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1500年〜1650年:7

(23) 教会か国家か

宗教改革は権力闘争でもあった。
  1. 神聖ローマ帝国(ハプスブルク帝国)の強大化は「キリスト教ヨーロッパ帝国」の完成を意味した。
  2. 「キリスト教ヨーロッパ帝国」の成立に断固反対したのがフランスとイギリス。
  3. 修道院を解散すると、その財産・土地は国王の物になった。
  4. 反ハプスブルクの戦いと宗教改革が一つになって展開した。

宗教改革のはじまり

カール5世がイタリア戦争に手一杯だった頃、ドイツでは宗教改革の嵐が吹き荒れていまいた。1917年、カール5世が皇帝になる二年前のことです。ヴィッテンヴェルク大学の神学教授マチン・ルターが公然と教会批判を始めたのです。

当時、ローマ教会は「それを買うと罪が許され救われる」として贖宥状(免罪符)をドイツの民衆に買わせていました。ルターは、そのようなことで神の救いは得られないとして、これを批判したのでした。教会はルターの主張に反撃しましたが、ルターは自説を曲げることはしませんでした。最後にはルターは破門されてしまいます。

しかし、皇帝や教会に批判的だった諸侯はルターを応援しました。領主の厳しい支配に苦しんでいた農民達も、ルターの言動に勢いを得て各地で一揆を起こしました。

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ルターの思想

教会の儀式や組織の否定、聖書のドイツ語訳、信仰における信者の平等、信仰に名を借りた教会の世俗的な活動の批判。これらはすでにウィクリフやフス等によってこれまでも主張された内容と多くが重なっていました。スターがそうした主張をしたのはルターの思想がもたらした結果にすぎませんでした。

ルターは、努力によって神に近づこうとすることの空しさを知り、罪深い人を救おうとする神の恵みの絶対性に目覚め、それを信じることの歓びを説いたのでした。  この深い確信がルターの力強い言動となり、教会や皇帝に反発した当時のドイツの人々の励みとなっていったのでした。

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ドイツ農民戦争

ドイツでも貨幣経済の流入により、経済力を付ける農民も出てきました。しかし、追いつめられた領主は時代の動きとは逆に、農奴制を強化し労働地代を復活させようとしました。自由を求める農民達によって、皇帝や教会は領主たちの象徴でしたから、これと戦うルターは英雄でした。1524・25年と続くドイツ農民戦争はどんどん激しさを増していきました。

しかし、ルターは農民達の戦いを批判しました。領主達は農民を徹底的に弾圧し、多数の犠牲者を出すことになりました。

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「教会の中の国家」から
「国家の中の教会」へ

農民を弾圧した諸侯も皇帝と戦いましたが、彼らの戦いの理由は別なとことにありました。 諸侯達は自分の領地内にある教会に対して支配権を主張したのでした。かつての「叙任権闘争」は教会の人事権についての争いでしたが、宗教改革の時代では、教会財産を含む教会に関するすべてが争われたのです。

「教会の中の国家」から「国家の中の教会」へと時代が移ろうとしていました。皇帝や教皇の影響力からの解放が目的だったのです。諸侯は小さくとも一つの国(領邦)として振る舞おうとしていました。

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アウグスブルグの和議

反皇帝派の諸侯はシュマルカルデン同盟を結び、皇帝と戦いました。最終的には皇帝が勝ったのですが、オスマン帝国にウィーンを包囲されたりして、窮地に陥った時に、カール5世は一時しのぎでルター派に妥協したことがありました。それを守らなかった皇帝に対して抗議したことから、ルター派をプロテスタント(抗議する人)と呼ぶようになりました。

戦乱の日々に疲れたカール5世は自ら退位し、後を就いた弟のマクシミリアンは1555年、アウクスブルクの和議によって、ルター派の信仰を認めました。しかし、これは個人の信仰の自由を認めたものではなく、信仰は領邦・都市ごとに決められ、住民はその決定に従わなければなりませんでした。

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チューダ朝

分かりにくいテーマがもう一つ残っています。それはイギリス国教会です。それも、「教会の中の国家」から「国家の中の教会」という視点でみると理解できます。むしろ、その典型例です。

フランス出身のイギリス王家プランタジネット朝は「百年戦争」でフランス領内の領土をほとんど失いました。その後、後継者争いが原因で「ばら戦争」が始まり、その中から、ヘンリー7世が登場し、1485年にチューダ朝を成立させました。

ハンリー7世は「百年戦争」と「ばら戦争」で衰退した諸侯を抑え、強力な王権を確立しました。そして、その息子のヘンリー8世が、イギリス国教会を作ったのでした。

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ヘンリー8世

シュークスピアも彼を主人公に戯曲を書いていますが、ヘンリー8世はかなり危ない人物だったようです。気に入らない家臣を処刑し、何人も妃を殺害し、再婚しています。

カール5世の伯母キャサリンと結婚し、「イタリア戦争」では皇帝側に立っていました。しかし、皇帝側の勢いが強くなると、反皇帝側に回ります。しかも王妃との間に男子が育たず、キャサリンの侍女のアン・ブーリンとの恋愛問題からキャサリンを離婚してしまいます。

離婚を禁じるカトリックで皇帝の伯母との離婚が認められるわけもなく、ヘンリー8世はカトリックを捨て、イギリスの教会を「イギリス国教会」としてローマ教会から独立させてしまったのでした。議会もこれを支持し、イギリスの修道院は解散され、その土地は国有化されてしまいました。

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イギリス国教会

イギリスの宗教改革はいわば政治劇として進行してしまいました。形だけの新教として成立した「イギリス国教会」を宗教としてその内容を整えたのはヘンリー8世の後を継いだエドワード6世でした。しかし、信仰についての考えは、カトリック(旧教)と大きく変わることはありませんでした。

外観だけの改革に終わったイギリスの宗教改革を、不十分だと批判したのがピューリタン(純粋な人たち)と呼ばれたイギリスのカルヴァン派でした。

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