン帝国にならい不平等条約が結ばれます。次に、資金を借り入れ近代化を進めます。1860年代の南北戦争中は綿花の価格も高騰し経済的に潤いますが、南北戦争が終わると綿花の価格が暴落し、借財はかさんでいきました。経済的な従属はやがて政治的な従属へと発展し、エジプトはイギリスの保護国になっていきました。

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タンジマート

諸民族の独立運動、ヨーロッパ諸国の侵略、地方勢力の伸張など危機的な状況に追いやられていたオスマン帝国のスルタンは、1839年に近代化に着手します。

ムスリム・非ムスリム問わずに、全臣民の法の前における平等と全臣民の生命・名誉・財産の保障、裁判の公開、徴税・徴兵の制度改革などが約束され、改革によって諸制度は西欧化され、帝国は神権的なイスラム国家から法治主義的な近代国家へと変貌しました。しかし、これは地方では徹底されませんでした。

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末期のオスマン帝国

1838年にイギリスとの通商条約締結後、競争力の弱い帝国内の産業は衰退し、累積した借金は帝国財政を破綻させました。恩恵改革を意味するタンジマートによる改革の動きは後退し、国政は逆に専制化します。それに反発する人びとのなかから、新たな改革勢力が育っていきました。

経済的発展、地方勢力の台頭、支配の弱体化、外国の支援・介入、不平等条約、近代化、資金の借り入れ、財政難、近代化の失敗、統治能力の喪失。19世紀のオスマン帝国がたどった衰退の道を、アジアの諸帝国も同じように歩みました。

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