フランスでは新教徒(プロテスタント)は旧教徒(カトリック)からユグノーと呼ばれていました。フランスでも16世紀にはいると宗教改革の動きは顕著になり、1559年には全国改革派教会会議がパリで開催され、新旧の対立は避けがたくなっていきました。
新旧の宗教上の対立は、王位継承問題とも絡んで、政治問題へと発展していきました。1562年プロテスタント虐殺事件が起きると、両派の対立は激しさを増し、ユグノー戦争に発展していきました。
1572年にはサン・バルテルミの大虐殺を経て、国内は危機的な状況になっていきました。教皇やスペインは資金を出し、フェリペ2世は軍隊を派遣してカトリックを支援しました。ドイツのプロテスタントやイギリスは新教徒側を支援し、ユグノー戦争はヨーロッパを巻き込む戦争に発展していきました。
1589年ヴァロア朝の王家の血統が絶えると、王位に就いたプロテスタントのアンリ4世はカトリックに改宗して、国内を統一し、1598年、ナントの勅令により個人の信仰の自由を認め、ユグノー戦争を終わらせました。この過程で、古い名門貴族は没落し、新興の商人や貴族が勢力を伸ばし、新しい王家ブルボン朝を支えることになりました。
いきなりブルボン朝がここで出てきます。フランス王室の系図をたどってみます。ブルボン家はブルボネ地方の古い領主でした。王家であったカペー家との婚姻によって、ブルボン公家(国王になるかもしれない家系)が創設されました。
カペー朝に替わったヴァロア朝時代にフランスの王権は強くなり、フランソワ1世の時代にはハプスブルク家と戦いました。フランソワ1世の息子アンリ2世と孫のアンリ3世はユグノー戦争の時代に争乱に明け暮れました。ヴァロア家には後継者がなく、アンリ3世の妹マグリートの婿として国王になったのが、ブルボン家のアンリ4世でした。
ブルボン朝を開いたアンリ4世はメディチ家から、息子のルイ13世はスペイン・ハプスブルク家から、孫のルイ14世もスペイン・ハプスブルク家から妃を迎えています。名家ばかりです。
ルイ13世とルイ14世は、それぞれリシュリューとマザランという優れた宰相の補佐により、国王の権力が確立され、絶対王政の全盛期を迎えました。特に、フランスは強力な常備軍と官僚制を整備し、ルイ14世の時代のフランスはヨーロッパ随一の力を誇りました。