1602年、世界初の株式会社として設立されたオランダの東インド会社は、オランダ政府からアフリカ南端の東からアメリカ大陸の南端の西までの海域での条約締結から自衛戦争の遂行・要塞構築・貨幣鋳造まで、あたかも一国家のような権限を与えられていました。ジャワ島のバタビアに拠点を置き、日本の銀・銅、中国の絹、インドの綿、インドネシアの香辛料などの貿易により大きな利潤を得ました。
イギリスの東インド会社は、1600年にアジアでの貿易を独占的に行う特権会社として設立されました。1623年、アンボイナ事件でオランダとの争いに負け、モルッカ諸島からは退却し、インドに拠点を移しました。その後、インドでポルトガルやオランダの勢力を抑え、プラッシーの戦でフランスのインドへの進出を挫折させます。
17世紀のはじめ、スペイン・ポルトガルの勢いが弱まるなか、それに変わって、世界に進出し始めたのがオランダでした。
オランダ独立戦争は1568年から1648年まで続きましたので、これを80年戦争とも言います。1560年代、ハプスブルク家の支配下にあったネーデルランドの人びとは、スペイン王フェリペ2世の中央集権政策や厳しいカトリック政策に反抗するようになりました。
カルヴァン派が運動の主導権を握るようになると、スペインとの対決は激しさを増し、カトリック色の強い南部とカルヴァン派の勢いが強い北部とに分裂し、北部の諸都市が結成したユトレヒト同盟が中心となって独立戦争が戦われました。
イギリスの応援もあって、一時は停戦に持ち込まれましたが、1621年には再び戦いが始まりました。オランダ独立戦争の後半は、この時代、全ヨーロッパを巻き込んで始まっていた30年戦争の一環として戦われました。
イギリスの市民革命とオランダの独立と30年戦争の話が同時並行で出てくると、この時代のイメージが作りにくくなりますが、宗教改革の歴史は「教会の中の国家」から「国家の中の教会」への移行期の問題だととらえると、この時代をトータルに見ることができます。
「教会の中の国家」とは教皇や皇帝のヨーロッパ観です。国王より教会が上にあり、その教会のリーダーが教皇でその守護者が皇帝です。それに反対した新教徒側は「国家の中の教会」を主張し、国家の独立性を求めていました。「教会の中の国家」の象徴のような皇帝の地位をどうするか結着を付ける必要があったのです。16世紀の歴史はまだ、その問題を先送りしていました。結着は30年戦争でつけられました。
次の四つの戦争を総称して30年戦争と言っています。ボヘミア・ファルツ戦争(1618‐23)、デンマーク戦争(1625‐29)、スウェーデン戦争(1630‐35)、フランス・スウェーデン戦争(1635‐48)です。ほとんど切れ目なく続いています。
数十の国が参加したウェストファリア条約はヨーロッパ初の国際条約となりました。また、この条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明証」だとも言われています。
皇帝は名目的な存在で、ヨーロッパではドイツの領邦国家も含めて、国家を越える権力や権威は存在せず、それぞれの国家が条約を締結し、自国の宗教についての決定権も持つようになりました。
この条約により、フランスやスウェーデンが領地も発言権も拡大し、ブラデンブルク辺境伯(後のプロイセン)が以後台頭してくることになりました。