ウィーン会議以後、ヨーロッパの政治は、ヨーロッパにキリスト教の理念にもとづく秩序を回復しようする四国同盟(後にフランスも入れた五国に)に沿って動いていきました。革命を疑われる動きは警戒され、手紙や出版物は検閲され、要注意人物は逮捕されました。フランスにもブルボン家が復活して、革命に対する報復の嵐が吹き荒れました。
しかし、四半世紀にわたって続いたフランス革命の記憶を消し去ることはできませんでした。フランス革命の知らせにを耳にして、「いつか自分たちの国でも。」と想いを抱いた人びとには時代への不満が募っていきました。
復古的な時代に反発して自由を求める人、遅れた自国の現状への不満から改革を語る学生や若い将校、分裂状態が続くドイツやイタリアでは人びとは統一への熱い思いを募らせ、ポーランドやハンガリーなど他民族の支配にある人びとは独立の戦いへと歩み始めていました。
イギリスは、キリスト教的理念より経済的な利害が優先されていましたから、ウィーン体制には積極的ではありませんでした。革命で混乱するスペインから独立しようとする中南米の動きには、むしろ賛成でした。革命の間に経済進出していた中南米でのビジネスを優先しました。
産業革命の進展によって台頭してきた実業家達が1832年には選挙権を獲得しました。これまでイギリスの議会では地主階級の利害が優先され、国教会信徒以外は公職から追放され、カトリックは禁止されていました。安い穀物の輸入を禁ずる穀物法、東インド会社に認められた様々な特権。これら18世紀から続いてきた法律も次々と改廃されました。
イギリスがまず、ウィーン体制から離脱していきました。
フランス革命、ナポレオン戦争、ウィーン体制とヨーロッパが革命と反革命の争乱の中にある時、イギリスの産業革命がいかに猛スピードで進展していたかが次のデーターから分かります。
その生産物がヨーロッパやインドやアメリカ大陸に降りそそいでいたわけですから、ヨーロッパの実業家達はたまりません。イギリスに対抗して、一時も早く自国の産業を振興させようと思うのは当然です。実際、歴史はそう進んで行きました。
イギリスに遅れて、産業革命が始まったのはフランスとベルギーでしたが、ウィーン体制の下、政治は古い時代へと戻ろうとしていました。
1816年以降、ルイ18世の下、フランスでは地主、大資産家、亡命貴族,カトリック聖職者に支持された立憲王政が続き、1824年、シャルル10世が後継すると、言論弾圧・教権拡大・亡命貴族の賠償保障などの反動政策を推し進めました。これに対抗して、自由主義的な有産市民は選挙法改正運動を展開し、国王との対立は激化していきました。
1825年のイギリスではじまった経済危機がフランスにも波及し,農民や労働者の生活が厳しくなりました。1830年、自由主義者と共和派らは結集し、議会は内閣の不信任を議決しましたが、解散させられます。
再び反政府派が選挙で勝利すると,国王は勅令を出し、運動の発展を抑えようとしました。対立は市街戦へと発展し、蜂起した民衆の勝利に終わりました。しかし、民衆が望んでいた共和政は実現せず、成立したのは自由主義者ルイ・フィリップを王とする体制でした。
フランスでは革命は中途半端に終わりましたが、ウィーン体制でオランダの支配下に入れられていたベルギーでは独立が達成されました。
ウィーン体制後もドイツは領邦国家に分裂したままでした。国ごとに関税・通貨・度量衡の単位が異なっているような状態では産業の発展は望めません。そこで、1818年からプロイセンが中心となって、分立する領邦国家と個別に関税同盟をつくりあげていきました。1834年には18ヵ国、人口2300万のドイツ関税同盟が成立していました。この後も、プロイセンの外交努力によりこれは拡大し、プロイセン中心のドイツ統一へとつながっていきました。
ウィーン体制を崩壊させるエネルギーは工場の中でも蓄積されつつありました。
1830・40年代の一日の労働時間は男子が17から18時間、婦人・子供が14から15時間ほどでした。賃金も少なく、食事の時間とカロリー不足を補うため薄い紅茶に砂糖を入れて飲むことが流行したほど労働者の生活は貧しく、労働は過酷でした。
奴隷は自由が認められていませんでしたが、仕事も食料も与えられました。しかし、労働者は仕事が見つかれば、自分の意志で契約し自分で生活しなければなりません。働くのも自由、死ぬのも自由というというのが資本主義社会の原則です。
初めは仕事を奪われた職人達が工場を襲い機械を壊す運動が盛んになりましたが、産業革命の進展にともない、労働時間の短縮や待遇の改善を求める労働者の要求も強くなっていきました。
過酷な労働のためイギリスの児童の体格がフランスの児童と比較して著しく劣っていることが統計資料で判明すると、これが議会でも問題となり、綿紡績業での児童の労働時間を一日12時間に制限する法律が1802年に制定されました。プロイセンでは1839年、フランスでは1841年にそれぞれ労働法が制定されました。
石炭の排気ガスによる大気汚染や河川の水質汚濁など環境破壊が進み、都市の衛生状態も劣悪になるとともに、家庭崩壊や犯罪など社会問題も深刻になっていきました。やがて、これらは産業革命によってもたらされた構造的な現象であるという認識も広まり、資本主義社会のあり方を批判する人々が現れてきました。