明・清の時代において、東アジアの貿易が規制された原因には主に三つありました。
このように、時々の事情によって中国の海禁政策は強化されたり、緩和されたりしました。特に、銀・銅・刀など経済的・軍事的に重要な日本の輸出品は、中国は厳しく規制しました。
東アジアでは早くからポルトガルと一体となって、多くのキリスト教宣教師が布教活動を展開しました。明の皇帝も清の皇帝も彼らがもたらすヨーロッパの文物や世界の情報には強い関心を持ち、彼らを厚遇しました。フランシスコ・ザビエル等のイエズス会は、布教する地域の風土や伝統には理解を示し、支配者から布教の便宜を得て成果をあげていました。
17世紀、孔子崇拝・祖先祭祀の儀礼を認める彼らの柔軟な布教方法がローマ法王に報告され、それが誤りとされました。それを知った清の皇帝(康煕帝)はイエズス会以外の活動を禁じ、さらにはキリスト教の布教も禁じてしまいました(雍正帝)。
日本に鉄砲やキリスト教を伝えたのはポルトガルでしたが、貿易と布教を一体のものとして進めるポルトガルの姿勢がやがて、日本での活動の障害になっていきました。
17世紀に入り、相継いで来訪するようになったオランダは、江戸幕府に取り入り、ポルトガルの狙いは日本の領土であるなどと吹聴して、最終的には日本との貿易の独占権を横取りしてしまいました。
日本は長崎、中国は広州に限定して貿易を続けましたが、朝鮮は中国とは冊封国として朝貢し、日本とは通信使をとおして交流するのみで、ヨーロッパと貿易は行いませんでした。
李朝時代の朝鮮は両班(ヤンパン)と呼ばれた官僚貴族が隷属する農民を支配し、自給自足的な現物経済が続きました。
漢民族王朝の明は万里の長城を修復して頑強な壁を作りましたが、北からやってきた征服者の清王朝はチベット・モンゴル・中央アジアへと外征をくり返し、18世紀には歴代王朝でもっとも広大な版図を誇りました。
一方で、中国文化を受けいれ、科挙により官僚制国家を継承しましたが、辮髪令など満州族の習慣を漢民族に強制もしました。大規模な事典の編纂事業や文字の獄などにより、知識人のエネルギーが民族意識に向かわないように図りました。
このように、清は中国文化を継承しながらも、外来の征服王朝としての立場を維持し続けたことに、この王朝が長期にわたって安定した支配を維持し得た理由の一つがあります。
李朝朝鮮の時代の歴史を読むと、官僚達の党争が延々と続きうんざりしてしまいます。近代になっても、親清派、親日派、親露派と派閥抗争ばかりがくり返されました。
高麗の軍人だった李桂成が新興の明との戦いを命ぜられてクーデターを起こし、親明的な王朝を開き、明が滅びたときは清との関係をめぐってやはり内部抗争をくり返しました。
中国大陸の東北部に位置する朝鮮は、常に北方から現れる新興勢力との関係をめぐって国の命運を懸けた決断を迫られ続けてきたのです。清から新たに冊封された李朝朝鮮は清朝以上に中国的な儒教国家として、鎖国政策を徹底して続けました。
江戸時代の鎖国は、朝鮮ほど閉鎖的ではありませんでしたが、中国ほど不徹底でもありませんでした。幕府には独占的に貿易の利益が入り、ヨーロッパをはじめ海外の情報を知ることができる立場の人たちもいました。人口も経済も社会的な変動をもたらすほどの変化もなく、政治的にも経済的にも管理された社会が続きました。
一方で、現状維持の政治によって均質な社会が国内に形成され、鎖国によって逆に外部が意識されることになり、これらは明治以後の日本の近代化に大きく影響することになりました。