この時代、「南蛮貿易」の東南アジアは大きく姿を変えていきました。
1623年のアンボイナ事件を機に、イギリスの東インド会社は東南アジアから撤退し、活動の拠点をインドへと移すようになりました。
その頃のムガール帝国は、シャージャハン王とアウラングゼーヴ王の最盛期にあり、オランダ・フランス・イギリスなどの東インド会社はインド西部海岸の港に商館を開き貿易を行ったり、砲兵隊として雇われたり、イエズス会も布教活動を行っています。
農村では商品生産が発達し、商業活動も活発になっていました。ヨーロッパ人との貿易により銀が大量に流入し、経済構造にも大きな変動が起きつつありました。しかし、ムガール帝国の支配層はこの変動に有効な対応を怠り、農民からの徴税に頼る従来の体制を見直すことはありませんでした。
農民達は地方の地主・領主層と結び、ムガールに支配層の収奪に抵抗するようになりました。18世紀に入るとムガール帝国は弱体化し、デリー周辺を支配するのみの名ばかりの帝国となっていきました。
17世紀にはオランダ・イギリス・フランスがガンジス川下流のベンガルに進出してきいました。イギリスの東インド会社は1702年に要塞を建設したカルカッタを拠点に商業活動を展開していました。
1756年、イギリスの東インド会社の強引な営業活動により、ベンガル太守との間で強まっていた対立が軍事的衝突へと発展してしまいました。R. クライブの率いる東インド会社軍はフランスと結んだ太守の軍勢を敗退させ、東インド会社は貿易上の特権とこの地方の領主権と賠償金を獲得しました。
以後、東インド会社はベンガル地方を支配するようになり、この方式はインドの他の地域へと拡大され、約100年後の1877年には全インドがイギリスの植民地になってしまいました。
イランの絹を求めるオランダ・フランス・イギリスなどの国々とも友好関係を結び、貿易によって栄えたアッバース1世の後は優れた後継者に恵まれず、サファヴィー朝は18世紀に入ると滅亡しました。
この王朝の時代に確立したシーア派とイランとの結びつきは現在もこの国の統合の要となっています。他の地域にも言えることですが、この時代の出来事は21世紀の現在にまで大きく影響している例が数多く見られます。
16世紀末よりオスマン帝国の国力が急速に衰えていきました。支配層の腐敗、交易ルートが大西洋へ転換したこと、大量のペルー銀が流入したなどにより、オスマン帝国の支配体制が動揺し、インフレ・食糧難・軍人の暴動などが各地で起きるようになっていきました。地方でも、大土地所有が拡大し、生活に窮した人びとによる反乱も頻発しました。
各地で在地の勢力の力が増大し、18世紀半ばにはアラビア半島でワッハーブ派がオスマン帝国の支配から脱する事態にもなりました。
16世紀の始めからオスマン帝国はオーストリアと断続的に戦い続けていました。前半は優勢だったオスマン帝国は、1699年のカルロビツ条約でハンガリーを手放して、劣勢にまわります。
そのオスマン帝国にバルカンへの南進をねらうロシアがまず出てきました。1774年、露土戦争での敗北以後は、ヨーロッパの列強はキリスト教徒の保護など様々な要求をオスマン帝国に突きつけ、この地域への影響力の強化を図ろうとしました。これに対して歴代のスルタンは、国内制度のさまざまな分野で西欧化改革を進め、ヨーロッパの要求にこたえようと努めました。