1848年、産業革命が進展していたフランスでは、実業家も労働者も力は強くなっていましたから、彼らの動きが中心となって時代は進んでいきました。まず、選挙権の拡大を要求する運動が起きました。政府はこれを弾圧します。2月、不況で生活に苦しんでいた民衆も加わり、パリでは市街戦が始まりました。こうなれば市民側が優勢です。
フランスでの動きは、できたばかりの電信でヨーロッパ中に伝わり、オーストリア・ドイツ・イタリアでも3月には蜂起が始まりました。
フランスでは、国王など保守派は逃亡し、新しく成立した政府には穏健派・急進派・社会主義派が混在しています。労働者の要求も取り入れられますが、状況は安定しません。労働者の権利を求める急進派と急激な変革を避けたい穏健派が対立しますが、4月の選挙で急進派が敗北し、6月には穏健派の反撃によって影響力を失います。
しかし、まだ勢力の弱い実業家は他からの支援がなければ、主導権をとることができません。ここからが国によって展開が異なりました。統一問題をかかえたドイツ・イタリア、民族問題があるオーストリア・ハンガリー・ポーランドなどの国々で様々な動きがありました。
1848年に成立した憲法では普通選挙制と大統領制が導入されました。そして、ナポレオンの甥のナポレオン3世が大統領に選ばれました。
農民の力も強く、資本家の影響力もまだ弱いフランスにおいて、安定した政治基盤を求めることはできないナポレオン3世は、「人気取り政策」によって政権の延命を図りました。
パリの大改造、イギリスに対抗した産業育成策、戦争による植民地獲得など積極的に政策を展開していきました。
ボナパルティズムと呼ばれる彼の政策も初めは国民の支持を得ますが、後半は外交につまずくと国内で妥協し、人気挽回を図った外交でさらに失敗する悪循環に陥っていきます。
1871年、ナポレオン3世がドイツに敗北するまで、彼の派手な外交がヨーロッパの国際政治を動かしていくことになりました。
ウィーンでもベルリンでも蜂起しました。ここでも、初期は急進派が主導権をとりますが、6月には穏健派・保守派に形成が傾き、普通選挙制や国民主権の憲法が成立することはなく、オーストリアもプロシセンも王政が続いていくことになりました。
オーストリアの支配下にあるハンガリー・チェコ・北部イタリアでも急進派やオーストリアからの独立を独立を求める人びとが立ちあがりましたが、オーストリア軍によって鎮圧されました。
ウィーンとベルリンの蜂起は自由をめぐって戦われましたが、フランクフルトではドイツ各領邦国家から代表が集まりドイツの統一について話し合われました。
ドイツ人が多く住むオーストリア・プロシセン・領邦諸国の統一を目指す「大ドイツ主義」はオーストリアにより拒絶され、オーストリアをはずした統一を目指す「小ドイツ主義」はプロセンが拒否し、このフランクフルト国民議会の動きも成果をあげることはできませんでした。