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1500年〜1650年:2

(18) 鎖国への道

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の南蛮貿易とキリスト教布教への政策には次のような傾向が見られる。
  1. 三人ともヨーロッパの文物に関心が高く、貿易もしたかった。
  2. 大名が貿易により力をつけるのは怖いので、貿易の統制・独占をした。
  3. キリスト教が一向宗のような一大勢力となって反抗するような事態は避けたかった。
  4. ポルトガル(布教+貿易)に替わってオランダ(貿易)がアジアで活動するようになった。

織田信長の外交

織田信長はヨーロッパ宣教師から積極的に世界の情報を得ようとし、ヨーロッパの新しい文物に興味を示しました。鉄砲の威力を早くから理解し、堺の商人を通じて銃を購入し、1575年には鉄砲隊を組織して長篠の戦いで武田軍を討ち破りました。

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豊臣秀吉の外交

1587年、豊臣秀吉はキリシタン禁令により、神社仏閣の破壊を理由に、布教を禁じ、宣教師を追放しましたが、貿易は自由としました。翌1588年、今度は海賊禁止令を公布して私貿易を取締り、貿易の統制を図りました。

その後、インド・フィリピン・台湾に入貢を促し、大陸侵略に乗り出すことになります。秀吉の頭の中には東アジアの貿易秩序を自らの手で築く野心が伺えます。そう考えると、朝鮮出兵もそれなりに理屈があったようです。

1596年、土佐に漂着したスペイン船の船員から、キリスト教の布教の目的は日本の国土の侵略である知ると、秀吉はキリスト教を禁じ、長崎で26人の信徒・宣教師を処刑したのでした。

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徳川家康

1600年、徳川家康は全修道会に日本での布教を許可しました。また、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、オランダやイギリスが日本するようになりました。家康はこれらのイギリス人やオランダ人からも世界情勢について新しい知識を得ました。家康はヨーロッパや東アジアとの国々との交流には積極的でした。東南アジアの国々とも積極的に交易を図っています。

ポルトガルの長崎貿易については生糸貿易の統制をはかり、スペインに対しては江戸付近での通商を求めました。オランダ・イギリスに対しては軍需品を中心の貿易で関係を強めました。

1612年、直轄諸都市での教会破却・宣教師の追放・布教禁止・信仰の禁止を決定しました。この背景にはヨーロッパの国々の間で対立や抗争が絶えなかったためでした。

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鎖国令

1616年、徳川秀忠(2代将軍)は百姓にもキリシタン禁制を要求し、ポルトガル・イギリスとも大名領内での自由通商を認めず、貿易を長崎と平戸に限定しました。

17世紀に入ると、オランダが巧みな外交でイギリスを東南アジア・東アジアから締め出すことに成功し、日本貿易を独占していきました。

1639年、将軍家光(3代将軍)は寛永鎖国令で鎖国体制を確立しました。鎖国令は次のの三点を基本としていました。日本人の海外往来禁止、キリシタン・宣教師の取締り・外国船貿易の長崎への集中です。

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