ロシアのピョートル(1世)大帝は時代も業績もその生涯もフランスのルイ14世とよく似ているように思います。幼くして位に就いたこと、親政を始めるや強大な国を目指し改革を続けたこと、貴族の影響力を排して国王に権力を集中させたこと、覇権を争い戦争を続けたこと。そして、二人とも自分の国をヨーロッパの大国にしました。
後に列強と称せられる国は、17世紀から18世紀にかけて、国の命運をかけて国作りに懸命になっていたことが、この二人の君主から分かります。
ヒトラーのドイツ帝国はこの二つの国が基礎になっています。両国とも、スラブ人やアジア系の遊牧民(アヴァール人やマジャール人)からキリスト教のヨーロッパを守るために作られた「砦」のような役割から始まりました。
ここに早くからドイツ人が入植し、ドイツ民族が東や南に進出する拠点にもなっていきました。ヒトラーの東ヨーロッパ侵略計画はこのような歴史的背景の上に描かれていました。このように政治的にも重要な領土ですから、ドイツの有力諸侯が領主となってここを治めることになり、話をさらに複雑にしてしまいました。
オーストリアについてはハプスブルク家のところで詳しく見ましたので、分裂後のオーストリア・ハプスブルクのその後を追ってみます。
カール5世が弟にオーストリアを息子にスペインを継承して引退してからも、オーストリアは新旧のキリスト教徒の争いに翻弄され続けました。
1648年のウェストファリア条約で、皇帝の位は「名誉職」のようになってからは、ハプスブルク家の当主はオーストリアの領主に等しい存在になりました。しかし、2回目のオスマン帝国によるウィーンを包囲を打破して(1683年)、オーストリアはその実力を認められるようになります。
同じ頃、北ドイツではプロイセンが国力をつけ、オーストリアの脅威となっていました。
1740年、オーストリアの王位に就いたマリア・テレジアは皇帝の位をめぐってドイツの諸勢力やそれを支援するフランやスペインとオーストリア継承戦争を戦うことになります。
イギリスの支援もあり、勝利したオーストリアでしたが、新興国プロシセンに工業地帯のシュレジェン地方をとられてしまいました。そのため、アリア・テレジアはその後プロイセンのフリードリヒ2世と七年戦争を戦うことになりました。
彼女は来るべき戦争のに備えて、オーストリアを強国にするため、さまざまな改革に取り組みました。
官僚制の整備・財政の改善・商工業の振興・司法の独立・拷問の廃止・小学校の設置・農奴制の廃止・信教の平等など、改革は様々な分野に及びましたが、現実から遊離した改革の多くは不十分なままの結果に終わりました。彼女の改革は、後進性の強い国での「上からの近代化」の一つの形となりました。
この七年戦争の時に、ヨーロッパ外交に大きな変化が訪れました。新興国プロイセンとフランスの両国を敵にしては勝ち目がないと考えたマリア・テレジアは、宿敵のフランス・ブルボン家と手を結び、プロイセンとの全面対決に備えたのでした。
これが縁となって、マリア・テレジアは娘のマリー・アントワネットをフランスのルイ16世の妃として嫁がしたのでした。これがフランス革命の時の悲劇につながることになるのですが。
オーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家をして同盟させてしまったプロイセンとは、どのような国だったのでしょう。