市民革命には基本となるパターンがあります。
国王・貴族・僧侶など特権を守ろうとする勢力を実業家、労働者・市民、農民が団結して倒す第一段階。
自由と財産権を優先する実業家と平等・生活の安定を求める労働者・市民が新しい国のあり方をめぐって戦う第二段階。ここで農民がどちらの側に付くかで、実業家が勝つか労働者・市民が勝つか決まります。フランス革命では内外の危機に迫られ、農民は一旦は労働者側に付くのですが、危機が去り安定すると、実業家の側に周りました。
しかし、ロシアのように実業家が弱く農民が貧しい国では農民は労働者側に付き、社会主義革命に発展することもあります。これが第三段階です。
フランス革命では農民が革命の安定を求め、実業家の側に付きました。経済活動の自由・財産権の保障が新しい社会の仕組みの基本とされました。
しかし、フランスを囲む国々は革命自体を認めようとはしませんでした。何とか、革命政府を倒し、国王や貴族を復権させ、革命以前のフランスに戻そうとしました。そうしなければ、自分の国で革命が起きかねなかったのです。
一旦はジャコバン派の協力者としてピンチに立ったナポレオンでしたが、新しい事態に適応し、軍人としての才能を発揮し始めました。
プロイセンとオーストリアと交戦中だったフランスはナポレオンをイタリアに迂回させ、南からオーストリアをゆさぶる作戦でしたが、ナポレオンはアルプス越えの奇襲作戦でイタリアの主要部を制圧して凱旋します。この功績でナポレオンは「救国の英雄」になっていきました。
イタリアでの成功に気をよくしたナポレオンは、インドへの道を絶ってイギリスにプレッシャーを与えようとエジプト遠征を決行しますが、イギリス海軍に敗北を喫し、ピンチに陥ります。
フランス本国でも戦況は深刻になっており、ナポレオンはエジプトのフランス軍をそのままにしてフランスへ帰り、クーデターをおこし、政権を奪い、統領(執政)政府を樹立しました。1799年のブリュメール18日のクーデタのことです。
フランス銀行設立、司法・行政・教育制度の改革、ローマ教皇・イギリスとの和解など内外の問題を解決し、1804年にはナポレオン法典を発布して、フランス革命の総仕上げをしました。
1804年、皇帝なったナポレオンは、イギリス上陸を試みますが失敗します。そこで、ヨーロッパ大陸を征服して、イギリスに対抗しようとします。
連勝し続けるナポレオンは征服地の元首に親族をすえ、ヨーロッパはナポレオン帝国の様相を帯びていきました。
1806年に発令した大陸封鎖令にポルトガルが従わないため、イベリア半島を占領したナポレオン軍はスペインの民衆の抵抗にあいます。ロシアにも遠征しますが、目的を達することはできず、ドイツがナポレオンの支配に対して独立戦争を開始し、ナポレオンは敗北します。
フランス革命の理念を征服地に広めたナポレオンは、その事で目覚めた民衆の抵抗にあい、最後は惨めな敗北が待っていました。
ナポレオンの戦略に貫かれているのは、フランスの産業を育てるために、イギリス製品を大陸から締め出す作戦でした。各国も自国の輸出を制限してまで、ナポレオンのフランス優遇策に付き合うはずはありませんでした。
ナポレオンを倒したのはロシアの皇帝でもなくプロイセン・オーストリアの国でもありませんでした。大陸封鎖令によりイギリスとの貿易が止まり、インフレが起き、穀物の輸出ができなくなった人びとであり、何と言ってもフランス革命により新しい時代の到来に喚起した人びとでした。
しかし、各国の君主達は、混乱に乗じて自国の領土を少しでも増やそうとする野心と時代をフランス革命以前に戻そうとする思いで、ウィーンに集まってきました。
腹の探り合いで結着はなかなか付きませんでしたが、勢力均衡と大国優先の原則が最後には通り、領土の再配分は終わりました。