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1500年〜1650年:1

(17) 銀が変えた16世紀の東アジア

勘合貿易が途絶えると、和冦の対策として明が海禁政策をとったため、日明間の貿易は途絶えてしまった。
ポルトガルは日明間の中継貿易を担当していた。
  1. ポルトガルは中国への支払いに日本で得た銀を使っていた。
  2. ポルトガル商船(インドシナ産の生糸・絹織物・綿糸・金・武器)→日本
  3. 日本(銀・硫黄・蒔絵・扇子等の工芸品)→ポルトガル船
  4. 中国(陶磁器や生糸)→ポルトガル船

日明貿易

日本と明との貿易は1404年から1547年まで続きました。遣明船の貿易には、朝貢の形をとる公式の貿易とその乗員が行う公貿易および私貿易の三種類がありました。扱われた商品は主に、日本からは馬・刀剣・鎧・硯・扇・蒔絵漆器・槍等・銅・硫黄など、中国からは羅・紗・綵絹等の高級織物。絹・布・白金・銅銭・工芸品などがありました。

特に、前半は明銭が日本に流入し、国内で流通しました。

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倭寇

勘合船による日明間の通交が途絶えたころから、倭寇が再び盛んに中国沿岸部を荒らし回りました。ただ、ほとんどが中国人の密貿易者だとされています。彼らは地方富豪層と結んで、さかんに密貿易を推進しました。16世紀に入ると、ポルトガル人も明政府から通商の許可が得られず、密貿易に加わり、日本も豊富な銀を資金にして盛んに密貿易に参加しました。

明の海禁令が解除され、日本でも豊臣秀吉の国内統一が進み、倭寇はしだいに治まっていきました。この背景には、東アジアの海上貿易をめぐる主導権争いがあったのでした。

石見の銀山と東アジア

1533年博多の商人が新しい製錬技術を導入して、石見で大量の銀が産出されるようになると、日本はこの銀で東アジア貿易に積極的に参加していきました。当時、東アジアの経済を支配していたのは銀でした。ポルトガル船が日本に来航した目的の一つもこの銀でした。当然、秀吉も家康もこの銀山を支配下におきました。

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南蛮貿易

1543年、ポルトガル人が種子島に漂着してから、鹿児島・平戸などにも来航するようになりました。鉄砲(1543年)やキリスト教(1549年)が伝えられたのはこの頃のことです。彼らはマカオを拠点し、インドのゴアやマラッカとを結ぶ中継貿易を発展させていきました。

1578年、広東での交易権を得たポルトガルは日本との貿易を拡大していきました。当時の明政府は海禁政策をとっていましたが、それを解いた後も日本への渡航は禁じていましたので、日明間の公的な貿易は完全に途絶えたままになっていたのです。

ポルトガル商船が日本にインドシナ産の生糸・絹織物・綿糸・金・武器などをもたらし、日本からは銀・硫黄・蒔絵・扇子等の工芸品を持ち帰りました。

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銀と明

日本もポルトガルやスペインも銀以外に中国との貿易で交換できるものはありませんでした。そのため、明には大量の銀が流入し、税や労役を銀で納入するようになったぐらいです。中国からは、陶磁器や生糸などが輸出されました。

国内用に生産されるようになった綿花・麻・桑などの商品作物とともに農村の副業とし絹織物や綿織物も生産され、貨幣経済が農村にも浸透するようになりました。しかし、その富は、郷紳と呼ばれた新しい地主階級の人びとに集まることになりました。

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南蛮貿易とキリスト教

九州の大名の中には、鉄砲や硝石等の貿易を目的に、キリスト教の布教を許して、ポルトガル商船を招く者も出てくるようになりました。肥前の大村氏はキリスト教に改宗して1570年、長崎港を開きました。長崎は一寒村から貿易都市として発展していくことになりました。

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