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(34) 1650年〜1800年:7

プロイセンとはどんな国

  1. プロイセンはカトリックの国ではない。
  2. ドイツ人がポーランドの一部を征服してできた国。
  3. 始めは飛び地でドイツから離れていたが、少しずつ領土を増やして、ドイツと地続きになった。

ドイツ騎士団領から
プロイセン公国へ

プロイセンとかドイツ騎士団領とか初めて出てくる名前ですから、少しさかのぼって見ておきます。このプロイセンはドイツを統一し、やがて第一次世界大戦でイギリスと戦うことになる国です。

プロイセンとはポーランドの北部、バルト海に面した地域に古くから住んだバルト語系の民族名に由来します。なかなかキリスト教に改宗しないプロイセン人を服属させるために、12世紀、ドイツ騎士団が派遣され、激しい戦闘の末に征服し終えます。以後、ドイツ人の入植が進み(東方植民)、ドイツとの関係も深まっていきました。

しかし、15世紀、ポーランドの支配下におかれますが、1511年、ホーエンツォレルン家’(ドイツの名家)からドイツ騎士修道会総長が選ばれると、ポーランド王から封土として授与され、プロイセン公国が成立しました。後継者に恵まれなかったため、1618年、ブランデンブルク選帝侯(ドイツの有力諸侯)がプロイセン公国を相続することになりました。

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プロイセン王国の成立

スペイン継承戦争の時、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は、オーストリアを支持するという交換条件で、皇帝からプロイセン公国を王国に昇格させる認可を獲得し、1701年にプロイセン王フリードリヒ1世となりました。

王国の中心はブランデンブルクでしたが、ブランデンブルク選帝侯は形式的には神聖ローマ皇帝の封臣でした。しかし、プロイセン公国は帝国の外部の国でしたから、ホーエンツォレルン家の「ブランデンブルク・プロイセン国家」はプロイセン王国と呼ばれるようになりました。皇帝の支配の外にあることを強調するためです。

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フリードリッヒ大王

フリードリヒ1世に続く二人の国王によって、プロイセン王国の基礎が形成されました。

2代目のフリードリヒ・ウィルヘルム1世(1713‐40)は、常備軍を増強し、財政機構・官僚組織を整備し、絶対王政を確立しました。後の「軍事・官僚国家」としてのプロイセンの基礎はこの時代に作られました。

3代目のフリードリヒ2世大王(在位1740‐86)は、オーストリアとの張り合いを乗り切り、プロイセンをヨーロッパ列強の一員にまで高めました。1772年の第1次ポーランド分割で領土を増やし、「上からの改革」により近代化を図りましたが、ユンカーと呼ばれた領主の力は強く、農民は農奴の状態のままで、彼らは貴族として、将校団や高級官僚となり、プロイセン王国をさせる一代勢力に留まり続けました。

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啓蒙専制君主と
ポーランド分割

オーストリアのヨーゼフ2世とプロイセンのフリードリヒ2世とロシアのエカチェリーナ2世。この三人に共通するのは「啓蒙専制君主」と呼ばれていることです。近代化が遅れた自国の国力を強めるために、国王自ら率先して「上からの近代化」を行いました。その改革の中には、農奴の身分の自由化・教育制度の導入なども含まれていました。

一方で、この三人は18世紀後半、ポーランドを分割して自国の領土に加えています。その経緯は省略しますが、近代化を進めながら隣国を侵略する、一見矛盾するこの三人の行動を理解するには、この時代の大きな流れに目を向けなければなりません。

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バルト海と黒海・地中海

西でイギリスとフランスが覇権を争っている頃、東ではロシアとプロイセンとオーストリアがバルト海と地中海への通路をめぐって覇権を争っていました。

バルト海をめぐっては、東西南北の順でロシア・プロイセン・ポーランド・スウェーデンが争い、スウェーデンは18世紀初頭の北方戦争で新興勢力のロシアに敗れて影響力を弱めていました。プロイセンとロシアは国力の充実を急いでいました。

黒海・地中海については、東西北の順でロシア・オーストリア・オスマン帝国が争い、18世紀以来、オスマン帝国はこの地域では力を失いつつありました。

貨幣経済の流入により農奴制が強化され、領主・貴族の力が強く残るヨーロッパ東部では、王権が揺らげば国内は直ちに貴族達の内紛が始まり、そこに外国からの干渉が入りこみます。この時代のポーランドがその典型でした。国力の充実を図る啓蒙専制君主たちのポーランド分割劇は歴史の大きな流れの中で演じられていたのです。


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