各地域、同時代並行の世界史
世界史・納得のツボ(近代編)
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1650年〜1800年:8

(35) イギリスの新しい機運

近代社会への動きは、いち早くへ踏み題したこの時代のイギリスでおきていた。
  1. この時点で、国のことは何でも議会で決められたのはイギリスだけ。
  2. この自由さがイギリスの国力の下になっていた。
  3. 「何でも自分たちで考え、決めていいんだ。」この自由な精神の力。

科学革命

近代ヨーロッパの合理主義的自然観が確立していく過程での主要な業績を並べると、次のようになります。

  1. 1543:コペルニクスの地動説
           「天球の回転について」 
  2. 1590:ガリレオが落体や運動
           について研究
  3. 1637:デカルトの「方法序説」
  4. 1687:ニュートンの
           「プリンキピア」発刊

宗教改革の時代と並行して、これらの業績が世に発表されていきました。自然界は、人の目には見えない普遍の原理原則が貫いていることを、確信を込めて世に問うたこれらの人に共通するのは、方法が間違っていなければ、結論は正しいはずだ、という確信でした。この確信はどこから生まれていたのでしょうか。そして、この確信が自然科学以外の分野でも有効なのでしょうか。私たちはその検証を歴史の中で続けましょう。

啓蒙思想と社会契約論

17世紀の「科学革命」が論理的にも精緻な完成度の高い業績であったのに対して、18世紀の「啓蒙思想」はサロン的でジャーナリスティックな雰囲気を漂わせていて、両者を同列に並べて論じられませんが、この「啓蒙思想」という言葉には時代の雰囲気がたっぷりとしみこんでいそうです。いくつか列挙してみます。

世界中に散っていったイエズス会の宣教師達がパリの本部に莫大な報告書を寄せてきていました。荒唐無稽な世界観しか持たなかったヨーロッパ人は世界の広さと多様さをそこから知ると同時に、ヨーロッパも世界の中の一つの世界にすぎないことni 気づいていきました。この素朴で新鮮な驚きを人びとと共有しようとする息吹がこの言葉に感じられます。

自然科学の分野で達成されている合理的なものの見方を、社会や人間の問題に向けてみたいという欲求も、啓蒙思想の潮流を生みました。社会や国家の起源を求める言説がここから生まれ、それはやがて、未だに残る封建社会や絶対王権の専横に対する批判へと結びついていきました。

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イギリス人の生活

17世紀の後半、この時代に入ってイギリス人の生活が急激に変わり始めました。アジアからは茶(紅茶)や綿織物がアメリカ大陸からは砂糖やタバコが入ってきました。また、植民地もイギリスの工業製品の市場となりましたから、盛んになった産業はイギリス人の新しい消費スタイルを経済的にも支えました。

おそらく貴族社会でも従来からブームというものは存在しましたが、その規模は限られていました。この時代のブームは庶民生活レヴェルでおきていましたから、それにたずさわった業者には大きな利益が入りました。こうしてブームが新しいブームをよび、イギリスの社会は急速に変貌していきました。

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産業革命

イギリス社会の変化の潮流の中で、産業革命がおきました。かねてより人気があったインドの綿織物(綿布)が一般家庭に普及し、イギリスの伝統産業の毛織物を圧迫し始めます。毛織物はイギリスの農場で育てられた羊毛が原料ですから、牧羊経営で利益を上げていた地主階級を追いつめます。

彼らは議会を動かし、インド綿の輸入を禁じました。綿布は禁じられましたが原料の綿糸の輸入は可能でした。さらに、北米より綿糸が入ってくるようになりましたから、それではイギリス国内で綿織物を生産しようという流れになりました。

急な需要に応えるため、織機(布)が改良されました。綿布の生産が高まると今度は綿糸が不足し、紡績機(糸)の改良が進みました。やがて、動力に蒸気機関が導入され、工場の風景は一変しました。

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技術革新から社会革命へ

単なる技術革新だけの話なら、「綿布の生産が間に合ってよかってね。めでたし、めでたし。」で終わりです。しかし、これが世界史の一時代を画するような大変動をもたらすことになりました。なぜでしょう。ポイントはここにあります。

品不足の人気商品である綿布を、北米の「奴隷労働」でできた安い綿花を原料に、英国内の機械化された工場で生産すれば、莫大な利益が見込めます。当然、競争相手が現れて激しい値引き競争が始まります。工場・仕入れ・労賃が次々に合理化されて、綿織物業をめぐる環境は整備されていきます。

工場があるマンチェスターから、港町リバプールまで鉄道が引かれ、蒸気機関の石炭や綿などの原料が運び込まれ、製品は国内外へと送り出されていきました。綿布の漂白・染色、製鉄、機械などの工場も次々と建ててられ、町には仕事を求めて労働者があふれました。労働力を売らなければ生活できない人々が大量に発生していきました。

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神の見えざる手

1764年、産業革命が始まった頃、スコットランドの学者アダム・スミスがスイスやフランスを旅し、百科全書派の学者と各地で出会いました。そこから重要なヒントを得たスミスは、旅の途中から経済の仕組みについて書き始めます。

スミスは、商品の価格が市場をとおして調整され、競争の原理によって生産量や消費量が決定される仕組みを分析しました。彼は、市場における競争の自動調整作用を「神の見えざる手」と称して、資本主義社会のメカニズムを解明しました。

後に、「古典経済学の父」と彼を呼ばせることになった「国富論」はアメリカ合衆国の独立宣言と同じ1776年に発刊されました。

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イギリスの一人勝ち 

ヨーロッパの列強を巻き込んで、七年戦争が戦われていた頃、インドではイギリスはプラッシーの戦いでフランスをインドから追いだし、北米大陸ではフレンチ・インディアン戦争に勝利したイギリスはフランスから、ミシシッピー川より東の領土(ルイジアナ)を獲得していました。第二次百年戦争に「一人勝ち」状態でした。産業革命の社会変動はこのような時代を背景にしておきていました。

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アメリカの独立革命

エリザベス女王以来、イギリスの植民活動はその後も続き、18世紀には北米大陸の東岸の植民地が13になっていました。この植民地の人びとに対して、イギリス議会は、戦争の費用負担を求める決定をしました。

フランスから勝ち取ったルイジアナは植民地の人びとには立ち入り禁止になっていましたし、本国の議会へ代表を送ることも認められていませんでしたから、植民地の人びとの間には本国への不満が高まってきました。植民地側は税金の支払いを拒否し、武力衝突に発展していきました。

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国家は国際情勢で決まる

ヨーロッパ諸国の支援もあって、独立戦争は植民地側の勝利に終わり、イギリスは13植民地の独立を承認しました。この一連の出来事は、いろいろなことを示唆しているように思います。

まず、ヨーロッパ諸国はなぜ、アメリカの独立を支援したのでしょうか。植民地を持つ国が多かった思います。18世紀の一連の戦争に勝ち続けたイギリスへの反発です。つまり、アメリカの独立戦争の勝敗は当時のヨーロッパの国際情勢次第だったと言うことです。

「代表なくして、課税なし」と主張する植民地側に、イギリスがもし妥協していたら、独立はなかったかも知れません。つまり、「自分達のことは自分達で決めたい。」という自己決定権を貫いた結果、アメリカという国家が新しく生まれたと言うことです。

国家とは、国際情勢と人びとの意志によって形成される政治的な枠組みでしかない、ということです。

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