各地域、同時代並行の世界史
世界史・納得のツボ(近代編)
home 納得ツボ(近代編) 納得のツボ(案内)

1650年〜1800年:3

(30) 資本主義の原型は
アメリカ大陸で

人間を労働力として商品のように使う方法は、この時代のアメリカ大陸で行われていた。

中南米・先住民の社会

富と布教を目的にスペイン人が征服した中南米では、先住民が租税と労働を取り立てられていました。スペイン人は先住民と直接接することなく、先住民社会の伝統にのっとり、リーダー役の首長を使って私腹を肥やしました。しかし、厳しい収奪により先住民社会の伝統も破壊され、その多くは逃亡や自殺をしたり、鉱山や農場での過酷な労働に追いこまれていきました。

18世紀になると、先住民のための理想の国を求めて立ちあがる動きが起きるようになり、それは各地に広まっていきました。19世紀には、この運動はアメリカ生まれのスペイン人(メスティーソ)等の本国からの独立運動に吸収されていくことになりました。

ページのトップ

北米のヨーロッパ人

エリザベス女王の頃から、イギリス人は北アメリカに移住するようになっていました。スチュアート朝になると、弾圧を逃れたピューリタンが北米大陸の東海岸に移り住むようになります。彼らは、富を求めたスペイン人と違って、家族と共に住む土地を求めました。そのために、やがて先住民と対立することになっていきました。(ヴァージニアは未婚の女王エリザベスにちなんで付けられた最初の植民地です。)

一方、フランス人は毛皮を追って、セントローレンス川やミシシッピー川に沿って奥地へと入り、先住民と交易関係を築いていきました。(ルイジアナはフランス王ルイ14世にちなんで付けられた地名です。)

ページのトップ

奴隷貿易

メキシコやペルーの鉱山やブラジルのさとうきび農場での労働力として始まった奴隷貿易は16世紀にはポルトガルが中心となっていました。17世紀になると西インド諸島で砂糖プランテーションの労働力として急速に拡大し、オランダ、フランス、イギリスが奴隷貿易に参入してきました。

18世紀には、イギリスがこの中心を占めるようになり、リバプールはその拠点の港として栄えました。小火器・ガラス等の装飾品・綿布などを積んでアフリカ西岸に向かい、沿岸のアフリカ人から奴隷としてアフリカ人と交換しました。

約5週間の航海の末、船はアメリカ大陸に着きましたが、過密な船室・粗末な食糧や酷い衛生状態のため伝染病・不安による自殺などで死亡率は30%以上でした。

ページのトップ

奴隷貿易と産業革命

小火器・ガラス等の装飾品・綿布(ヨーロッパ)→アフリカ人(アフリカ)→砂糖や綿花(アメリカ)。この三角貿易でよりもたらされた綿花はリバプールの港に隣接するマンチェスターに綿工業を引き起こし、やがてそこから産業革命が起きることになります。

奴隷貿易という前近代的な蛮行によって、近代化の象徴でもある産業革命が引き起こされたことは意外な感じもしますが、次の数字はこのことをよく裏付けているようです。

アフリカから運ばれた「奴隷」は1500万・2000万人から4000万人以上と考えられています。ピークの1761年から1810年の間に、イギリス人により150万人、ポルトガル人により100万人、フランス人により60万人、アメリカ人により30万人が運ばれたと推計されています。

ページのトップ

home 納得のツボ(近代編) | 前ページ | 次ページ