オランダはスペインから独立した国ですが、国王がいません。スイスと並んで初めての共和制の国でした。独立時にはイギリスの支援を受けたオランダでしたが、17世紀に入るとオランダの商業活動はイギリスを圧倒する勢いがありました。
1623年のアンボイナ事件、ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の娘がオランダのオラニデ公と婚姻関係にあったことなどから、両国の関係は険悪になっていました。
クルムウェルの時代に成立した航海条例により、実質的にイギリスの貿易から締め出されたオランダがイギリスに反撃する形で戦争が始まりました。
第1次英蘭戦争(1652〜54年)、第2次英蘭戦争(1665〜67年)、第3次英蘭戦争(1672〜74年)と断続に続いた戦争では、優勢に戦闘を進めたオランダがこの戦争で勢いを失い、逆にイギリスはニューヨークを割譲されたりして、発展の足場を築くことになりました。
国民の支持も失い後継者にも恵まれなかったクロムエルの統治は短命に終わり、チャールズ2世が王位に復帰しました。亡命していたフランスでカトリックの影響を受けて帰国したチャールズ2世はカトリックと国王専制の政治を復活させようとして議会と対立します。
議会は国王に対抗して、国教会以外の信者が公職に就くことを禁じた審査律や不法な逮捕を禁じる人身保護法を制定しました。
1688年、議会はカトリックの復活を図るジェームズ2世をフランスに追放し、オランダから王女メアリーとその夫のウィレムの二人を共同統治の王として迎えました。
議会は王権を制限する「権利の宣言」を提出し、王はこれを「権利の章典」として制定し、立憲王政が確立しました。今回は王の処刑もなく終えたこの権力闘争を「名誉革命」と言うようになりました。
ここで、オラニエ公(オレンジ公ウィリアムス3世)が突然登場します。オラニエ公(オレンジ公)とは一体、何でしょう。12世紀にさかのぼるライン川中流の領主で、ブルゴーニュ侯に仕えて名門貴族となります。ハプスブルク家にも仕えて、婚姻によりオラニエ公の領地を、さらにライン川周辺の領地を手に入れます。ウィレム1世は皇帝カール5世の側近として将来を嘱望されますが、オランダ共和国独立の指導者となり、総督に就任し、「建国の父」となります。
メアリー・スチュアートの夫でイギリス王とオランダ総督を兼ねたオレンジ公ウィリアム3世とはそういう名家の出身です。
クロムウェルは共に戦った庶民の兵士を切り捨て、議会は国教会の信徒以外は公職に就けないと決めたりして、これでもイギリスの革命は市民革命と言えるのか疑問です。選挙権も男子の普通選挙が実施されるのは200年後です。
17世紀のピューリタン革命や名誉革命は、国王の専制政治を止めさせ、法の支配を確立したという意味で市民革命と言っているだけで、この市民の実態は地主階級です。
彼らはこの議会で、農民を農地から追いだすエンクロージャーを合法化する法律を制定したり、インドの綿布や外国の安い穀物の輸入を制限する法律を制定したりして、地主階級の利益を守り続けました。