ヨーロッパ史の分かり難さは、存在しない帝国「神聖ローマ帝国」が原因だと書きました。その皇帝の地位を実質上、世襲し続けたオーストリアのハプスブルク家の存在はもっと分かりにくい点です。ここは少し、気合いを入れて書きます。
皇帝のなり手がなくなった大空位時代(13世紀)の後、力の無さを見込まれて皇帝に選出されたのがスイスの田舎諸侯、ハプスブルク家のルドルフ1世でした。しかし、彼は予想に反して実力を示し、ベーメン王(チェコ)を破ってオーストリアを奪ってしまいます。以来、ハプスブルク家はオーストリアを拠点にこの時代のヨーロッパの歴史をかき回すことになります。
宗教改革の時代の中心人物皇帝カール5世はスペイン王(カルロス1世)でした。皇帝になる前の彼はハプスブルク家の後継者としてスペイン・ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)・ブルゴーニュ(現在のフランスの一部)・オーストリアを支配下に置いていました。
そのカルロス1世が皇帝に選出され、カール5世となると、ドイツ・イタリアの王も兼ねましたから、フランスとイギリス以外は西ヨーロッパのほとんどがハプスブルク家の支配下に入ったことになります。カール5世の祖父がブルゴーニュ公女と結婚し、父親の妃がスペイン王女であったことから、このようなことになったのでした。
※ドイツ語のカールは、カルロス(スペイン語)、チャールズ(英語)、シャルル(フランス語)とも呼ばれます。
カール5世はドイツ王でしたがドイツ語は話せなかったそうです。父親がブルゴーニュの領主でしたからフランスで育ちました。1516年にスペイン王になり、1519年にフランス王フランソワ1世と争って皇帝になりました。
フランスは古くから南イタリアとは関わりが深く、15世紀末からもナポリ王国(南イタリア)の領有をめぐって、皇帝・教皇・北イタリアの諸都市と紛争が続いていました。皇帝選挙もその争いの一幕でした。皇帝になったカール5世にとってイタリア戦争は目前の課題になりました。
一時、優勢だったフランソワ1世は皇帝選挙に敗れた頃から劣勢に転じます。情勢の変化にイギリスのヘンリー8世は機敏に対応しました。それまでの反フランスの立場から、反皇帝の側に回りました。ハプスブルク家が強大化することを懸念して、バランスをとったのです。オスマン帝国も、東側からオーストリアを攻め一時はウィーンを包囲し、カール5世を脅かしました。
最終的にはフランスはこの戦争に敗れますが、戦乱で荒れたイタリアからレオナルド・ダ・ヴィンチなど芸術家を多くフランスに招くなどし、フランソワ1世は「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれました。