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1500年〜1650年:10

(26) イギリスの市民革命T

イギリスとはイングリッシュがなまって日本語化した地名。正しくはイングランド。
  1. イングランドとスコットランドとは別々の国。
  2. スチュアート朝時代は、国王は両国の王を兼務した。
  3. 1707年に両国は連合し、「グレート・ブリテン連合王国」(=イギリス)に。
  4. イギリス(日本での通称)=イングランド+スコットランド+ウェールズ+北アイルランドの一部

スコットランドのスチュアート朝

17世紀、イギリス(イングランド)でもスチュアート朝がいきなり登場します。家系をたどってみますと、その祖先はフランスのブルターニュの貴族でした。12世紀、スコットランドに定住し王家に宮宰として仕え、14世紀には王位に就いてスチュアート朝を始めました。スコットランドの王室は外国と結んだ貴族間の抗争が激しく、王権は安定しませんでした。

イギリスのスチュアート朝

1542年、メアリー・スチュアートは生後1週間でスコットランド王に即位し、フランスの皇太子妃となり、夫の病死により帰国したメアリーは、新旧両教派の貴族の抗争にまきこまれて退位し、67年息子のジェームズ6世が即位しました。

イギリス(イングランド)のエリザベス1世に後継者がなく、1603年ジェームズが、チューダー朝のヘンリー7世の玄孫にあたる血縁関係からイギリス(イングランド)に迎えられ、ジェームズ1世として即位しました。ですからイギリス(イングランド)とスコットランドは一人の国王の下にあったわけです。このようにしてイギリス(イングランド)のスチュアート朝が始まりました。

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エンコロージャー

価格革命の影響はイギリスにも大きな社会変動を起こしていました。16世紀、ビジネス・ブームが訪れ、農村の毛織物産業も活況を呈していました。領主達の中には、農民を追い出して農場を牧羊地に転用して羊毛で一儲けしようとする者も出てきました。土地を失った農民は浮浪者となり、このエンクロジャー(囲い込み)と呼ばれた現象は社会問題にもなり、国王はこれを禁じましたが効果はありませんでした。

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ジェントリーとイギリス議会

16世紀より続いた大きな社会変動によって、イギリスでは新興勢力が成長していました。エンクロージャーで利益を上げた地主、毛織物産業の業者、価格革命の流れに乗って経済的な成功を収めた者その来歴は様々ですが、彼らはジェントリーと呼ばれました。

フランスのような全国的な官僚制度を持たなかったイギリス(イングランド)の国王は、このジェントリーと呼ばれた新興地主階級を治安判事として地方の統治に利用しました。また、彼らも議会をとおして勢力を伸ばしていきました。

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スコットランドから来た国王

スコットランドから来たジェームス1世ですが、かなり強引なスタンスで国政に関与していきました。国教会への信仰を強制し、ピューリタン(カルヴァン派)の聖職者を国教会から追放しながら、フランスのカトリックには弱腰な外交を展開したり、宗教問題でぎくしゃくした対応をとりました。課税についても独断的な態度が目立ち、議会との対立が強まっていきました。

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チャールズ1世の失敗

スコットランドのスチュアート朝は親フランスでカトリックびいきでした。スコットランドはカルヴァン派が多数を占めていましたから、国王はスコットランドでも対立していました。イギリス(イングランド)の王でもあるチャールズ1世はイギリス(イングランド)の国教会のやり方をスコットランドにも強制して、スコットランドでの対立が激しくなり、そのしわ寄せをイギリス(イングランド)議会に持ち込んだことから、国王とイギリス議会の対立がおきたのでした。

1707年にイギリス(イングランド)とスコットランドが連合するまで、イギリス(イングランド)の国王はスコットランドの国王も兼ねていました。

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王権神授説と法の支配

王権は神から与えられたものだとする国王の「王権神授説」に対して、議会は慣習法に基づく法が王権に優先するとする「法の支配」の考え方で対抗しました。

ジェームズ1世の後を継いだチャール1世の時代には、議会との対立はさらに深刻になりました。1628年、議会は「権利の請願」を国王に示し、議会の同意なき課税・不法な逮捕・投獄・軍法裁判の濫用など、イギリス人の権利と自由を侵す国王の行為はイギリスの慣習法(コモン・ロー)に反する不当なものであることを訴えました。

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チャールズ1世と議会

「権利の請願」を突きつけられたチャールズ1世は、議会を解散し、以後議会なしで11年間、専制政治を行いました。その後のチャールズ1世の政策を列挙してみます。ピューリタンへの厳しい弾圧、関税の強化、独占権の濫発、船舶税を内陸部まで広げての徴収などです。これに対して反対運動は広がり、これまで協力的だったジェントリー層も国王に反発を強めていきました。

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国王対議会

国王がスコットランドに国教会の儀式などを強制したことからスコットランドで暴動が起こり、その鎮圧に失敗した国王は、戦費をイギリス(イングランド)から徴収しようと、議会を開きますが、議会は反対しました。そこに、スコットランド軍が攻め込んできて、賠償金の支払いを要求された国王はその財源を再びイギリス(イングランド)から徴収しようと、1640年に議会を召集しました。(チャールズ1世がやろうとしたことは、二つの会社を経営する社長が、一方の会社の損失を他方の会社の従業員の給料を減らして穴埋めするようなものです。)

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改革から内乱へ

国王の圧政に反対する議会は、国政の重要事項には議会の承認を必要とする改革案を満場一致で可決しました。これにより国王は議会が制定する法の範囲でしか国王の権力を行使することができなくなりました。

1641年、アイルランドでカトリック教徒の反乱が起こり、イギリス(イングランド)の新教徒が多数虐殺されるという事件が起きます。この非常時を前に、穏健派が国王支持に転じ、議会は分裂します。改革推進派の議員が何人か逮捕され、内乱へと発展していきました。

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ピューリタン革命

内乱は、軍事経験の豊富な国王軍の前に、地方の民兵や義勇兵を中心とする議会派には劣勢な戦況が続いていました。この時、議会派な中から、クロムウェルが現れます。彼は熱心なピューリタンにより騎兵隊を組織して、軍功をあげ発言力を増していました。

彼は、さらに分裂の危機にあった議会派の中で、革命の徹底を求める勢力の支持に支えられて、主導権をとり続けました。

内乱の危機の中で、議会派の中には国王に対する不信感が強まり、チャールズ1世は「専制君主・反逆者・殺人者・国民の敵」として死刑を宣告され、1649年1月30日ロンドン市民の見守るなかで処刑されました。

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クロムウェルの政策

革命が成功すると、クロムウェル等はこれまで革命を推進してきた急進的を、給料未払を理由に従軍を拒否して反乱をおこしたことを口実に切り捨てました。

さらに、クロムウェルはアイルランドに遠征し、カトリックに対して残虐な報復を行い、土地を奪って、アイルランドを植民地化しました。これが、現在まで続く「アイルランド問題」の始まりとなりました。

1651年には航海法を制定して、イギリスとその植民地の貿易から実質的にオランダ船を排除しました。このことで、中継貿易から締め出されたオランダとは戦争になりました。

このように、対外的には強引な方法でイギリスの利益を追求しましたが、国内をまとめて内政を安定させることはできませんでした。

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