明の中期以降、朝貢貿易は衰退する一方で、海禁を犯して海外に渡航する者が増え、さらに16世紀の半ばには倭寇の活動はいよいよ活発になっていました。
1567年、海禁は一部緩和され、東南アジア方面への渡航・貿易は公認されましたが、日本への渡航は明滅亡まで公認されませんでした。
日本は琉球(沖縄)をとおして中国と交易は続けていました。北海道の昆布が琉球(沖縄)に渡り、中国からは漢方薬や書籍も沖縄経由で日本国内に入ってきました。薩摩藩によって征服された琉球は、1634年、将軍の代替りを祝う賀慶使をきっかけに徳川幕府と公式の関係を結びました。
1404年、足利義満が「日本国王」として朝鮮と対等の外交関係を開いてから、朝鮮からは「通信使」が日本からは「国王使」が派遣されるようになりました。この関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵により一時途絶えましたが、1635年に日本と朝鮮との関係が修復し、通信使が来日するようになりました。
しかし、徳川幕府からは直接使節を送らず、朝鮮通信使が江戸に来訪した折に文書を手渡すのみでしたが、朝鮮は江戸時代、公式の外交関係があった唯一の国でした。朝鮮との貿易は、朝鮮側の倭寇対策のために対馬の宗氏だけが交易を許されていたため、江戸時代もそれが継続されました。
こうして、オランダと中国は長崎をとおして交易をする「通商の国」として、琉球と朝鮮は「通信の国」として鎖国時代の貴重な世界の窓口となったのでした。
今の万里の長城は明代に修築されました。この時代、明はモンゴル系遊牧民に北辺を脅かされ、都北京が征服されたり、皇帝がとらわれたりしていました。その備えとして万里の長城を再構築する必要があったのです。当然、費用と農民達の負担は莫大なものとなりました。「北虜南倭」と言われた北の遊牧民と南の倭寇の問題は明王朝を悩まし続けました。
この頃、東北部ではツングース系の農耕・狩猟民の女真族が、朝鮮人参・毛皮・真珠などの貿易をとおして東アジア世界につながり始めていました。
変動し始めた女真族の社会中からヌルハチが頭角を現し、1616年に挙兵します。その後を継いだホンタイジは1644年、明を滅ぼし清を建国します。明を征服し朝鮮を服属させたのは豊臣秀吉ではなく、女真族でした。