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1500年〜1650年:4

(20) 最後の帝国

この時代に建国したり、繁栄したりした帝国(ムガール帝国、オスマン帝国、ロマノフ朝ロシア)はアジアの最後の帝国となった。
  1. ムガール帝国もオスマン帝国もトルコ系の征服王朝だった。
  2. 寛容な宗教政策で、経済的にも繁栄した。

ムガール帝国

北インドに侵入したバーブルがデリーに入場したのは1526年のことでした。ティムールの子孫である彼は、トルコ人の征服王朝ムガール帝国をインドに建国しました。

16世紀後半、3代皇帝アクバルの時代には北インドを統一し、国内の支配体制が確立されました。首都アグラから地方へ官僚が派遣され、彼らには土地と兵が与えられ、税を集めました。また、ヒンドウー教徒をムスリムと同等に扱い、イスラームを強制することなく寛容な宗教政策を実施して、帝国の発展の基礎を築きました。

17世紀前半、5代皇帝シャー・ジャハンの時代には最盛期を迎え、タージ・マハルなどが建設され、インド・イスラム文化が栄えました。

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16世紀のインド洋貿易

16世紀に入りエジプトのマムルーク朝がオスマン帝国によって滅ぶと、オスマン帝国がインド洋貿易に参入するようになり、アラビア海・ベンガル湾・南シナ海では海上貿易が盛んになり、ムスリム商人・インド商人・ポルトガル商人が活躍しました。16世紀の東アジアの商業の世界もこの東端につながっていました。

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17世紀のインド洋貿易

17世紀になると、ポルトガルに替わってオランダやイギリスがインド洋へ進出してきました。彼らは各地に次々に要塞を築き、インド洋の制海権を手に入れていきました。

1623年、インドネシアでアンボイナ事件が起きます。香料貿易の拠点であったモルッカ諸島で、オランダの商会員がイギリス人と日本人に殺害されたのです。原因やことの真実は不明ですが、オランダはその後反撃に出て、この事件をきっかけにして、イギリスは東南アジアの香料貿易から撤退し、商業活動の拠点をインドへと移すことになりました。

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サファヴィー朝ペルシア

16・17世紀に栄えたサファヴィー朝ペルシアは現在のイランにも大きな影響を与えているます。この王朝はサファビー神秘主義教団の開祖の子孫によって1501年に建国され、イスラームの開祖ムハンマドの子孫に特別な力を認めるシーア派の流れをくむ国として出発しました。そのため、建国当時はシーア派とは対立するスンナー派のオスマン帝国や中央アジアのウズベクと争い、国は危機に陥りました。

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アッバース1世

1588年に即位したアッバース1世の時代に、王朝は窮状から脱し、その最盛期を迎えました。彼は軍制・行政上の諸改革を行って王権を強化し、オスマン帝国からは土地を奪い返しました。経済を発展させ、貿易を奨励し、首都イスファハーンは「イスファハーンは世界の半分」と称されました。

西欧諸国は絹を求めてサファヴィー朝と国交を結び、美術・工芸や哲学では優れた業績を残し、イラン・イスラム文化が栄えました。

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スレイマン1世

オスマン帝国の最盛期の皇帝はスレイマン1世です。彼の治世(1520〜1566)での業績を列挙してみます。ハンガリーの大部分を併合し、ウィーンを包囲(1529)したこともありました。1538年にはプレヴェザの海戦でヴェネツィア・スペイン軍を破って東地中海の制海権を手に入れました。

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オスマン帝国の繁栄の背景

オスマン帝国の繁栄の背景は次のことが考えられます。

  1. イスラームの法に従いながら、実際の慣習も尊重して、合理的な官僚制度を確立したこと。これにより、国内体制が確立した。
  2. 寛容な宗教政策や他民族の自治を認める政策によって、諸民族の力を結集できたこと。特にキリスト教徒やユダヤ教徒は「経典の民」として保護し、商業が活発になった。
  3. 地中海からインド洋に渡る貿易の要衝をおさえて抑えて、商業活動を活発にしたこと。
  4. マムルーク朝を滅ぼし、メディナ・メッカを保護する立場に立つことで、イスラーム世界全体に対する指導的立場に立つことができたこと。
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雷帝・イワン4世

ロシアという国が、多民族を支配する帝国への道を歩み始めたのは、このイワン4世 (1530‐84)の時代でした。部下に恵まれた彼は内政・外交において、その後のロシアの発展の礎を築きました。正式にツァーリ(皇帝)の称号を採用し、反対する者には厳しい態度で臨み、雷帝とも呼ばれました。

中央と地方の行政と税制を整備し、住民自治を導入し、貴族と士族の区分を明確にするなど、中央集権化を図りました。また、馬術に長けたコサックのイエルマークが、カザン・ハン国を併合するなど中央アジアやシベリアへの進出に道筋を付けました。

イワン4世の死後、後継者は一代しか続かず、イワン4世の妃の実家から後継者を出してロマノフ朝が成立しました。(ロシア革命で処刑されたのは、このロマノフ朝の最後の皇帝ニコライ2世です。)

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